太陽はカンヴァスの中に輝く

朽尾明核

Nosferatu -夜種-


 †


 アトリエの扉がノックされた。キャンバスに集中していた意識が現実に引き戻される。

 懐中時計を確認する。午後七時。あらかじめ手紙で伝えられていた通りの時間だった。

 慌てて描きかけの絵を片付けると、私はドアを開けた。


「どうぞ」


 来訪者は二名。

 先に入ってきたのは女中メイド服に身を包んだ、若い女だった。

 まだ少女と言ってもいいくらいの年齢かもしれない。長い黒髪。白い肌。怜悧な瞳。すっと伸びた背筋。彼女は、人形のように美しく、表情がなかった。


 メイドの後ろに続くように、もうひとりも姿を現す。


 ぎぃ、と。

 古い床が軋んだ。


 彼がアトリエの中に足を踏み入れた瞬間、室内の温度が下がったような気がした。


 私の背筋をひと雫の汗が流れる。

 暗い部屋を照らす、オイルランプの火が揺れる。


 初老の男であった。


 仕立てのよいコートに身を包んだ、背が高く、それでいて線の細い男だ。

 後ろに撫で付けられた白髪。猛禽類を思わせる、鋭い目つき。大きな鷲鼻に、痩せこけた頬。



 吸血鬼ヴァンパイア――メレディス・レッドグレイヴ伯爵その人であった。



 ゆっくりとした足取りで、伯爵は椅子へ腰掛ける。

 用意してあるのは、安い椅子だ。貴族が座る椅子にしては、酷く不釣り合いに思えた。

 狭いアトリエの中で、私と伯爵は向かい合うようにして座る。

 メイドは、椅子に座らず、壁際に立ったままだった。


 沈黙。

 威圧感。目の前の人物から発せられる空気が、重くるしい。


「天才らしいな」

 出し抜けに、伯爵が口を開いた。低い声だった。

「はい?」

「ランドルフ・カーヴェル君――君のことだ。稀代の天才画家。そう聞いている」

「ははあ」


 こういった時、果たしてどう答えればいいのか。いつまで経っても他人との会話は慣れない。


「まあ……、おかげさまで、なんとか絵でパンが食えています」

倫敦ロンドン中が君の噂で持ちきりだ。なんでも、描いたネコがキャンバスから飛び出して鳴いてみせたとか、君に細君の肖像を描かせた貴族が、本人よりも絵の方を愛してしまった――だとか」

