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先が見えている。
と言うより、見えていたのだと、今日あの非常階段を見て、漸く気付けた。
彼が属する集団は、彼を助けてはくれない。
彼を食い潰す為だけにある。
「マシ」だとか、「一応」だとか、そういう修飾は一切がまやかしだ。
ここは、彼の敵だ。
金を餌にして、彼の時間と、精神と、善意と、決心、
乃ち、命だ、
それらを喰らい尽くす敵なのだ。
そうなる未来が、見えている。
ここには、彼にとっての不幸しか、残っていない。
捕食者の口の中で、徐々に溶かされている時に、即死しないだけ良いだろうと言い聞かせて、そんな間抜けな動物は居ない。
彼は隣のフロアに向かう。
くたびれて、それでも何とか継続している同僚が居る。
それは、凄い事だ。この店で何十年も、ある意味で不屈と言える偉業だ。
だけれど彼には、その闘い方は出来ない。
彼は企業から、一方的に寄生されている。
せめて共生にしてやらないと気が済まない。
そういう意味では、きっと逆なのだろう。
会社が彼の敵と言うより、
彼が会社の敵なのだ。
同僚が急にやって来た彼を怪訝に思っている。
そこはオーディオ用品のコーナーだった。
彼はエフェクターのデモを一つ、その場で手早く調整して、
試奏用のギターを手に取る。
「ァァァァァ、ア゛ア゛ア゛ア゛アアアアアアア!!」
音量なんて気にせず叩きつけるみたいに、滅茶苦茶に弾き回してやった。
どうせ平日のこの時間に客はいない。来るとしても暇で耳の遠い老人くらい。
お偉いさんもこのコーナーには期待していない。
惰性で続いているような空間だったから、
好き放題ぶっ壊してやりたくなったのだ。
「ウォゥ、ウォゥオオオオオオオオオおおおおおおおお!!!」
そこに言葉は無くて、癇癪のままに振り回すだけ。
商品棚を引き倒して、
責任者が駆け寄るそばから蹴り飛ばして、
非常階段をぶっ壊して、
そうしてやりたいという怨嗟を叫ぶ。
凶行を実現する代わりに、空気を荒げ暴れ回らせる。
でも、そんなもんだ。
音楽なんて、いっつもそうだ。
最初に来るのは、音以外に無い。
もっと根源には、単なる衝動しかない。
高貴さとか裏の意味だとか、後から付いて来る物だ。
体を動かすだけじゃ足りないから、世界を動かそうと活力を浪費するのだ。
一通りやって満足した彼は、デモ機を元の状態に戻して、唖然とする同僚を取り残し持ち場に戻る。
これまで去った者達から聞いた、辞職の際の手順を脳内で組み立てる。
若かりし頃、彼は他を圧倒する才能なんて持ち合わせてなかった。
そして今まで十数年、音楽と向き合わず逃げて来たブランク。
まず間違いなく、成功しない。
例え何かが上手く行ったとしても、
奇跡があるのだと仮定しても、
十年後、二十年後になる可能性が高い。
メジャーデビューなど、望むべくもない。
彼は生涯、自分の金でCDを焼いて、細々と人の手に渡すしかないだろう。
音楽は必ずしも幸せを約束しない。
世界を良くしたりも出来ないかもしれない。
ただ、人の中で、何かを始めるだけだ。
「それで充分」
彼はそう
輝かしい希望なんて一切なくて、
その眼には確かな闘志と共に、
先が見えている。
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