第1話 不快な朝

 眠気を湛えた頭をゆらゆら揺らしながら、重い足取りで学校へ向かう。


 夏だというのに雲のせいで日差しはない。そのくせ、じっとりとした湿気が夏服に入り込んで、肌に張り付いてくるのが気持ち悪い。


 学校へ向かう足を止める。このまま踵を返して家に帰ろうと思ったが、『約束』という二文字が頭に過ぎり、再び足を学校の方へ動かす。一歩。二歩。暑い。一歩。二歩。暑い。


 『明日の夜、お願いします』


 昨日の夜に送られてきたメッセージが頭から離れない。自分でも意外だったが、どうも義理堅い方らしい。それとも、自分で言い出したことだからか。


 これさえなければ家に帰って———。そこまで考えて、はっ、と自嘲する。


 あんな家に帰ってもやることなんてない。あんな家に帰っても、学校よりずっと嫌な気持ちになるだけだ。こういった時のサボり先は県立の図書館と決まっている。


 あそこは良い。沢山の本があって、その本を書いた人間が沢山いて、その分だけ物語があって。その一つに浸るだけでも、時間を忘れられる。嫌なことを忘れられる。


 そんなことを考えている内に校門に着く。校舎に飾られた時計は既に始業を超えていて、校門は中に入っている生徒たちを閉じ込め、この一日にやることを全て終わらせるまで逃がさない監獄みたいに閉じている。


 憂鬱な気持ちを一つ溜息として出し、少しスッキリした身体で校門の隣にある小さな入り口を通る。この学校は教室の窓が学校の外側に向いているのもあって、昇降口に向かって歩いている私の姿を見ている生徒もいるのかもしれない。その人から私の姿はどう見えるのだろうか。落ちこぼれか、それとも「不良の登校だ」とでも考え、今しっかりと授業を受けている自分と比べることで優越感でも覚えるのだろうか。


 見られてるかどうかも確認する気が起きず、雲がかかっているのにも関わらず薄っすらと浮かんでいる自分の影に侵されている昇降口までの道を眺めながら、気怠く一歩ずつ歩みを進めていく。


 校門と同じく、既に閉じてある昇降口を開くと、それだけでずしりと肩へ疲弊の重みが圧し掛かる。

 約束さえ無ければ今日ここに居ないことを考えると、本当に呪いでしかない。本当なら学校へ行くフリをして冷房のかかっている図書館で気になっていた小説の一つでも読んでいたと思えば、このメッセージを送ってきた当人が憎たらしい。


 それでも。


 その約束を提案したのは私だ。だからこそ、メッセージを送られたら行かないといけない。


 我ながら面倒臭い提案をしてしまったと思う反面、こうして足を運んでいるのは楽しんでいる部分もあるのだろうと思う。そもそも、自分にとって得があるからこそ提案した『約束』。これを楽しまなければ損というものだ。


 鍵のついた下足入れから上履きを取り出し、履いてきた靴を封じ込める。私が通っているのは共学ではない、ともあれば百合の花咲き乱れる女子高……いや、女学園と言った方が華があるかもしれない。学校が指定した制服を着て、学校が指定した上履きを履いて、その日のほとんどを校舎で過ごす。


 勿論、偉い不良である私は制服こそ着ているものの、下足入れから取り出した上履きは学校指定の革靴ではなく、体育の授業に履くシューズだ。何が楽しくて窮屈なものを履かなければならないのか。何度か注意されたことはあるが、その度に生返事で答える私に辟易としたのだろう。はじめの1ヶ月で何も言われなくなってから、校内ではずっとこれを履いている。革靴の方は何処へ行ったかも分からないし、思い出すつもりもなかった。


 教室へ行くつもりもなく、いつもの居場所へ向かおうと歩いていた最中。授業が終わるチャイムが廊下に響き渡る。

 それと同時に聞こえてきたのは、教室と廊下を繋ぐ扉が開かれる音。そして


「きゃああああっ」


 悦びを含んだ、甲高い声。


 その声が耳に届いた瞬間、ウンザリする。本来休み時間が終わった後でも悠々と通れる道の先に、今日私を学校へと連れてこさせるための約束をしてきた当人が居ることを確信した。

 そうか、今日は朝から移動教室だったのか。授業の時間割なんてものを見る習慣がない自分を少し呪う。だとすれば、図書館で一つくらい本を借りてきて、時間をずらせば良かったと今更後悔する。引き返そうとも思ったが、背後からは別の教室からやってきたであろう女子の集団がこちらへ近づいてくる声が聞こえてきた。


