第8話:夏宵の茶番劇

 ついに夏季の到来を告げる夏宵の舞踏会の日が来てしまった。

 夏季の暑さを凌ぐために、多くの貴族たちは各々の避暑地へと向かう。夏季の間は都を離れる者も多く、暑さが和らぐまで舞踏会や大きな集まりが行われることはない。

 貴族たちにとっては一年の区切りになる大規模な舞踏会だった。

 エリオットはその場でついに婚約者になったヴァネッサを大々的にお披露目するつもりなのだが──。

「待って、エリオット。お腹痛い……」

 青白い顔をしたヴァネッサは馬車の中で胃痛に苦しんでいた。今日の舞踏会には国中から多くの貴族が集まるどころか、王族も来ると聞いている。

「ヴァネッサ、大丈夫? 胃薬、飲む?」

「飲む……」

「あのぉ、お薬の飲みすぎも良くないと思いますよ」

 そう言いながらも心配そうな顔をしてヴァネッサの隣に座るサーシャは胃薬を用意する。ヴァネッサはサーシャから薬を受け取ると一気に呷った。

「ねえ、エリオット。例の子も来るのかしら?」

「来ないなら来ないで大丈夫だよ。それでなにが変わるわけでもないしさ」

「そりゃそうだけど……」

「じゃあ、そろそろ行こうか、ヴァネッサ?」

「待って、あと五分──」

 ヴァネッサの返事も聞かず、エリオットは御者席にベルで合図した。すると、ドアが開けられ、傍らにはベンが真剣な面持ちで立っている。

 王国屈指のエンデュミオン公爵家の馬車のドアが開き、王城のダンスホールへと入場していた貴族たちは足を止めていた。そして、エリオットが馬車から降りると注目が一気に集まってくる。

 これも、夏宵の舞踏会に婚約者と参加するとエリオットが王宮に参加表明の書状を送ったせいだ。

 エンデュミオン公爵が婚約者を連れてくる。

 その話は王国中を数日のうちに駆け巡っていた。

「ほら、おいでヴァネッサ」

 ちらりとヴァネッサは外を窺うとかなりの貴族や関係者がコソコソと話しながらこっちを見ている。しかし、いつまでも馬車に引きこもっているわけにも行かず、ヴァネッサは差し伸べられたエリオットの手を取って馬車を降りた。

