第16話 愛猫を探す無垢な第二王子
ヴィオレッタがマイケルの寝室に侵入している同時刻。
第二王子ミゲルは身支度を済ませ、王宮の廊下を歩いていた。
「……フローラ、いないのか? フローラ……」
彼は朝起きて、ミゲルズ=スーパー=キューティフル=ゴージャス=シルク=フローリ(略)が自室に居ないことに気が付いた。
そのため、いつもよりも早くに朝の支度を済ませ、愛猫を探しに出かけたのである。
早朝なので、あまりうるさくすることもできない。
小声で愛猫を呼びながらいろいろなところを歩いてみるが、どうにも愛猫を見つけることができなかった。
(もしかして、あの第三王女のところに)
先日、愛猫がヴィオレッタの膝の上でくつろいでいたことを思い出し、ミゲルは眉根を寄せる。
ミゲルの愛猫は本来、このように部屋を脱走するような猫ではなかった。
初めての脱走が、先日のことである。
普通に考えれば、あの女が何かしたのだろう。
(あの女、一体なんなんだ)
脳裏にヴィオレッタの姿が浮かび、心臓が跳ねて、ミゲルは慌てて首を振る。
敵国ヴィンセント王国から嫁いできた第三王女。
弓張月のような女がもてはやされるかの国から来た女は、この国でも見ないような豊かな魅力を放つ悪魔だった。
ミゲルの名前を呼ぶぽってりとした赤い唇も、愛猫を手渡すときに見せつけてきた魅惑の双丘も、彼女が手慣れた悪女であることを指し示している。
(私は、誘惑には負けない!)
二つ年下の弟メルヒオールは既に堕ちているようだし、三つ年上の兄マイケルも、彼女を婚約者にすると言い出したりと、その手に堕ちかかっているようだ。
下の弟二人も興味津々のようで、「すごい! すごい人が来ましたよ、モーリス兄上! 魅惑のボディですよ!」「マクシム、安心しろ。俺が彼女をお前の義姉にしてやる!」「僕がプロポーズするので黙っていてください!」「あのもちもちは俺のものだ!」「僕が彼女を体から幸せにするんです!」と下衆な会話を繰り広げて、王妃二人に連行されていた。あの二人は生き方を省みたほうがいい。
とにかく、最後の砦は、きっとミゲルだ。
そのミゲルをあんなふうにもちもちの体で誘惑してくるなど、なんで危険な存在なのだろう。
(何を企んでいるんだ!)
昨日、それとなく彼女の王子妃教育を行う教師団のチーフ、教師フィフスに話を聞いたところ、彼女は呆れた顔をしてミゲルを出迎えた。
「あなた方はもう……これで七人目ですよ……」
「七人目?」
「いえ。……ヴィオレッタ様はとても優秀です。正直、すごい才能ですよ。彼女の頭はどうなっているんでしょう」
「え?」
フィフス曰く、ヴィオレッタはほとんどノートを取らない。
静かに授業を聞き、いくつか質問をし、少し瞑想するように目を閉じると、にっこり笑って「ありがとう」と言うのだ。
初めは授業を真面目に受けていないのかと思い、その場で授業内容に関する試験を行ったが、驚くことに、ヴィオレッタは授業の内容を全て把握していたのだという。
国語、外国語、歴史、マナーなどの暗記系の科目のみならず、数学や物理の思考訓練が必要な科目ですら、そうらしい。
「見稽古……とでも言うのでしょうか。彼女は、授業中、瞬きをしているのか不思議なくらいの様子で、私達を見て、聞いています。ものすごい集中力です」
「彼女が、そんな……」
「彼女は逸材ですよ。これで判断力が伴うのであれば、まさに王妃の器にふさわしいかと」
いや、王妃よりも研究者になったほうが国のためなのでは……と呟くフィフスに、ミゲルは何も言えなかった。
(それだけの逸材を、なぜヴィンセント王国は我が国によこしたんだ)
何か裏があるはずだ。
記憶力がいいなら、スパイとしてやってきたのかもしれない。
元々、その可能性もミゲルは兄マイケルに伝えていた。
兄マイケルが大丈夫と言うので、黙っていたのだ。
しかし、仮に兄マイケルが既に彼女に籠絡されているなら、ミゲルが彼女に立ち向かわなければならない。
そんな思いを胸に、ミゲルはヴィオレッタの部屋へと向かう。
そして、彼女の部屋の前にやってきたとき、女性が寝ているかもしれない部屋に、朝方にやってきてしまったことに気がついた。
時間帯が早すぎて、まだ周りに侍女も居ない。
(あれ? これは夜這い……? いや、朝這い、なのか?)
