第9話:接触
無事に夏宵の舞踏会も終わり、ヴァネッサはタウンハウスの庭園でボケっとしていた。
どうしてもアリアベルのことが頭から離れないのだ。
本来ならエリオットと恋に落ちるはずの令嬢が彼の眼中にないのは恐らく私のせいだろうとヴァネッサは予測していた。
「ヴァネッサ様、如何なさいましたか?」
お茶どころか茶菓子にも珍しく手をつけないヴァネッサに、サーシャは心配そうにしていた。ヴァネッサがこうして庭園でぼんやりとしだして既に二時間が経っている。どうしたものかとサーシャは困っていた。
「旦那様と何かあったのですか?」
「別に……」
「そうですか。お言葉ですが、いつまでもこのままでは何も解決しませんよ?」
「分かってるわよぉ……でも、どうしたらいいのかわかんなくて……」
「でしたら、直接文句でも言って差し上げればいいんじゃないんですか?」
きっと旦那様と喧嘩、もしくはそこまで行かなくても不満に思うことがあったのだろう。そう考えていたサーシャは、ヴァネッサの煮え切らない態度に発破をかけるつもりで言った。
すると、ヴァネッサはハッと顔を上げるとじっとサーシャを見つめている。居心地の悪さを感じるが、やっと顔を上げたヴァネッサに、サーシャは安心していた。
「そうよ。直接会いに行けばいいんじゃない!」
「会いに行かずとも呼び出しても良いのではありませんか?」
「それはさすがに失礼じゃない?」
「そうですか?」
「そうよ。そうと決まれば用意をしなくちゃね! いきなり会いに言っても失礼だし、アポを取らないと!」
「えっ……? あの、ヴァネッサ様、別にアポを取る必要はないのではありませんか?」
「いくらなんでも不躾すぎるでしょ。ほら、手紙を書くから用意して貰えます、先輩?」
「だから先輩はやめてください〜」
メソメソと言う擬音がぴったりな表情でサーシャは一度屋敷に戻りレターセットを持ってくる。すると、ヴァネッサはしばらく手紙を書きあぐねていた。
「ヴァネッサ様、そこまで格式張らなくて良いのではありませんか?」
「んー、そうは言ってもこういうのはしっかりとしなきゃダメだと思うのよ。ほら、何にしでも形から入るってのは大事だし……」
「確かにそうですけど、このままだと日が暮れてしまいますよ?」
「分かったわよ。じゃあ、とりあえず時候の挨拶と、訪問の意志を書くだけでいっか」
なんで同じ屋敷にいるのに手紙なのだろうか。
そもそも、時候の挨拶なんて入れなくてもいいのでは、とサーシャは困惑していた。
ヴァネッサはアリアベル・ラントレス伯爵令嬢に手紙を書いているのだが、勘違いしたままのサーシャはエリオットに手紙を書いているのだと勘違いしたままだ。
やっとのことで手紙を書きあげると、ヴァネッサはロウソクの火でシーリングワックスを溶かして封筒に乗せる。そして、一度も使ったことがなかったシグネットリングで封蝋をした。
「じゃあ、これお願い」
「かしこまりました。では、渡してきます」
「???」
渡してくるとサーシャに言われてヴァネッサの頭の上にはてなマークが浮び上がる。だが、ややあってヴァネッサは郵便局に持っていくのではなく、ラントレス伯爵の屋敷に直接届けに届けてくれるんだと結論づけた。
手紙も書いたし、ヴァネッサは大きく伸びをして来るべきアリアベルとの対面に気を引きしめる。
のだが、ヴァネッサの手紙はエリオットに届けられていることを彼女はまだ知らない。
しばらくすると、サーシャは残念そうな顔をして戻ってくる。もしかしたらその場でお断りでもされたのだろうかとヴァネッサは冷や汗を感じた。だが、予想した答えとは違うものだった。
「申し訳ございません、ヴァネッサ様。ちょうど不在でして、直接お渡しすることは叶いませんでした。ですが、ちゃんと家令様にはお渡し出来ましたので大丈夫です!」
「そうなんだ……というか早かったわね?」
「ヴァネッサ様のためですし、急いで届けてまいりました!」
「ありがとう、サーシャ」
「いえ、これもヴァネッサ様のためです!」
ひとまず手紙は渡せたようだとヴァネッサは安堵しているが、残念ながらサーシャの言う家令とはラントレス伯爵家の家令ではない。
アルヴィスだ。
そんなことを知ることもないヴァネッサはひと仕事終えた気分で椅子から立ち上がった。
「なんだか気分も晴れたことだし、ちょっと出かけない?」
「かしこまりました。どこに出かけますか?」
「うーん、おすすめは?」
「植物園はいかがですか? 本格的に暑くなる前の今がオススメですよ!」
