先が見えている。


 底が見えない大穴を前にして、彼は何も出来ない。

 この牢獄は、設定された進路の通り進むだけだ。

 観測されていなかったブラックホールがあったとして、それを避けてくれるような気の利かせ方なんて、回路の何処にもインプットされてはいないだろう。


 ブラックホール。

 天体の最期。

 極めて巨大な重力によって、全てを吸い込み閉じ込める。

 重力は光も時間も押え込んで、停止させ、

 中心点では物理法則が通用しなくなり、事象の地平面となっている、らしい。

 そんな所に突っ込んで、観測して返って来れる奴はいない。

 その中で何もかもが止まると言うのなら、こっちに出て来てくれる物もない。

 だから分からない。机上で論を捏ねてみるしかない。

 故に、「らしい」。

 その先は見えない。


 けれど彼の命運に関して言えば、見え見えである。

 特異点を拝む前に、彼も棺もペシャンコになる。もう誰にも発見されないだろうし、何の痕も残さずに居なくなる。低予算SFスリラーのような、しょっぱい終わり方である。

 

 呑気に室内を打つ、安っぽく単調な電子音。

 ノイズにすらならず、右から左に通り過ぎるだけ。

 破壊的な宇宙的現象がすぐそこにあるのに、眠くなるような静寂しじまは保たれて、蛇口から漏れる水音の如き無感動さが横たえられる。

 避けられない滅びが、あと少しの所に迫っているのに、窓外の光景以外は、末期の心電図みたいに鳴りを潜めている。

 緊迫も恐怖も、何も無いとでも言いたげに。

 

 頭がおかしくなりそうだった。


 それでも彼が安楽死を選ばず、大きくなっていく真黒しんこくを睨み続けるのは、植え付けられた意地が生きているから。


 意地?

 これが意地か?

 見え透いたオチを座して待つ、今の彼に、意地があるのか?


 彼は立ち上がり、机を持ち上げようとした。だがそれは床の一部であり、更にはこの内装全体で一つのパーツだ。椅子も同じ、ベッドも同様。スプーン一本支給されない彼には、それを掲げて振り回すなんて、そんな暴挙が出来よう筈もなかった。


 彼に残されたのは、彼自身だけだ。


「それで充分」


 彼は言った。


「それで十二分」


 それは詩だ。

 それは歌詞だ。


 彼は考古学者だった。

 旧時代の遺物を発掘する過程で、歴史から外れ埋もれてしまった声を聞くのが、彼の楽しみだった。

 一番のお気に入りは、国どころか企業所属ですらない、自主制作インディーズだと思われる一枚。

 それ以外の全てが失われ、たった一つの記録媒体だけ奇跡的に残ったらしい一曲。


 彼はあの曲を聞いているのが好きだった。

 その時の彼は、孤独じゃなかった。それか、孤独でも全然良かった。

 だから、それらが存在した痕跡を残す努力どころか、事実から完全に抹消しようとしていた世界政府を、許すわけにはいかなかったのだ。


「歩けりゃいいさ、言い張りゃいいさ、

 頭ン中だけでも威勢よくいるさ」


 彼には彼が残っていた。

 その頭が、思い出が、声が残っていた。


「ァァァァァ、ア゛ア゛ア゛ア゛アアアアアアア!!」


 シャウト。

 嗚呼、気持ち良い。

 彼はあの頃、世に絶望もしていなかった。

 辛い記憶も、引きずるような失敗もなかった。

 でも人間は、何も無ければ普通に死ぬのだ。

 何も無い人間が死なないでいるのは、「ちょっとスッキリした」とか、そういう何気ない感慨なのだ。

 重みを増していく虚無の積層にも思える“日常”を、変化と破壊に富む“明日”にしてくれる。そんな何かが、人を生に執着させ、躍動させ、どれだけつまらない者にも、幸福になる権利をくれるのだ。


「チリも積もれば山となる。

 クズも集まりゃ星になる。

 無駄も続けりゃ一つの芸で、

 声を重ねりゃ無限にデカく」


 音楽だ。

 彼の世界を雑多な色で塗り埋めていた、雑にパターン化された連奏れんそう

 そのフィルターを通して見れば、全てが毎刻、新鮮だった。

 何事であっても赤ら顔の乙女のように、絶えずくるくると表情を移ろわせた。


 銃弾ですら傷つかず、外に広がるのは虚しい真空。

 彼以外に聞こえる道理は無く、ここ以外にも届かぬワンマンライブ。


 けれど彼は歌った。

 他に彼は何も持たなかった。


 いいや、


 音だ。

 音があった。

 これは墓穴だから、警報なんて搭載されない。

 だから気付くのに時間が掛かった。

 低ぅく、歪んで、削れて、折れて、


 重力が、牢を潰している。

 進行方向から、べこべこと圧縮され、壁が割れ、内臓されていたコードやら基盤やらが露出する。

 単リズムが続くだけの楽譜に、砂嵐のような雑音が殴り書かれる。

 

 彼は後退るのでなく、寧ろそのきずに飛びついた。

 叩き、引っ張り、金属片や火花を飛ばして、

 音を探した。

 彼が欲しかった響きを求めた。

 人類の粋を結集した、部屋を埋め尽くす程の紙幣と等価なそれらを、

 ズタズタに改造・調教して、電子弦楽器・打楽器に生まれ変わらせた。


 自動修復機構を足で踏みつけながら、身体を仰け反るほど満身の力で、ケーブルの一本を引き出した。

 6弦を長く引っ掻いたような、退屈を切り裂く音がした。


 彼の頭上が、また少し押し迫る。

 内気循環装置は機能不全に陥り、重傷化した裂け目からは、懐深い黒色が覗く。


 大気を犯す音楽が、退屈を蹂躙する熱狂が、諸共に吸い上げられていく。

 無味乾燥が荒寥こうりょう茫漠ぼうばくに、搾り削られていく。


 誰が何を言わずとも、

 明らかに、


 先が見えている。

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