あのとき目に映った白い肌、ふくよかな双丘が思い浮かび、ミゲルはブワッと赤くなる。
部屋の中には、あの肢体に薄手のネグリジェをまとった、黒髪の彼女が……。
(いや、違う! フローラを探しに来ただけなんだから、大丈夫だ! だいたい、あの女が、疑われるようなことをしたのが悪いんだ!)
ミゲルは首を振り、思考を整理する。
確認するだけだ。
声をかけて、フローラが居なければそれでよし。
フローラが居れば、ミゲルの声に返事をするはずだ。あの子はミゲルのことが大好きなのだから。
(決して、そのような目的ではない!)
「……ヴィオレッタ様。朝早くにすみません」
思い切ってノックをし、声をかけると、部屋の中からトン、パタパタパタという足音らしき物音がした。
早朝とはいえ、彼女は既に目を覚ましているようだ。
ホッしたのもつかのま、部屋の中から返事がないので、ミゲルは首をかしげる。
「ヴィオレッタ様?」
「にゃ!」
「……!? え、ええと、中にいらっしゃるのですか?」
「にゃん!」
「……! わ、私の猫を知っていて、そういう言い方をするんですね!?」
「にゃ?」
「からかっているんですか!? な、中に入りますよ、いいですね!?」
「にゃん!」
「……!!!」
声は明らかにヴィオレッタなのに、彼女はどうやら、ミゲルをからかうつもりらしい。
愛猫がミゲルの元から居なくなったことを知った上で、こういうことをしているのだろう。
まともな返事はないものの、入室しても問題ないということなのだと察し、ミゲルは憤りを必死に鎮めながらも、念のためノックをした上で、部屋に入室する。
扉を開けると、すぐ間近にヴィオレッタが立っていた。
艶やかな黒髪に、愛らしい紫色の瞳が、きらめきを載せてミゲルを見ている。
その嬉しそうな表情もさることながら、彼女の美しい白い肌、触れたらきっと柔らかいのであろう肢体が、薄手のネグリジェ越しに手に取るように見て取れたことで、カッとミゲルの頭に血が昇った。
「み、身支度をしていないのですか!」
「にゃ」
「何を考えているのです! あなたは、どういうつもりで」
「にゃーん」
「!?」
ミゲルが最後まで言う前に、ヴィオレッタが頬を赤らめながら、獲物を見つけたかのように勢いよく飛び着いてきた。
あまりに勢いが良かったので、ふいを突かれたミゲルは扉に激突して、痛みと驚きのまま、床に崩れ落ちてしまう。
床に仰向けに付したミゲルに、彼女は嬉しそうに上から覆いかぶさってきて、ミゲルは慌てて叫んだ。
「何をするのです!!!」
「にゃっ」
「ちゃんと喋ってください、馬鹿にしているので」
そこから先は、言葉にならなかった。
ヴィオレッタの体が、ミゲルの体の上に乗っている。
そこそこに鍛えた彼の体と比べて、それはあまりにも柔らかい。思ったよりも軽い重みが、薄手のネグリジェ越しに感じる柔らかい双丘が、彼の視線と思考を奪っていく。
そして、間近にミゲルを見つめる透明な紫色の宝石に、彼を誘惑するぽってりとした唇、ふわりと美しい髪から香る花の香りに、愛おし気にミゲルを見ているその笑顔。
その美しい顔が、ゆっくりとミゲルに近づいてくる。
「や、やめっ……」
だ、だめだ、こんなことは。
この女は、ヴィオレッタは、兄マイケルの婚約者になるはずの女性だ。
いくら美しくても、魅力的でも、兄弟の婚約者候補と、こんなことをしてはいけない。
だというのに、体が言うことをきかない。
ギュッと目をつぶったミゲルの耳元に、「にゃ?」という声が聞こえて、それからなんと、彼女はミゲルの耳をぺろりと舐めたではないか!