「オッケー。じゃあ、出かけましょうか」
「そのままお出かけになるつもりですか?」
「そ、そうだけど……ダメ?」
相も変わらずヴァネッサはブラウスにスカートというラフな格好だ。唯一違うのは、夏季の到来でスカートが薄手の若草色に変わり、ブラウスも半袖になったくらいだろう。仮にも公爵家の婚約者であるヴァネッサが侮られるような格好はサーシャとしても許容は出来きるわけがない。
着替えに化粧、ヘアメイクを嫌がるのだが、結局最後には「旦那様が愛する女性を蔑ろにしていると思われますよ」と言うマリーナの一言で渋々ヴァネッサも了承することとなってしまった。
やっとのことで外出の用意が整ったヴァネッサは、外出用のドレスに髪はアップスタイルで整えられていた。前世での日本の夏よりは幾分かまじではあるものの、顔に化粧を塗ったくられたヴァネッサは「皮膚呼吸できない」なんて両生類のような愚痴をこぼしている。
馬車の中も蒸し風呂のようだが、走り出すとやっとのことで生ぬるい風が入ってくるだけだ。それでも、蒸し風呂状態よりはマシではあるのだが……。
ヴァネッサが夏は出かけないと決意するには十分すぎた。
馬車を走らせて王都の橋までやってくると、緑溢れる一体が見えてくる。正直な話、既に屋敷に帰りたい気分だがらせっかくこれだけ苦労して来たのに何も見ないのは勿体ない根性でヴァネッサは馬車から降りて植物園へと入っていく。すると、ヴァネッサの目の前には暑さもやらわぐ光景が広がり感嘆の声を漏らしていた。
「すごい……街中にこんな緑溢れる場所があるなんて」
「ここは国王陛下が王妃殿下のために作られた場所なんです。けれども、王妃殿下の温情で一般入場ができるんですよ」
得意げな顔をして、ヴァネッサのために傘をさすサーシャが答えた。
「なるほどねぇ……この国の貴族とか王族の溺愛ぶりってそういうものなのかしら?」
「そうなんですかね? ですが、捨て置かれるよりいいのではありませんか?」
「そりゃそうだけど……」
初夏の日差しに照らされた植物園は、鮮やかな色彩と香りに包まれていた。広々とした園内には、さまざまな花が咲き乱れ、まるで花の絨毯が敷かれているかのようだ。道沿いには、ピンクのバラが優雅に咲き誇り、その香りが風に乗って漂っている。紫色のラベンダーは、清楚な姿で涼やかな香気を放ち、通り過ぎる人々の心を和ませていた。
少し歩けば、黄色いマーガレットが太陽の光を浴びて輝き、白いデイジーがその可憐な姿で目を楽しませている。園内の中心には小高い丘があり、その上からは広がる公園の全景が一望できる。丘の上から見下ろすと、花々の色彩がまるで絵画のように広がり、遠くには緑豊かな木々と遊歩道が織りなす美しい風景が広がっている。清々しい初夏の空気とともに、この場所はまさに自然の楽園となっていた。
植物園を堪能しているヴァネッサに近づいてくる女性がいた。黒い紙を靡かせ、堂々とした振る舞いでその令嬢はヴァネッサに声をかけた。
「ご機嫌よう、ヴァネッサ・エイブリー様」
ヴァネッサが振り返るとそこにいたのはアリアベルだった。会いに行って話をしようと思っていた相手が急に現れて、ヴァネッサはしどろもどろしている。
だが、アリアベルは口元に手を当てて品良くクスクスと笑っていた。
「失礼しました。やはり、エイブリー様はどこか普通の貴族令嬢とは違うように見えますね?」
「そ、そうでしょうか?」
「ええ、まるで人が変わったかのようです」
じわりと嫌な汗を感じてヴァネッサは口を噤んだ。じっと見つめてくるアリアベルの目が、自分ではない自分を見ているように思える。まるで何かを知っているかのように彼女は意味ありげに一度だけ頷いて口を開いた。
「良かったら、二人でお話しませんか?」
つまり、サシで話したいとアリアベルは暗に言っているのだろう。ヴァネッサは隣で傘を持つサーシャをちらりと横目で見つめた。同意するかのように、サーシャは「かしこまりました」と一言だけ発する。
サーシャを遠目に、二人は小高い丘の上へと向かうと、庭園を一望できるように設けられたベンチに腰を下ろした。辺りには誰もおらず、遠くには植物園を楽しむ人々が小さく見えていた。
「ラントレス様、二人で話したいことと言うのは……なんですか?」
「いえ、単純にエイブリー様はエンデュミオン公爵を愛しておいでか聞いてみたくて」
「なんでですか?」
「あれだけの余興を見せてくださったのに、実はロズハート嬢を追い払うためだけだった……なんてことではありませんよね?」
「あなたに、なんの関係があるんですか?」