「……噂には、尾鰭が付きますから」

「君の実力を見込んで、依頼がしたい」

「手紙でも、そう書かれていましたね」


 アポイントメントを取るための手紙。そこには伯爵から私に絵の依頼をしたいという文面が書かれていた。もっとも、何を描いて欲しいのかは記されていなかったが。


 レッドグレイヴ伯爵は、ひとつ、大きく息を吐き出してから、切り出した。


「太陽の絵を、描いてもらいたい」


「……太陽、ですか」

「そうだ」

「変わった依頼、ですね」

 貴族からの絵の依頼といえば、肖像画がほとんどであった。ときおり、宗教画の依頼があるくらいだ。


「君は、吸血鬼というものについて、どれくらいの知識がある?」

「恥ずかしながら……全くの無知です。それこそ、人間の血を吸う――ということぐらいしか」

「一般的な認識はその程度だろうな」伯爵は口許を斜めにする。「人の理を外れ、夜の眷属となった我々吸血鬼は、太陽の光に弱い」

「日焼けをしてしまうんですか」

「その程度で済めば助かるのだが」伯爵は笑った。「吸血鬼は、陽の光を浴びると、身体が崩れて灰になってしまうのだよ」

「死んでしまうじゃないですか」

「そうだ。だから、私は、もう永い事、太陽を見ていない」伯爵は、すっと目を細めた。「最後に太陽を見たのは、私がまだ人間であったころ――もう、八百年も前になる」


 そこまで言われれば、勘の悪い私でも、なぜこのような依頼をするのかは、想像がついた。


「もう一度、太陽の光を見たい。それが、私の願いなのだ」

 吸血鬼は、どこか遠い場所に視線をやりながら、そう言った。







 レッドグレイヴ邸は、辺境の田舎町――その森の奥にひっそりと佇んでいた。

 ゴシック調の建築様式は、宗教的な色を含みながら、同時に荘厳な空気を漂わせている。


 大きな屋敷であった。

 屋敷の大きさに比例するように、庭園も広い。

 だが、かつての栄華はいざしらず、いま現在は――屋敷も、庭も荒れ果てていた。


「カーヴェル様、お待ちしておりました」


 門のあたりでまごついていると、声を掛けられた。この前、伯爵と共に私のアトリエに来たメイドであった。名は、ミナというらしい。


 彼女の後ろに続いて、庭を進む。


「お恥ずかしい限りです」

 ミナが口を開いた。恥ずかしいどころか、一切の感情を感じさせないような、冷たい口調であった。


「え?」

「荒れているでしょう、庭が」

「まあ、そうですね」

「使用人が、私しかおりませんので」


 意外な事実だった。


「伯爵家なのにですか」

「形だけの爵位です」


 人ならざる者が社会的な地位を得るということは、私の想像も及ばないような紆余曲折があるのだろう。


 レッドグレイヴ邸の扉を、ミナが押した。軋んだ音を立てながら、扉が開かれる。


 ――暗い。


 邸内は、酷く暗かった。無論既に太陽が傾いているというのもあるが、それを加味しても暗すぎる。

 理由はすぐにわかった。邸宅の、ありとあらゆる窓に、板が打ち付けてあったのだ。おそらく、太陽の光を遮断するためだろう。


 燭台を持ったミナの後ろをついて歩く。案内されたのは、二階の一室であった。


「こちらでございます」


 広い部屋だった。ベッドも、家具も、高級なものであることが一目でわかる。この部屋だけは、他と違い、窓に板が打ち付けられてはいなかった。橙色の夕日が、差し込んでいる。


「なにかございましたら、ベルを鳴らしてください。ご夕食の準備ができましたら、お呼びいたします」


 ミナはそういうと、一礼してから退室した。美しいカーテシーだった。







「君は、私が恐ろしくはないのかね」


 夕食時、伯爵はそう問いかけてきた。

 三人で囲む、レッドグレイヴ邸での最初の夕食だ。意外にも、伯爵は私たちと同じ、ごく普通の――豪華な――食事内容だった。人間の血を飲まずとも、力は半減するが、生きることはできるらしい。


「恐ろしい……、ですか?」


 私は尋ね返す。ちらりとミナが横目でこちらを伺うのが見えた。使用人が主と同じ食卓を囲むというのも珍しい。もっとも、この家にはふたりだけしかいないのだから、食事の時間をズラす意味は無いのだろう。


「そうだ。君のアトリエで絵を描けば良いのに、わざわざ吸血鬼の館を訪れるなど、相当な物好きか、怖い物知らずか……そう思うのだが」


 絵を描く場所を借りられないかと提案したのは、私であった。

 貴族から依頼を受けた際、大体はその依頼主の家を間借りすることになる。これは、今回のケースに限った話ではない。

 依頼をする側としても、「画家に環境ごと提供できるだけの財力がある」ということを示すため、そうする場合が多い。


 だからこそ、自然・・だったのだが、今回のケースでは裏目を引いたらしい。


 伯爵とミナ。ふたりの視線を受け、私は誤魔化すことを辞め、正直に話すことにした。


「私は――、絵というものは心を映す鏡だと思っています」

「……ふむん?」

「画家は、自身の心を掬い取り、絵にするのです。私の場合は、そこで、人の心を掬い取ることができます」

「というと?」

「以前、私が世話になった大家の飼っていた猫が亡くなりました。私は、その大家の飼っていた猫の絵を描きました。彼の、『もう一度猫に会いたい』という気持ちを絵に込めながら――。絵を渡した数日後、大家は『絵の中から猫が出てきてくれた』と言いました」