その感触に、ミゲルは理性の八割がたが吹き飛ぶのを感じた。
「ヴィ、ヴィオレッタ……」
「なぅ?」
「あ、あなたは、私がそんなにも……」
心臓をドラムのようにドドドドドドと鳴らしながら、ミゲルが真っ赤な顔でおそるおそるそう尋ねると、ヴィオレッタはとても柔らかく顔を崩し、慈しむようにしてこくりと頷く。
ミゲルの心に優しく触れてくるその笑顔に、残りの二割の思考もどこかへ旅立ってしまった。
美しくて、愛らしくて、魅力的で、勤勉で、誰もに愛される女が、ミゲルを愛していると言っている。
彼の体を求めるかのように、誘惑してきているのだ。
「あなたが、悪いのですよ」
「……?」
「あなたが私を、誘ってくるから」
ミゲルは、必死にヴィオレッタをけん制する。
だというのに、きゅるんと煌めく紫色の瞳は、ミゲルに全幅の信頼を寄せていた。
それが、彼の心をかきみだして、胸の内から、苛立ちと、熱い想いが湧き上がってくる。
(こんな、女に……!)
そう思う気持ちとは裏腹に、ミゲルは、自分の体の上に載っている彼女をころんと隣に下ろし、身を起こして彼女の上に体を被せた。
そうして、彼女の額にそっと口づけを落とす。
おそるおそる顔を離すと、ミゲルの若草色の瞳に映るのは、床に黒髪を散らした彼女が、可愛らしい仕草で、不思議そうにミゲルを見上げている姿である。
その無垢な仕草が、逆にミゲルを煽ってきて、彼はカッと顔を赤らめた。
「何も知らないふりをして、そうやって私を翻弄して、愉しいですか」
「なう?」
「……! ば、馬鹿にして……!」
憤り過ぎて、目頭が潤んでくる。
悔しくて、ぎゃふんと言わせてやりたくて、けれどもミゲルは、自分の中に生まれた感情がそれだけではないことに気が付いてしまった。
今まで直面したことがないような強烈な色香が、好意が、行為が、ミゲルの心を激しく揺さぶってくる。
ミゲルの矜持を踏みにじってくるそれが、悔しくて、心地よくて、なによりも熱い。
このまま、彼女を、ミゲルの手で。
そう思って、けれどもミゲルはまだ、踏みとどまった。
目の前の彼女は、兄の婚約者候補だ。兄自身が彼女と婚約すると言っていたことから、きっとそれは形ばかりのものではなく、彼が望んでのことなのだ。
そこに恋愛感情があるのかどうかはまだわからないが、横からミゲルが、尊敬する兄の計画を邪魔するなんでことは――。
顔を歪めながら逡巡するミゲルを動かしたのは、やはりヴィオレッタだった。
彼女はその小さな手を、ミゲルの頬にそっと添える。
そのやわい感触が、細い指が、ミゲルに彼女の女を感じさせてくる。
「にゃん」
慰めるような仕草で、ふふっと笑った彼女に、ミゲルの最後の糸が切れた。
「――ヴィオレッタ!!!」
勢いよく彼女に覆いかぶさる。
柔らかい感触に、その心地よい香りに、ミゲルは理性を手放した。
頭を駆け巡るのは、これからどうやって彼女を攻め落としていくか、それだけだ。
これから彼女の体に触れて、その余裕の顔を散々に乱して、そのぽってりとした唇に触れて――。
「…………ミゲル?」
キィ、と開いた扉が揺れる音がして、ミゲルは真っ白になった。
油を差し忘れたブリキ人形のように、ギギギギ、と顔を上げて扉の方をみると、そこにはミゲルの愛猫を胸に抱いた、寝間着姿の兄の姿があった。
「何をしている?」
絶対零度のその声音に、氷のような視線に、ミゲルは言葉もない。
しかも、彼の体の下から、「にゃん?」という愛らしい声が聞こえるのが、またよくない。
そして、この凍てついた空気の中、空気を読まずに声を漏らした者がもう一人いた。
「あらあら。ミゲル殿下は、野獣だったのですね」
声を発したのは、ミゲルの愛猫である。
ギギギギ、とそちらに視線を移すと、黒猫は兄マイケルの腕の中でくつろぎながら、にたりとその金色の瞳を細めた。
「ミゲル殿下の、えっち」
ミゲルは気絶した。
とても柔らかい感触がした。
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