 誰だ。

 それがヴァネッサの姿を見た人々の感想だろう。

 いたたまれない気持ちでヴァネッサはエリオットにエスコートされながらホールへと向かった。

 途中、ものすごい顔で睨みつけてくるセリネアを見かけ、ヴァネッサの胃がさらにしくしくと痛むのを感じる。

「エンデュミオン公爵とご婚約者の御成り!」

 ホールに入るとファンファーレと共に到着が告げられる。もう逃げ場はないとヴァネッサはバクバクと弾けそうなほどに脈打つ心臓をどうにか落ち着けようとしていた。

「じゃあ、早速行こうか」

「う、うん……足を踏んだらごめんね?」

「大丈夫だよ。踏まれても大丈夫な靴を選んできたから」

「んもぉ! 雰囲気が台無しじゃないの!」

「それ、ヴァネッサが言う?」

 夫婦漫才を繰り広げながら二人はホールの真ん中へと躍りでる。

 この国では舞踏会の会場に到着したらまずは一曲踊るのがマナーだ。挨拶回りや込み入った話はその後と決まっていた。

 管弦楽団の演奏する音楽が次の曲に切り替わると、ヴァネッサは練習通りステップを踏み始めた。それに合わせてエリオットも軽快にヴァネッサを追いかける。

「上手いよ、ヴァネッサ。本当に初めてなの?」

「そういうあんたも上手いじゃないの……もしかして私の他にもいろんな女と踊ってるんじゃない?」

「冗談はよしてよ。僕はずっとヴァネッサしか見てないよ」

「〜〜っズルい。それずるいからダメ!」

「ははっ、可愛いよ、ヴァネッサ」

 曲も終わりに差しかかり、エリオットはヴァネッサを思い切り抱き寄せる。そして、曲の最後に合わせて二人の唇が重なり合っていた。

 周りから割れんばかりの拍手が巻き起こり、その中心には二人の姿があった。

 ほんの一曲の間に、エリオットの溺愛ぶりがこの場にいた貴族たちに知れ渡った瞬間でもある。

 だが、一人だけ人混みをかき分けて近寄ってくる令嬢がいた。

「エリオット様、その女に騙されています! 目を覚ましてください! そんな売女に口付けをするだなんて、エリオット様が穢れてしまいます!」

 涙ながらにセリネアはエリオットに告げるが、彼は冷めた目で彼女を見つめていた。

「その言葉、取り消すならば今のうちだぞ。直ぐに謝罪すれば許してやる」

「どうしてお分かりにならないのですか! どこの馬の骨ともしれない女を……どうして!?」

 やっぱりダメだったかとヴァネッサは目を伏せた。

 エリオットの作戦は二人の仲睦まじい様子を見せるというものだった。普通なら、そこで諦めるだろう。ヴァネッサもそうなる、いや、そうなって欲しいと思っていた。

 だが、セリネアはヴァネッサを侮辱し、エリオットの逆鱗に触れてしまう。

 可哀想に思うが、これから先も今のように粘着されてはたまったものではない。引導を渡すしかなくなっていた。

「どうしてそんな女なのですか!?」

 セリネアを無視して、エリオットはホールに響くほどの声で会場にいるものたちに語りかけ始めた。

「皆様に紹介しましょう。私の婚約者、ヴァネッサ・エイブリーです」

 エイブリーという名を聞いて、会場中がざわつき始める。

 いろいろと黒い噂の耐えなかったエイブリー伯爵を思い出していたのだ。

 エイブリー伯爵は没落してその後は行方知れずだった。

 いったいどういうことか説明を求める声が上がっていく。

 だが、エリオットが自分のシグネットリングを外し、跪いた瞬間、参列者たちは息を飲んでいた。エリオットはヴァネッサの左手の薬指に公爵家当主の証であるシグネットリングをつける。すると、ヴァネッサも首にかけていたシグネットリングをエリオットの左手の薬指に嵌めた。

 この国の当主の証であるシグネットリングを相手に渡すということは、全てを相手に捧げるという意味を持つ。

 エリオットは立ち上がると、声を大にして参列者たちに語りかけた。

「皆様がご存知の通り、私の父と叔父は当主の座を巡り、紛争を起こし戦い、亡くなりました。その間、まだ子供だった私は、彼女の、ヴァネッサ・エイブリーの元に匿われていたのです」

 またもや視線がヴァネッサに集まり、萎縮しそうになる。けれども、エリオットの手がヴァネッサの手をそっと握ってくれた。それだけなのに、逃げ出したくなるほど怯えていた心は落ち着きを取り戻していた。

「彼女は、ヴァネッサは子供だった私に愛情を教えてくれたのです。消して裕福ではありませんでした。固く狭いベッドで毛皮を奪い合いながら眠ったり、温かい食事を必ず用意してくれて……私が辛い時も悲しい時も、いつも隣にいてくれたのは彼女でした。恩人でもあると同時に、私はヴァネッサを──愛しています」

 エリオットの大演説にホール内は静まり返った。

 だが、誰かが拍手を始めると次々と伝播していき、ホール内は巨大な拍手の渦に飲み込まれていく。

 セリネアは呆然と座り込んで、呆けた顔でエリオットを見つめていた。

 エリオットはヴァネッサの隣を離れ、セリネアに近寄っていく。彼女は手を伸ばしてエリオットに触れようとするが、がっしりと掴まれていた。

 そして、エリオットは彼女にしか聞こえないくらいに小さな声で耳元で囁いた。

「そろそろ目を覚ました方がいい──悪い魔女さん?」

 ガックリと項垂れると、セリネアはブツブツと「嘘よ」だとか「私はヒロインよ」などと脈絡もなく呟き始めていた。

「あのさ、エリオット……あの子大丈夫なの?」

「もう関係ないさ。ロズハート嬢の魔法はもう解けた──いや、もしかしたら今よりいっそう深く物語の世界に入り込んだかもしれない。二度と戻って来れないくらい深く、ね」

「あんた、性格悪くなった?」

「ありがとう、これもヴァネッサのおかげだね」

「褒めてないし、私のことバカにしてるでしょ?」

「あ、バレた?」

「抓ってあげましょうか──旦那様?」

「〜〜っ! あの、ヴァネッサ、もう一回。もう一回言って欲しいな」

「抓ってあげましょうか?」

「違うよそっちじゃなくて──」

「冗談よ、旦那様……ってちょっと気が早かったかな?」

「よし、明日にでも結婚しよう」

「さすがにそれは急ぎすぎでしょ?」

「僕はそうは思わないんだけどね」

 微笑みながらエリオットはヴァネッサを引き寄せながら頬にキスをする。その時、ヴァネッサは人混みの中に癖のない艶やかな黒髪と青い瞳の令嬢を見つけた。陶磁器のように白い肌に誰もを魅了する美貌の持ち主だ。

