先が見えている。


 商品コードを読み込み、値札を貼り付け、所定の位置に陳列する作業の中で、ガサガサに乾燥した指紋の隙間に埃が入り込む感覚に辟易しながら、ふとそう思った。


 一つ隣のエリアを、彼と同じようにワンオペで回している、初老の同僚が目に入ったから、そんな事を考えたのだろう。


 あれは、未来の彼の姿だ。

 

 大した給与も貰えず、休みは週に1、2日で、大抵は疲れ切って眠っている。

 開店準備から閉店作業まで、13時間労働を連続して強いられ、身に着くのは潰しの効かない知識やスキルばかり。


 転職活動の為に費やす、体力も気力も時間も全て奪われ、「残業代は出るから最悪ではない」という事実が、危機感さえも鈍らせる。


 ホスピタリティを履き違えた上層部が、夜10時まで店を開けるのが客の為だと言い張り、余計な光熱費が嵩んで行く。評価は売上でなく利益ベースで語られ、経費による圧迫は常に悩みの種。その癖社員に金は使いたがらず、心を壊して辞める者は毎年のように出て、残った者が働く時間は余計に短縮出来なくなる。

 着替えや朝礼の無給化は常態となり、それでも記録上すら定時を装えない。

 残業が45時間を超えると、烈火の如く怒り出すが、それならばシフトを組む時に、30時間の残業まで組み込むのをやめろと言いたい。そうしないと回らないと言うのなら、それはもう機能不全だ。営業時間短縮でも、何処かの店舗を潰して他に回すでも、何か手を打って改善しなければならない。

 けれど新型感染症爆発の際ですら、ギリギリまで自粛せず、いち早く通常営業に戻したと言うのだから、働かせたがりは筋金入りだ。

 

 こうなって来ると当然無理が出るのだが、その皺寄せは管理職に行く。

 彼らは残業無制限可能の、便利キャラ扱いをされていて、埋められない穴は彼らで塞ぐ。

 基本給は殆ど上がらず、責任と倍近い残業が付いて来る。

 そんな物、当然誰もやりたがらない。

 有能な人間は本社に行けると言うが、そこに着く以前に身体か心がダメになるのが目に見えている。その結果、本当に優秀な人間か、ゴマすりと威勢に定評がある小物か、どちらかが上に立つ事になる。が、前者は結局いつか本社に引き抜かれ、現場に残るのは少し足りてない人材だけ。


 絶対に辛い事が確定している職場で、抜けようと足掻く程に仕事や理不尽が増えて、だから皆現状に甘んじるようになった。心を動かす方を諦めた。


 だから、先が見えているのだ。

 ここから変わらず、ヒラの販売員のままで、老いるまで勤め上げる。

 それか、心身の軋みが閾値を超えて、破綻する。

 そのどちらかしか、彼らには無いのだ。

 

 彼は常々、残業代とは指数関数的に上がるべきだと思っている。

 残業ナシと、残業2時間と、残業5時間。

 始まる前の精神も、パフォーマンスを維持する労力も、終わった後の疲弊度も、天と地ほどの差があるのだ。

 出勤から12時間目から始まる1時間は、定時内の1時間と比べて、数倍の重みを持っている。

 だから、金をくれと、平たく言えばそういう事だ。

 せめて希望を、「稼いでいる」自尊心、何なら安心感の領域に入るそれをくれ、と。

 

 だけれど、そうはならない。

 彼は今日も、このコーナーを一人で13時間、「良質な接客対応」を受けれる場所として、成立させ続けなければならない。

 最低賃金より少しマシ、程度の報酬を受け取って。


 夢を見ていた頃を思い出す。


 言いたい事を言い、鳴らしたいように掻き鳴らして。

 あの頃は何も見えなかった。この先どうなるのか見当も付かなかった。

 このまま人気が出て表舞台まで駆け上がるのかもしれないし、芽が出ず機会に恵まれず挫折して去るのかもしれない。どっちになるか、それを見る為にガムシャラに走っていた。


 だけど、結局どっちだったのかは、分からなかった。

 大枚を叩いて揃えた一式、両親にその全てを捨てられ、「夢を諦めろ」と言われた。

 いい加減に目を覚ませ、そんな世界で成功できるわけがない。

 ただ普通に安定した生き方をして、安心させてくれ、と。

 自分の生き方が、最も身近な人達をそこまで傷つけていたのだと、彼はその時初めて知った。

 

 彼はまず、安定させようと思ったのだ。十分に金を稼いで、その間は趣味でやって、両親を安心させた上で、改めて本腰を入れれば良いと。

 だから、有名な企業に就職して、まずは道具を買い直す資金を得る所から始めようとして、


 しかし彼は失敗した。

 失敗したから、彼はここに居る。

 

 今の彼は、もう挑戦出来ない。

 家に帰っても、趣味がどうとか言う余力が残っていない。

 かと言ってこの職を失えば、金が手に入らず、何も出来なくなり、両親にもまた迷惑と心労を掛ける。

 だから彼は、続けるしかない。


 今の彼には、はっきりと先が見えていた。


 責任者に呼ばれる。

 大きく重い什器じゅうきの撤去を、手伝って欲しいと言われた。

 しかしバックグラウンドには、もう何かを入れる余裕が無い。

 彼がそう言うと、責任者が得意な顔をして、こっちにスペースがあるのだと教えてくれた。


 そこは非常階段だった。


 いざという時の避難路には、人が通れない程ギッシリと、使わなくなったPOPや什器や展示用デモ機が積み上げられ、それらを動かすたびに気管をザラザラと撫でられた。


 この会社の優先順位では、人間は何よりも後回しだ。

 彼はそういう組織で働いている。

 いつか限界が来て、その時は新品の部品が新たに入荷しているから、お役御免として捨てられるのだろう。

 そう言い切れるくらいには、

 此処を信用していないから、


 先が見えている。

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