第15話 嵐の中に居る王太子
マイケルは嵐の中にいた。
動揺と後悔と執着と劣情の狭間というやつである。
「なんなんだ、あの女はっ……」
違う、そうではない。
あの女のことを考えてはいけないのだ。
あの艶やかな黒い髪も、ぽってりとした赤い唇も、腕に押し付けられた扇情的な肉感も、マイケルを惑わす悪魔のものだ。
そう思うのに、ふとした瞬間に感触が思い出されて、耳元で囁かれた声が脳裏に蘇って、マイケルは「うわぁあああ」と叫びながらうずくまってしまう。
そうこうしているうちに、両親がやってきて、強制的に休みを取らされてしまった。
「父上、母上方! 私は忙しいほうがいいんです!」
「……業務に支障が出ているから」
気まずそうにそう告げてくる父王に、何か言えることがあっただろうか。
確かに、今のマイケルは日中ぼんやりしていたり、急にうずくまったりするので、あまり事務が進んでいない。人と会うのも憚られる。
人と会うことが、マイケルの生き甲斐だったというのに!
「なあ、マイケル。お前は元々働きすぎだから、久しぶりに長期休暇を取りなさい」
肩を落とすマイケルに、母である第一王妃は去り際、「マイケルは初恋で、身を持ち崩すタイプだったのね」と呟いて去っていった。
それがまたマイケルの心を突き刺してくる。
(初恋!? 恋ってなんだ、僕があの女なんかに……!)
そうしてふたたび思い浮かぶのは、大きな瞳にすっと通った鼻筋、白い肌に、赤い唇で紡ぐマイケルの愛称を呼ぶ甘い声。
「うわぁああああ」
こうして、マイケルは気持ちの乱高下に振り回されながら、部屋の中に引きこもっていた。
目を開けても目を閉じても、起きていても夢の中でも脳裏に表れる黒髪の敵国第三王女に、マイケルは疲労を重ねていく。
朝になり、鳥の鳴く声が聞こえてきて、あまり深く寝ることができなかったマイケルはぼんやりと窓の外を眺める。
(頭が重い……)
なぜ、こうなったのだろうか。
出口が見えない。
何をどうしたらいいのか、周りが見えない。
誰かに相談したらいいのだろうか。
そうだ、誰かに相談。
マイケルは、いつも、その
誰にも共感せず、誰にも興味がなくて、でも、興味があるフリをして、話の内容を覚えて、問題点を見つけながら、みんなの気持ちが絡んだ結び目を探して、解きほぐして。
(そういえば、彼女のことを、何も知らない)
ふと、彼女が来てからというもの、そういったことをしてこなかったことに気が付いた。
彼女に対してしたことと言えば、歓待し、国を案内し、官僚達と少しずつ顔合わせを行ったくらいだろうか。
「にゃ」
ふと、部屋の中に黒猫が居ることに気が付いた。
長毛種の、成猫の黒猫である。
瞳は金色で、淡いピンク色の首輪をはめている。
これは確か、三つ年下の弟ミゲルの飼い猫だったはずだ。
名前は長くて覚えられなかった。
マイケルにはあまりなついていなかったはずのその猫が、マイケルの部屋に居るのはなぜだろう。
そう思って黒猫を見ていると、黒猫はもう一声「にゃ」と鳴きながら、身を起こして寝台の上に居るマイケルの膝に乗って来た。
「どうした? ミゲルに何かあったのか?」
そう言いながら、ぎこちない手つきで黒猫の頭を撫でてみる。
すると黒猫はゴロゴロと喉を鳴らしながら、気持ちよさそうに目を細めた。
なんだか心が温かくなったような、なぐさめられたような気持になって、マイケルは黒猫の色々な角度で撫でてみる。
黒猫は困ったような雰囲気で、マイケルの手を甘噛みしたり、猫パンチを繰り出しながらも、撫でられて心地よかったのか、最終的にはころんとひっくり返っておなかを見せてくれた。
「お前は可愛いやつだったんだな。ミゲルがお前を飼っている理由がわかった気がする」
「にゃ?」
「お前の様子もおかしいけど……一番おかしいのは、僕みたいだ」
マイケルが力なく笑うと、黒猫はなぐさめるようにマイケルの指をなめてきた。
猫の舌はざらざらしていて、なんなら少し痛いくらいだったけれども、意外と悪くないとマイケルは思う。
「いつも人の話ばかり聞いてきたのに、彼女のことは、全然聞いていないんだ」
「……にゃ?」
「彼女を呼び寄せた理由も、大枠しか話してない。本当はもっと、うちの国に来てくれたばかりの彼女に、居心地のいい場所を提供してあげたかった。どうして彼女を迎えたのか、僕が何をしたかったのか、話しをして、彼女が来てくれたことが、とても有意義だったこととを伝えて、彼女の想いを聞いて、その擦り合わせをして……」
「なぅ」
「なのに、おかしいんだ」
撫でる手が止まり、黒猫は不満そうにマイケルの手に顔を擦りつける。
マイケルは苦笑しながら、その顔をふわふわと撫でまわした。
「伝えるより、僕が知りたいと思ってる」
そうだ、マイケルは知りたいのだ。
解きほぐすためではない。
対立をなくすためでもない。
ただ、マイケルが彼女のことを知りたい。
初めて、人を知りたいと、そう思ったのだ。
「恋とか、愛は、まだわからないけど」
「……」
「ヴィオレッタと、話がしたいな」