 ヴァネッサは彼女を知っている。

 ──アリアベル・ラントレス。

 この世界におけるヒロインの立場にいるべき令嬢だ。

 アリアベルは無表情のままヴァネッサをしばらくじっと見ていたかと思うと、人混みの中にスっと姿を消してしまう。

 エリオットが好きだ。

 彼の想いも受け入れた。

 それなのに、アリアベルの姿を見た途端、ヴァネッサの心は掻き乱され、言い知れない不安の波が押し寄せてきた。

 私は傷ついたエリオットとアリアベルの二人の中を深めるためだけの存在だ。その為だけに存在しているんだ。エリオットの恋人になりいずれは結婚するヒロインとは違う。

 甘い夢から覚めたような気分だ。

 一気に幸せの絶頂からどん底まで突き落とされた気分になり、ヴァネッサは目眩を覚えた。

「大丈夫、ヴァネッサ?」

「……大丈夫」

「顔色が悪いよ。少し休もう──」

「いい、いいから……少し一人にさせて。人が多すぎて人酔いしちゃったかも……バルコニーで少し風に当たってくるから……」

「僕もついて行く」

「でも──」

「嫌だ、絶対に」

 このままヴァネッサをひとりにしてはいけない。

 エリオットはそんな気がしていた。

 もしここでヴァネッサを一人にしてしまったら、二度と会えないような気がする。どこか遠くへ一人でふらっと消えていってしまいそうだ。エリオットはヴァネッサの手を取りながら二人でバルコニーへと向かった。

 まだ昼の熱を持った風が二人の間を通り抜ける。

 夜空は晴れ渡り、星空が広がっていた。

 ほんの少しだが、ヴァネッサは息苦しさから開放されたような気がする。普通なら、広大な夜空を見上げて、私の悩みなんて小さなものね、なんてスッキリするところだろう。

 だが現実は違った。

 広大な星空に浮かぶ大きく光る一等星、アリアベルとは違う。私は名前もつかないような小さな星屑と何ら変わりはしない。そう思ってしまった。

「はぁ……なんだかダメね、私って」

「急にどうしたんだ?」

「ううん、なんでもない……なんか、私が公爵夫人だなんてありえないんじゃないかなって思って……」

「僕からしたら、ヴァネッサ以外の人と結婚だなんてありえないんだけど?」

「ほんと、そういうのずるいと思うんだけど……」

「ずるいも何も本音だよ。僕はヴァネッサのために公爵家を手に入れたんだ。どんなでも使ってでも一番であり続けた。誰の追随も許さないくらいに……全てヴァネッサのためだよ」

「エリオット……」

「ヴァネッサがいないなら公爵家もなんの意味もない。だから……僕を捨てないでくれ」

 懇願するようにエリオットはヴァネッサの手を握りしめていた。微かに彼の手は震え、白い手袋にはポタリと雫が落ちていく。背中を丸めて俯く彼はいつもの自信に満ちた姿からは想像できないほどに弱々しくなっていた。

「エリオット……私はあんたを捨てないわよ」

「じゃあなんで公爵夫人なんてありえないだなんて言うんだよ!」

「だってさ……私の方が捨てられそうだなって思って」

「僕がヴァネッサを捨てるなんて……それこそありえない。神にでもなんでもいい。誓うよ──どれだけ生まれ変わっても必ず見つけだしてあなたを愛すると」

 疑いたくなかった。

 誰が好き好んで人を疑うというのだろう。

 それでも、ヴァネッサはエリオットがアリアベルと愛し合う未来を知っていた。知っていながらヴァネッサはエリオットを好きになってしまった。

 もしかしたらアリアベルに心を奪われて終わるかもしれない。それならそれで、エリオットの気が済むまで婚約者でもなんでもいいと思っていたのも嘘ではない。けれども、もう引けないところまで来てしまっていた。

 もうエリオットを手離したくない。

 もうエリオットの傍を離れたくない。

 ヴァネッサはそっとエリオットを抱きしめた。それでもエリオットは声をあげずに微かに肩を震わせている。いっその事、何も知らない方が良かった。そうすれば、こんな気持ちにならなくてすんだのではないか。

 エリオットにいつか捨てられるのではと恐怖することもなかったはずだ。

 けれども、ヴァネッサはエリオットを受け入れる選択肢を選んでしまった。ならば、向き合っていくしかないだろう。

「ごめん、エリオット。いきなりマリッジブルー? そんな感じになってたみたい」

「僕には気が早いとか言っておきながら……酷いよ……」

 トン、とエリオットは額をヴァネッサの胸元に当てたまましばらく黙り込んだ。体は大きくなってもまだまだ子供みたいだ。ヴァネッサは黙ってエリオットが落ち着くまで頭を撫でていた。


 そんな二人をバルコニーの入口のカーテンから見ている人影があった。流したままの黒髪と、サファイアブルーの瞳の純朴そうな令嬢、マリアベルだ。

 両手には飲み物が入ったグラスを持って、気づかれないようにタイミングを窺っていたがどうやら必要なくなったようだ。まるで婚約者と言うよりは姉弟のように見えてクスリと笑んでいた。

「本当にお似合いね……あなたたち」

 誰に言うでもなく呟くとマリアベルは右手に持っていたグラスを傾けてその場を立ち去る。途中、すれ違った男に左手に残っていたグラスを押し付けると、彼女はダンスホールの中へと消えていった。

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