「……」

「もちろん、実際に猫が絵の中から出たわけではありません。絵に込められた思いから、彼がそう『錯覚』しただけです」


「ほほう」伯爵が、興味深そうに笑った。


「ある貴族が奥方の肖像画を依頼してきました。私は、彼の『かつてのように・・・・・・・妻を愛したい』という心を絵に描きました。結果は――」

「その男は、妻本人ではなく、肖像画を愛してしまった、と」


 あれは、苦い思い出だった。


「なるほどな」伯爵が口許を歪める。「話が読めたぞ。それが君が評価されている理由か。依頼した人間の心を読み取り、気持ちを絵に込めることで、絵を見た依頼者は、まるで魂を揺さぶられるような感覚になるわけだな」

「はい」


 だから、


「私と近づき、共感することができれば、私の魂を振るわせる『太陽の絵』を描き上げることができる――そういうことか」

「――はい」


 私の返答に、伯爵はくつくつと喉を鳴らした。


「いや、期待通りだ。ランドルフ・カーヴェル君。やはり君に依頼をしてよかったよ」







 ――などと、大言壮語を吐いておきながら、それから二週間、私は一向に太陽の絵を描くことが出来ずにいた。


 大見得を切った手前とても恥ずかしいことではあるのだが、まったくもって描けていないのである。


 朝、早く起きると陽が昇る前にレッドグレイヴ邸を出て、近くの丘へ行く、そこから朝焼けを眺めるのが習慣になっていた。

 昼食をミナと二人で摂ったあとは、部屋へ篭もりキャンバスと向き合う。その後、夕食を三人で摂り、就寝。


 大まかにはそのように一日が流れていった。


 キャンバスは白いままだ。

 つまり、二週間経っても、私はレッドグレイヴ伯爵の気持ちが何一つわからないでいるのである。彼が太陽を望む気持ちについて、まったくもって共感できないのだ。


 無理からぬ話だ。


 永い時を生きる、人間を超越した怪物。その気持ちを、どうやって理解すればいいのか。

 三百六十五日、天気が良ければいつでも見られるような太陽。

 それを永遠に見られない者の気持ち。

 八百年間太陽を見ていない者の気持ち。


 ――わからない。


 「激しい渇望」

 「人間であった頃の懐かしさ」

 「二度と手に入らない物への諦念」


 どれも正しく、どれも間違っているように思えた。おそらく、こういった言葉にするのが難しい感情が、複雑に混じり合っているのだろう。


 ただ、そこを構成する1ピースが、どうしても足りないように思えるのだ。


 あとひとつ。何かがある。

 それが、わからなかった。


 まずいのは、この生活――レッドグレイヴ邸での生活を、気に入っている自分がいる事だ。


 三人しか居ない館で、時間がゆっくりと流れるような生活。

 せかせかと忙しない倫敦での都市生活とは真逆の日常。それを、心地よく感じてしまっているのである。


 夕食時の伯爵との語らいは、日々の楽しみになっている。永遠を生きる者としての、彼の体験談は非常に興味深い。薔薇戦争を経験した話や、シェイクスピアと会った時の話などは、歴史のドラマとして極上のものである。


 ミナについてもそうだ。最初は冷たく、無表情な彼女に気圧されていたが、二週間も共に過ごし、話してみれば――無表情ではあっても無感情ではないと気づく。『ジェーン・エア』を愛読書にしていたり、自室で鉢植えを育てていたり、そういった人間らしい面も見えてくる。

 最近では――相変わらず無表情のままではあるが――冗談を言ってくれるようにもなってきたのである。


 そういった具合に、私はこのレッドグレイヴ邸での生活とそこに住むふたりを、快く思っていたのだった。


 そうして、二週間が経った日のこと。


 事件が起こった。






 夜。


 私は自室で目を覚ました。

 物音がしたのだ。


 上半身を起こす。空耳か?


