第23話「絶望」

 森を抜けると、真っ赤な湖を見つけた。まるで、


「血の池のようですわ」


 スズネの言葉通りだ。赤いなんて表現ではまるで足りない。流れ出る血液のように揺れ動く湖面からは、今にも悲鳴が聞こえてきそうだった。


「地獄ってのがあるなら、きっとこんな場所なんだろうな……」


 更に下っていくと、薄汚れた市街地に出た。


 今まで見てきた異界の情景、そのどれよりも吐き気を催すどんよりとした空気が滲んでいる。一言で表すなら、「穢れ」がこびりついている。


「少し探索してみよう」


 ひび割れたコンクリートの道路を歩く。壊れかけの街灯がチラついているのが鬱陶しい。


 ラーメン屋らしき場所を覗くと、つい先程まで誰かがいたかのように、湯気を立てた丼ぶりが机の上に放置されていた。


「何なんだ、ここは……?」

「いくらなんでもおかしいですわ。町があるのなら、住人の気配があるはずです」


「さっきのラーメン屋といい、ここの喫茶店もそうだ。テーブルに飲み物が置いてあるのに、住人の気配がないのはどういうことなんだ?」

「これじゃまるで――」


 メアリー・セレスト号みたいじゃないか。僕がそう呟こうとした瞬間、近くにあったあばら家の奥から微かな物音が聞こえてきた。


「旦那様」

「うん。僕が見てくる。スズネは周囲を警戒していて」

「わかりましたわ」


 物音が聞こえたあばら家の玄関には、梵語が書かれた御札が数枚貼られていた。

 それらを取って、玄関の戸を開ける。鍵がかかっていたが、力付くで壊した。


 ――ゴクリ。


 ツバを飲み込む音がやたらと大きく聞こえた。

 周囲の不気味さも相まって、感覚が鋭敏になっているようだ。


「心愛ちゃんかい?」


 小銃を構えながら、慎重に廊下を進む。


 ――ガタッ。


 再び聞こえてくる物音。発生源は部屋の奥からだった。

 居間の奥にあるふすまに手をかけた瞬間、


「開けないで」

「心愛ちゃん!」


 待ち望んだ声が聞こえてきたことに喜んだ僕は、すぐにふすまを開けようとした。しかし、


「開けないで」

 と再びその手を制止されてしまった。


「どうして?」

「ちょっとドジっちゃってさー……見られたくないんだぁ」

「そんなイザナミみたいなこと言わないでくれよ」


 と、軽い気持ちで僕はふすまを開けた。開けてしまった。


 ボロボロに破れたゴスロリ服、そこから覗く素肌はところどころに血が滲んでいた。だが、そんなことより僕の目を引いたのは、


「心愛ちゃん、それは……」


 彼女のお腹。そこにおびただしい数の黒点が浮かんでいた。


「だから、言ったのにぃ……」

「何か僕に出来ることは?」


 慌てて駆け寄った僕に、心愛ちゃんはらしくもなく泣きそうな顔を見せた。


「こんなところ、見せたく、なかった、なぁ……」

「何言ってるんだ。心愛ちゃんは変わらず可愛いよ」


「うぅ……嘘、だぁ……」

「本当さ。弱気になっちゃいけないよ。僕が必ず助けてみせる」


 とは言ったものの、何をすれば良くなるのか皆目見当がつかない。


「心愛ちゃん、これは誰にやられたの?」

「ここの連中に、取り、憑かれたぁ……ハァ、ハァ……」


 最早喋るのも辛そうだった。


「治すには、赤い水を飲むしか、ない……」

「赤い水?」


 まさか、ここに来るまでに見たあの湖の水のことか?