マイケルは、心の靄が晴れたような気持ちで、頬を緩めた。
身支度をして、朝の外の空気を吸って、ちょっと熱めの紅茶を飲んだら、彼女に会いに行こう。
今ならきっと大丈夫。
そう思ったところで、黒猫がにたりと目を細めた。
金色の瞳が、弓張り月を描いている。
「今でも大丈夫ですよ?」
……。
「え?」
「お話したいなら、ここでお話しましょう?」
マイケルは、辺りを見渡して、自分以外に室内に誰も居ないことを確認する。
朝で、マイケルは寝起きなので、当然のことだ。
まだ、洗顔の水を用意する侍従に声掛けすらしていない。
目の前に居るのは、マイケルの胸板にすりすりと身を寄せている長毛種の黒猫だけ。
「ほら、マイク。何かしゃべってください」
催促するように自分の右手に絡みついている黒猫に、マイケルはだんだん体温が上がってくるのを感じる。
黒猫が、人の言葉をしゃべっている。
それ自体も相当おかしい。
しかし、それよりなにより問題なのは、喋っている主体がどうみても間違いなくヴィオレッタであることだ。
「ヴィ、ヴィ、ヴィ」
「ヴィオレッタです」
「なんで!?」
「どうしてお部屋にこもってしまわれたのですか」
「え? な、何……」
「お声を聞きたくて、会いにきてしまいました」
「え、いや、でも。ね、猫……」
「人の姿だとここまで通してもらえないので、仕方がなかったのです」
「……ちょっとやっちゃいましたみたいなニュアンスで……できることでは……ないと思う……」
「あら、本当に元気がないですね。マイク、大丈夫ですか?」
黒猫は心配そうに首をかしげている。
しかしマイケルは動けない。
完全に思考停止している。
そして、不満そうな様子の黒猫にぺろりと顔をなめられて、マイケルの脳は強制的に再起動することとなった。
「君は、何をしているんだ!」
「マイクに会いにきました」
「いいから元に戻ってくれ!」
「そんなことをしたら、裸になっちゃいますけど」
「え!?」
「猫って服を着てないですし。ああ、毛布の中に潜ればいいのかしら」
ハッとしたマイケルに、彼女はくすくす笑っている。
マイケルの毛布の中に、裸の彼女が。
想像してしまったその光景に、マイケルの体温がみるみる上がっていく。
しかし、彼女はそんなことには気が付かない様子で、マイケルの膝の上で、四つ足で立ち上がる。
「それじゃあ、戻りますね」
「ちょっと待とうか!」
「マイクがそうしろって言ったのに」
「君には恥じらいがないのか!」
「王太子様に命じられたら、逆らうことなんて……」
「僕の権力に汚名を着せるのはやめてもらおうか!?」
「婚約者候補ですから、誰にも叱られないと思いますし……知りたく、ないですか?」
石像のように――彼女が来てから何回目だろう――固まるマイケルに、黒猫は彼の首元まで伸びあがって、その顔に頬ずりをする。
「私のことを……知りたいですか?」
その言葉に、マイケルは自分の顔が歪んでいくのを感じる。
目が潤んで、頬が赤らみ、悔しさで胸がかき乱される。
それを見て彼女が嬉しそうに目を細めるのが、また憎らしい。
せっかく落ち着いてから彼女と向き合おうと思っていたのに、この黒い悪魔はすぐにこうやってマイケルの心の隙に手を入れて、かき乱してくるのだ。
それがなにより悔しくて、けれども、自分でも意外なことに、身の内が燃え上がるようだった。
この熱を彼女にぶつけてしまいたい。
そして、彼女の身の内にも、火を灯してやりたい。
マイケルの灯した火で、この余裕の表情を乱すことができたら、どんなに愉しいことだろうか。
「マイク?」
彼女を膝から下ろして、寝台に寝かせたマイケルは、そっとその額に口づけを落とす。
大きな金色の瞳がきゅるんと輝き、そこにあるのが余裕ではなく驚きであったことに、マイケルはこの上なく満ち足りたものを感じた。
「そうだ。僕は君が知りたい」
「……」
「王太子命令でもいい。この場で人間に戻れよ、ヴィオレッタ」
お前が煽ったんだから、しっかりその責任をとらせてやる。
そう耳元で囁くマイケルに、ヴィオレッタは戸惑ったように身じろぎした後、悲しそうにぺたりと耳を伏せた。
「ごめんなさい」
「……ん?」
「マイク、あの。私、嘘をつきました」
「嘘?」
「変身したわけじゃなくて、この子に体を借りてるだけなんです。マイクが押し倒しているのは、本物の猫です」
「……」
シーンと静まり返った室内に居るのは、やはりマイケルと猫だけである。
じわじわと顔を赤らめて、最終的に真っ赤になってしまったマイケルに、ヴィオレッタは目をさまよわせる。
「……ごめんなさい、にゃん?」
きゅるんとウィンクをして、肉球を見せてくれた黒猫ヴィオレッタは、とてつもなく可愛かった。
マイケルは、その隣で、しくしくと突っ伏して泣き始めた。
~✿~✿~✿~
一方、ヴィオレッタの体のほうも、それはそれで問題を起こしていた。
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