 否。


 微かではあるか、たしかに聞こえる。

 誰か、男の叫び声。暴れる音。何かが割れる音。


 そして――銃声。


 背中が粟立つ。いやな感覚。戦場アフガニスタンで嫌というほど聞いた音。

 ベッドから降りる。

 無視はできない。


 私は、燐寸を擦過し、オイルランプに火をつけた。

 懐中時計を見る。時刻は、深夜の二時を過ぎていた。

 机の抽斗から回転式拳銃ウェブリー・リボルバーを取り出す。

 弾数を確認――六発。


 部屋の扉を開け、廊下へ出る。

 暗い。

 ランプの光で照らしながら、慎重に廊下を進む。


 心臓の音がうるさい。

 落ち着け。

 深呼吸。


 階段を下りる。

 怒声が聞こえる。一階の、エントランスの方向からだ。

 少し迷ったが、そちらに歩みを進めることにした。


 廊下を進む。曲がり角に差し掛かる。

 そのとき、けたたましい足音が、曲がり角の先から聞こえてきた。


 誰だ――。

 銃を構える。


 廊下の曲がり角から、一人の男が飛び出してきた。

 若い男だ。知らない男だった。

 顔の半分が、血で濡れていた。

 両手に、散弾銃ショットガンを抱えている。


 反射的に、照準を男に合わせる。

 同時に、男も銃口を私に向けた。


 互いを互いの射線が捉える。

 このまま引鉄を引けば、相撃ちになる。


 死――。


 次の瞬間。

 横から、小さな人影が、男に跳びかかっていた。

 はためくメイド服のスカート。

 ミナだった。


 ミナは、男に跳びつくと同時に、銃を構える男の腕をぐいと引っ張った。

 射線が、私から逸れる。


 銃声。


 一瞬の銃口炎が闇を照らす。

 廊下に飾られている壺が割れた。


 ミナは――男の腕を引っぱった手とは逆の手に、ナイフを握っていた。


 滑らかな動き。


 暗闇の中を、銀色の線が走る。

 まずは、喉。

 次に、両腕の腱。

 そのまま、太腿の動脈を切り裂く。


 彼女の握ったナイフは、光の軌跡を描くと、最後には男の心臓へと突き立てられていた。


 速かった。

 男は、断末魔をあげる暇さえなく、糸の切れた操り人形のように崩れ落ちた。


「ご無事ですか」


 ミナが言った。

 私は、自身の身体を検める。男の撃った散弾銃の弾は、どこにも当たっていなかった。彼女のおかげだった。


「大丈夫だ。ありがとう――」


 いったい何が起きているのか。

 この男は何なのか。


 私が質問しようとしたその時。

 廊下の奥から、さらにもうひとり、姿を現した。


 美しい男だった。

 若い男だ。

 それ自体が発光していると錯覚するほど美しい、白金の髪。うっすらと筋肉のついた、均整の取れた肉体。怜悧な輝きを持った瞳。神が彫刻をしたような、ぞっとするほどの整った顔立ち。