「けどぉ、飲んだが最後、あたしは屍人になるぅ……だから――」


 あたしを殺して。


「それはダメだ! 生きて僕と帰るんだ!」

「無理、だよぉ……こうなったら、生きて帰る方法はないのぉ……」


「デートするって約束したじゃないか!」

「あぁ……デート、したかった、なぁ……」

「心愛ちゃん? 心愛ちゃん!」


 揺り動かそうとする僕の腕を、後ろから伸びてきた手が止めた。


「落ち着いてください、旦那様」

「スズネ?」

「帰りが遅いので様子を見に来たのです」


 スズネはそっと、心愛ちゃんの側に腰を下ろし彼女の脈を確認した。


「死んではいません。気を失ったのでしょう」

「よかった……」


「スズネが手当てをしておきます。旦那様は外の風に当たってきてくださいな」

「うん、お願い」


 外に出て玄関先に座り込んだ僕は、生まれて初めて無力感を味わっていた。

 なんだかんだとこれまで上手くやってきたツケがやってきたのかもしれない。


「クソッ! 大切な人一人助けられなくて、何がヒーローだ……!」


 コンクリートの地面を殴りつける。拳を見たら、殴った場所から血が出ていた。


 らしくない。何もかもらしくない。心愛ちゃんと逸れてから、僕は明らかに普段とは違う行動ばかり取っている。


 僕の知っている僕は、ひょうひょうとして、何事にも動じない面白いやつだったはずだ。


 それなのに、今の僕ときたらどうだ。栃木さんに殴りかかろうとしたり、焦って判断を誤ったり、怒鳴ったり、どうにも余裕がない。


「こんなじゃダメだ……冷静にならないと……」


 立ち上がり、淀んだ空気を肺いっぱいに吸い込んで吐き出す。


 少しだけ、思考がクリアになった気がする。だけど、落ち込んだ心だけは変わらなかった。

 この気持ちは、きっと心愛ちゃんを助けることができないと晴れないだろう。


「旦那様、傷の手当てが終わりましたわ」


 僕がこれからのことについて思考していると、玄関から出てきたスズネがそう言った。


「心愛ちゃんの様子はどう?」

「傷はさほどではなかったのですが、やはりお腹の黒点が……」


 爆発による物理的な怪我はそれほどでもないようで一安心だ。しかし、


「あの黒点、屍人に取り憑かれたって言ってたよね。屍人ってどんな存在なんだ?」

「取り憑かれるというほどですから、やはり霊的な存在でしょうか?」


「できれば本人に話を聞きたいんだけど、心愛ちゃんの意識は戻りそう?」

「わかりません。ですが、あの様子では暫く目を覚まさないかと……」


 腕時計を確認する。現在時刻は20時を少し回ったところ。

 帰還リミットラインが21時であることを考えると、迷っている時間はなさそうだ。


 心愛ちゃんの容態、今やらなければいけないことなど、様々なことを考慮した結果、


「今夜はここに籠城するしかなさそうだな……」


 病人の心愛ちゃんを背負って、今から駅探しをするのは現実的ではない。それに、お腹の黒点をなんとかしないことには現世に連れ帰るのも困難だろう。


「籠城ですか……食料はともかく、水に不安が残りますね」

「ここ水道通ってないの?」


「先程傷の手当てをする際に水道を捻ったのですが、赤い水が出てきまして……不気味だったので水筒の水を使用しました」

「たぶんそれで正解だ」


 心愛ちゃんの言葉通りなら、恐らくその水を飲んだが最後、僕らは屍人になる。


「しかし、そのせいで水がほぼ底をついてしまって……」

「僕はまだ水筒に半分ほど残っているけど、3人分にはちょっと足りないな……」


 恐らく先んじてここに身を潜めていた心愛ちゃんは水を使い切っているはずだ。


 ここから先、戦闘が生じることを考慮すると、3人で200ミリリットル少々では不安が残る。それに、食料なしでは後半バテてしまうだろう。


「状況は最悪だな……」

「幸い、弾薬には余裕があります。節約すれば、一日程度は持つでしょう」

「不幸中の幸いってかい?」


 そうは言うものの、不安なのがここに至るまで僕達は屍人と遭遇していないことだ。


 彼らがどのような戦闘力を持っているかわからないので、弾薬に余裕があるといっても所詮はどんぶり勘定だ。一体倒すのにマガジンが一つ必要だったりしたら終わりだ。


「籠城用の資材を見てくる。何かあったら信号弾で知らせて。空に向かって撃てばいいから」


 スズネに信号弾を渡す。これがあれば、万が一の際離れていてもすぐに駆けつけられる。


「その、大丈夫ですか……?」


 そんなことを聞かれるなんて、きっと今の僕は相当酷い顔をしているのだろう。


「正直、きついよ。だけど、僕までへばるわけにはいかないからね」

「それは、そうですが……」

「大丈夫さ。それじゃ、いってくる」


 周辺の家屋から椅子やテーブル、レンガなど、とにかく積んで壁にできそうなものを拾ってあばら家に運ぶ。


 一応、あのあばら家はブロック塀で囲まれているけど、僕が今まで見てきた異界人の力を考えるに、きっと期待するほどの防御効果は得られないだろう。


 無心で持ってきた物をブロック塀の内側に並べていたら、不意に涙が出てきた。


「あれ? おかしいな……グスッ、なんで泣いてるんだ……?」


 特段泣くような場面じゃなかったはずだ。

 状況は最悪だけど、まだ心愛ちゃんは生きてるじゃないか。希望はきっとあるはずだ。なのに、涙が止まらなかった。


 彼女の口から、「殺して」なんて言葉が出たのが余程ショックだったらしい。


「あぁ……情けない……情けないなあ……」


 僕は泣きながら籠城の準備を進めた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る