「さっきから質問ばかり。私の質問には答えていただけないんですか?」
確かに彼女の言う通りでもある。
けれども、どうしても気になってしまうのだ。
もしかしたら、アリアベルも転生者でこの世界が小説の中の話だと知っているのではないか。だから、エリオットと婚約するのは自分だから身を引けとでも言うつもりなのだろうか。
次々と疑問は浮かび上がるが、ヴァネッサは一言だけ端的に告げた。
「あげませんよ」
静かに、だが真っ直ぐと隣に座るアリアベルを見つめて言い放つ。ヴァネッサの声には絶対に譲らないという想いを感じて、アリアベルは「そうですか」と満足気に言う。
「私は答えましたよ。あなたがどれだけ邪魔しようとも私は絶対にエリオットから離れませんし、譲りません。真っ向から打ち破ってみせます。たとえ、それがこの世界の決まりだとしても」
「それだけ聞ければ十分です。あなたがどれだけエンデュミオン公爵のことを愛しているか知りたかった。それだけなんですよ」
「どうしてあなたが私たちのことを気にするのですか?」
困ったように笑みを浮かべ逡巡するが、アリアベルはこくりと一度頷いてヴァネッサに向き直った。まるで何かを決意するかのようにさっきまでの柔らかな余裕のある表情は消え失せ、真剣な顔つきだった。
「勘違いさせたのなら申し訳ございません。私はもう満足しました」
「さっきからなんなんですか? 勝手に満足して、意味がわかりません!」
「分からなくて──いえ、分からない方がいいこともあるんです、ヴァネッサ・エイブリー。いえ、これからはヴァネッサ・エンデュミオン、ですか?」
「えっと……そ、それはエリオット次第と言うか──って、話をそらさないでください!」
「逸らしていませんよ。私はただひとつのこと、そう、あなたがエンデュミオン公爵を愛しているかどうかを聞いているだけですので」
「……」
「そんなに怒らないでください。今日、あなたに会えたのは僥倖でした」
ふと寂しげな表情をするアリアベルに、ヴァネッサの苛立ちは徐々に薄れていく。
ぶん殴ってでもエリオットは渡さないと息巻いていたと言うのにだ。ついさっきまでは脅威だと思っていたアリアベルがなぜだか急に弱々しく思えてきた。
「エイブリー様、私は明日、国外へ発つことにしたんです。きっと、もう二度とこの国には帰ってこないでしょう──」
アリアベルの話に驚いたのは言うまでもない。
呆然としながらも、ヴァネッサは安堵していた。明日以降、彼女の言うことが本当であれば顔を合わせないで済む。これはある種の降伏宣言であり、エリオットに近づかないと暗に確約しているようなものだ。
「──だから安心してください。あの子に愛されるのはあなたなのだから」
そう告げるとアリアベルは優雅にその場を立ち去っていく。余りもの驚きと衝撃の告白にヴァネッサはしばらくそのままベンチに座ったまま動けなくなっていた。
ついさっきまで天上近くにいたはずの太陽は傾いて日が陰り始めている。そんなに長く話していたつもりではなかったはずなのに、不思議な気分だった。
本当にこれで終わりなのだろうか。
戦いにすらなっていない。
どういうことなのか、アリアベルはヒロインであるはずなのにその座を明け渡したのだ。エリオットとアリアベルの紆余曲折を経た恋愛の末の結婚式でこの物語は幕を閉じるはずだった。
肩の力が抜けて、ヴァネッサは情けないほどの泣きそうな顔をしている。今の彼女の心の中はめちゃくちゃにかき乱されていた。
そんな彼女に声を掛ける青年がいる。
慌てて屋敷を出てきたエリオットだった。ヴァネッサと比べるとかなりラフな格好で、白いワイシャツに黒のパンツ姿だ。その手にはヴァネッサが書いた手紙が握られていた。
「ヴァネッサ、探したよ」
「エリオット? なんでここにいるのよ」
「なんでって……はぁ、ヴァネッサが無事でよかった……」
「どういうこと?」
「この手紙、どういうことだ?」
「へ……? なんでエリオットが持ってるのよ!?」
「なんでって……アルヴィスがサーシャから預かったって言ってたけど?」
やっとのことでヴァネッサはサーシャが勘違いしていた事に気がついた。ベンチから立ち上がると、呑気に花壇のへりに座って寝息を立てているサーシャの前で仁王立ちしている。「起きなさい、サーシャ!」とヴァネッサの大声が植物園に響き、続いてサーシャの悲鳴がこだましていた。
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