 知らない男だった。


 だが、同時にどこかで見たことがあるような気もした。


 まさか――、


「レッドグレイヴ伯爵……?」


 私のつぶやきに、美しい男が首肯を返す。


「ランドルフ君。怪我はないかね」


 見た目は、違う。

 明らかに、若返っている。

 しかしながら、その口ぶりは、たしかにメレディス・レッドグレイヴ伯爵その人であった。


「伯爵、そのお姿は……?」

「――ああ、これか」


 私の質問に、伯爵は自らの身体に視線を送る。


「これは――」


 伯爵が質問に答えようとしたとき、



 私の身体が後ろに引っ張られた。



「――動くんじゃねぇ!」



 男の野太い怒声が、耳元で鳴り響く。恐ろしい力で、身体が抑えつけられていた。

 関節を捻り上げられる痛みに、顔を歪ませる。

 私は後ろから、立ったまま拘束されてしまっていた。


 蟀谷こめかみに硬い感触。銃口が押し付けられているのを感じる。


 どうやら、男たちの仲間がひとり、残っていたようだ。

 物陰に身を隠し、私を背後から襲ってきたのである。

 ――というより、位置関係から推測すると、この男が身を潜めている場所に、私がのこのこと足を踏み入れてしまったらしかった。

 迂闊。


 私の身を案じたミナが、身を屈める。


「動くなっつっただろ!」


 男はミナの動きに敏感に反応し、照準をそちらに向ける。

 銃口を向けられたミナが、身体の動きを止める。


「てめえもだ吸血鬼ヴァンパイア! それ以上近づくんじゃあねえぞ!」

 続いて、伯爵にも狙いを定める。


 伯爵の目が暗闇の中で光った。

 すっ――と。

 伯爵の腕が前に伸びる。


「なにを――」


 パチン、と。

 伯爵が指を鳴らした。


 それで、終わりだった。


 なにか、鋭い風のようなものが、私の頬の横を通り過ぎた。

 一瞬のできごとだった。


 私を拘束する、男の腕の力が緩む。

 拳銃を握った手が、力なく落ちる。


 私は、何が起こったのかわからず、恐る恐る男の方を振り返った。


 男の、頭部。

 ――その右半分が、存在していなかった。


 男は、「ごぽっ」と口から血を吐くと、ゆっくりと後ろ向きに倒れた。

 欠けた頭部から、血と脳漿が零れ落ち、床を汚した。


「すまない――」伯爵が、私の方へと駆け寄ってきた。「まさか、君を巻き込んでしまうことになろうとは……。本当に、申し訳ない」

「えっと、その……」私は、何が起こったのか、理解するのに必死だった。「彼らは、いったい?」


 伯爵は、男の死体から首飾りを取ると、私に投げてよこした。

 十字架と、狼の意匠が施されたペンダントだった。


「この男たちは、吸血鬼ヴァンパイアハンターだ。私の命を狙って、屋敷へと侵入してきた」

「え……?」


 私は、声を失う。


「その、吸血鬼であろうと、殺せば殺人では?」

「表向きはな」伯爵は、自嘲気味な笑みを浮かべる。「だが実際は、教会によって私の首には懸賞金がかけられている。三代は遊んで暮らせるほどのな。『狩り』に成功すれば、私は『事故死』か『自殺』として処理され、私を殺したハンターは莫大な報酬を手にする手はずになっている」

「そんな……」

「ときどき、懸賞金につられた奴らが、こんな風に襲撃を掛けてくる。あまり血は飲みたくないんだが――その時はこうやって、血を吸い、力を取り戻すのだ。鬼としての、化け物としての力をな」