 前門のアイツ、後門の……なんとやらだ。だとすれば私が選ぶのは一つ、前に進んでアイツの近くを通りすぎ、さっさといつもの居場所に避難する、後ろに下がってもアイツがこっちに来る可能性が無いわけもないので、そうするしかなかった。

 一歩一歩、歩みを進める度に黄色い声に紛れてアイツの声が聞こえてくる。女にしては低くて、それでいて通りの良いハツラツとしている澄んだ声。青空とでも表現すれば良いだろうか。きっと私とこんな関係を持っていなければ、素直に綺麗な声だと思えたに違いない。


 そんな声が近づいてくるのが今は心底嫌で、たまらなく面倒くさい。


 やがて見えてきた集団。その中で、頭一つ抜けて背が高く、キザな笑顔を振りまいているアイツが目に入ってくる。

 私が通っている高等女学園、その一年目で晴れて『女学園の王子様』と呼ばれるようになったアイツ。


 月宮照、中性的な顔立ち、長いまつ毛、胸は平たいがモデルのように細くて長い腕と脚。ウルフカットと薄いメイクで纏めたその姿は、まさしく王子様と形容するのが正しい姿でそこに立っていた。


 「ちっ」


 思わず舌打ちが漏れる。月宮の顔を私の居場所に移動するまでの間で見る羽目になるなんて。


 そして、王子様は周りのうざったるいと思えるほどに甲高い黄色い声の中でも、私の舌打ちをお聞きになられる素晴らしい張力を持っているらしい。ゆっくりとこちらを向き、鳥肌が立つほどに美しいと感じざるを得ない笑顔を浮かべた。


 「やぁ、千影。今日は随分と遅いね」


 「……」


 「あはは、相変わらずの不機嫌そうなその顔。まさかこんな時間から見れるなんてね、ボクは幸せものだ」


 そのセリフはきっと私に投げられてるものだと思うが、身体や鼓膜にねっとりとへばりついてくるようで不愉快極まりなかった。


 そしてそれと同時に、月宮を囲んでいる女子生徒たちが私の方を一斉に見る。いや、『睨みつける』。


 『女学園のプリンスから特別に声をかけられる、どうしようもない落ちこぼれの不良生徒』、それが今時点での私の立ち位置で、この女学園における存在の全てを表していた。


 「うぜぇよ」


 自分でも苛立った声が出ているのが分かる。眉を顰めて月宮を睨んでいるのも理解できる。やがて月宮を囲んでいた女子の一人が「照さま、あのような落ちこ……不良ではなく、わたくしの名前も呼んでくださりませんか……?」などとほざき出す。


 「良かったな、私より構ってほしそうな犬が出てきて」


 「……そういうキミの言葉は、いけ好かないね」


 そう言うと月宮は私を落ちこぼれと呼びかけ、別にフォローにもなっていない不良と呼んだ女子生徒の顎に手を添える。


 「でも、最初に千影を貶したのはキミさ。こんな小さくて可憐な口から、落ちこぼれや不良なんて悪口を出しちゃいけない」


 顎クイというやつだ。月宮にそれをされている女子生徒は顔から耳、首までトマトのように真っ赤にしている。


 「ボクは綺麗な言葉を囁く、キミの美しい声が好きなんだ。だから……イイ子になれるね?」


 「は……………、は、ひぃ……」


 脳天まで茹だったらしい女子生徒が倒れそうになるのを、月宮はしっかりと支える。それと同時に湧き上がる甲高い悲鳴。


 「けっ」


 その全てがうざったるくて、さっさとその隣を通り過ぎる。それでも月宮がどんな顔をしているか見てみたい。そう思って振り返ると、月宮は女子生徒ではなく私の方を真っ直ぐに見ていた。


 羨ましそうに女子生徒へ視線を注いでいる周りの女子には気付かれないように、私が振り向くのを理解していたかのように、ぞっとするような視線で。


 そして、声に出さず口を動かす。


 「や」「く」「そ」「く」。


 それだけを伝えると、すぐ周囲の女子生徒や、抱えられているやつの心配をし始める。


 私もさっさと振り返り、いつもの居場所へ行くために廊下の先へと進む。


 「言われなくたって」


 分かってるっつうの。


 何回も繰り返した約束と、その過程と、その結果。今更破られるようなことも無いことを、未だ念入りに確認してくる月宮の態度に、苛立ちが募る。


 今度は授業割をちゃんと取っておこう。そう考えながら、私は深いため息を吐いて『居場所』へと足を踏み入れた。

  

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