 吸血鬼。人間の血を吸い、夜の力を取り戻した、闇の眷属。


「私は、死ぬわけにはいかない。少なくとも、こんな奴らに、殺されるわけには――」


 伯爵は、私に対してではなく、誰にともなくそう呟いた。

 美しい横顔だった。

 憂いを帯びた、その表情。

 そこに浮かんだ感情――。


 その、伯爵の表情を見たとき。

 私に、

 私の脳裏に、


 ――何か、電流のようなものが走った。







 ハンターたちの死体を処理するミナを手伝った。

 無論、彼女からは客にそんなことをさせられないと断られたが、なかば無理を言うような形で強引に手を貸す。


 その後、私は自室に戻る直前、ミナにこう言った。


「ミナ、すまないが――しばらくの間、絵を描くために部屋に籠りたいと思う。集中したいから、声を掛けたりするのを、やめてもらっていいだろうか」

「かしこまりました。お食事は、いかがいたしますか?」

「部屋の前へ置いておいてくれ」

「はい」


 ひとりになった私は、自室でキャンバスと向き合う。

 興奮していた。

 伯爵の気持ちに、共感できたのだ。


 彼の心を、理解できた。


 太陽に対する、その感情を。


 筆を取る。

 絵具を混ぜる。

 色を置いていく。


 「激しい渇望」

 「人間であった頃の懐かしさ」

 「二度と手に入らない物への諦念」


 それらに加えて、最後の1ピース。


「希死念慮」


 伯爵は、死にたがっていた。


 自らの身体を焼き尽くし、灰へと変える恐ろしき処刑人。


 しかし、伯爵は、それを欲していた。

 裁かれることを望んでいたのだ。


死ぬわけにはいかない・・・・・・・・・・


 できることならば、死にたいのだ。


 死にたい。


 死。


 あっという間に日が昇り、沈む。

 朝、夜。

 朝、夜。


 集中すると、感覚がわからなくなる。

 私と、絵。

 世界にはそれだけ。


 時折、部屋の扉を開けて、ミナの用意してくれた食事を飲み込むように体に放り込む。


 それすら、もどかしい。


 色。

 塗る。

 朝、夜。


 色。

 塗る。

 朝、夜。


 色。


 私の、心を。

 彼の、心を。


 少しずつ、組み立てていく。


 色。

 色。

 色。



 色。



 色。



 色――。








 唇に、硬いものがあたる。目を開く。スプーンだ。

 ミナが、私の頭を抱え、スープを口に流し込んでいる。

 どうやら、食事を摂ることを忘れ、倒れてしまったらしい。彼女は、心配して、扉を開けて入ってきたようだった。


 私を介抱しながらも、彼女の瞳は、キャンパスに釘付けであった。

 朝日が、窓から差し込む。彼女の美しい顔に、太陽の光があたっていた。


 ミナは、泣いていた。


 この屋敷に来てから、一度も表情を崩さなかったミナ。

 彼女に涙を流させることができたのなら――。


 おそらく、大丈夫だ。


 私は、安心して目を閉じた。

 

 




 翌日。

 しっかり回復した私は、館の一室で伯爵を待っていた。


 部屋には、私の描いた絵が置かれている。キャンバスには、布が掛かっていた。


 橙色の光が揺らめく。

 ミナが、シャンデリアを用意してくれていた。

 燭台の蝋燭に照らされ、夜であるにも関わらず、部屋はかなり明るくなっている。無論、伯爵に絵を見てもらうためだ。


 風呂にも入り、さっぱりとした状態で、伯爵を待つ。

 うきうきと、年甲斐もなく浮足立っている。私は、絵を描くのも好きだし、描いた絵を見てもらうことも好きだった。


 部屋のドアがノックされる。


「どうぞ」


 声を掛ける。ミナに連れられて、伯爵が部屋の中へ入ってきた。

 伯爵の年齢は、まだ若いままだった。血を吸って取り戻した力は、しばらくの間残っているらしい。


 キャンバスの前に置かれた椅子に、伯爵が腰を下ろす。


「ついに、描けたようだね」伯爵が言った。

「ええ、おかげさまで。お待たせしてしまって、申し訳ありません」

「いや、構わない。どんな素晴らしい絵なのか、楽しみだ」

「では、早速――ご覧ください」


 私は、キャンバスに掛かっている布を外した。


 絵が、現れる。


 ひとりの男が立っていた。

 こちらに背を向けていた。

 初老の男であった。

 男は小高い丘の上から、太陽を見ている。

 朝焼けだ。

 直接、太陽を見ることはできない。男の背が邪魔になっているからだ。

 だが、少しずつ染め上げられる空が、キャンバスいっぱいに広がっている。


 ひかりの、色。


 影。男の背中の影。

 雲の影。木の陰。岩の影。

 そういったものが、ひかりの色を強調している。

 陰と陽。

 この、太陽を全身に浴びている男が、何を考えているのか。

 何を感じているのか。

 それは、この絵を見たものだけが感じ取れる。



 これが、私の『太陽の絵』だ。

 


「ランドルフ君――」伯爵が、声を漏らす。震えていた。「ありがとう」


 彼の頬を、涙が流れていた。


「私は、これが見たかった――」


 満足してもらえた。




 そう思ったのは、一瞬だった。




「……伯爵?」


 異変に気付く。

 伯爵の身体が、淡く光っているように見えた。


 錯覚か?

 

 いや、違う。

 たしかに、光っている。


 なぜ。


「旦那様!」


 ミナが悲鳴をあげた。聞いたことないほど悲痛な声だった。


 困惑。

 これは?


 伯爵も、自らの身体の異変に気付いたようだ。

 しかし、特に慌てた様子はみせなかった。


 彼は、私とミナへ、交互に視線を送る。


「ふたりとも」伯爵が笑った。「ありがとう――」


 次の瞬間。


 伯爵の身体が、ぼろぼろと崩れ落ちた。

 崩れた先から、灰色の塵へと変わっていった。


「あ」、と。


 私は、間抜けな声をあげた。


 しかし、私は、自分の犯した所業を。


 愚かな間違いを。


 後悔する時間すら与えられなかった。






 あっという間に、伯爵の身体は、灰へと変わってしまった。






 あとの部屋には、莫迦みたいにつっ立ってる私と、

 顔を抑え蹲る、ミナだけが残された。








 列車が揺れる。

 私は、ミナとふたりで、コンパートメント席に座っていた。

 彼女の膝には、伯爵の遺灰の入った箱が置かれている。 


 窓の外へ目を向ける。空は灰色に覆われていた。


 意図しないとはいえ、吸血鬼を――レッドグレイヴ伯爵を滅してしまった私は、他の吸血鬼に対して敵対の意思が無いことを示す必要があるとのことだ。


 申し開きだ。

 そうしなければ、他の吸血鬼から報復されかねないと、ミナは言った。

 そのために、私たちは現在、伯爵が懇意にしていた吸血鬼の許へと向かっている。彼の遺灰と、遺言を携えて。


「あまり、気に病まない方が、よろしいかと」


 ミナが言った。


「気に病むなと言ったって……」


 予想してしかるべきだった。私の描いた絵の持つ、力について。

 猫に会いたいと思った者が、猫の声を聴いたように。

 太陽が見たいと願った者が、絵の中に太陽・・・・・・を見てしまう・・・・・・可能性を、考えておくべきだった。


「旦那様は、死にたかったのだと思います」


 ミナが言った。彼女だって、主人を殺した私に言いたいことがあるに違いなかった。しかし、恨み言ひとつ言ってこない。


 気を使われているのだ。自分より遥かに歳下の少女に。自分より遥かに伯爵と親しかったメイドに。


「旦那様は、しかしそれは許されないと仰っていました。私には責任があるのだと。殺された仲間たちに、血を吸った人間たちに、殺してきた狩人たちに対して、責任がある。だから、自ら命を絶つようなことはできないと」

「――」

「ですが、やはり――疲れてしまったと、そう、呟くことも、ありました」


 それでも――付き合いの長い彼女ミナを差し置いて言えた義理ではないが――それでも、私は伯爵に生きていて欲しかったのだ。


 口には出さない。そんなことを言えば、私の前に座る彼女への侮辱になるからだ。殺しておいて、どの口がそんなことをほざくのだ。


 ミナは、懐から一通の手紙を取り出した。


「すこし、落ち着いたようなので、お渡しします」

「……これは?」

「旦那様は、この事態を予見されていました。私たちにも、遺言を残してくださったのです」


 手紙を裏返す。

 宛名。


 〝私の最後の友人〟――ランドルフ・カーヴェルへ〟


「今すぐでなくとも構いません。――ランドルフ様。心の整理がつき次第、お読みください」ミナが言った。「旦那様が、何を思ったのか。それを、受け止めていただきたく思います」


 私は――少し躊躇ったが頷いた。

 コートの内ポケットに、伯爵の手紙をしまう。


「ありがとう、ミナ」私は礼を言った。「そうすることにするよ」


 列車が徐々に速度を落とす。

 窓の外を見る。

 雲の切れ間から、太陽の光が差し込んでいた。天使の梯子のようだった。




 ――吸血鬼が恋焦がれた太陽は、今日も私たちの空に輝いている。




〈了〉

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