第6話:初夏の大騒動
まだ午前中だと言うのに、ヴァネッサはぐったりとしてベッドにうつ伏せで倒れ込んだ。
公爵家に来てから既に二ヶ月。
毎日ダンスにマナー、そして座学漬けの日々だった。ひとまずは婚約だの結婚だのの話しは保留してもらったが、貴族としての立ち振る舞いを学ぶために一流の家庭教師が毎日やって来くる。
夏季を告げる毎年恒例の皇室の舞踏会。
そこでエリオットはヴァネッサのお披露目をするんだと息巻いていたが、未だに婚約の話は決めかねていた。
このままなし崩し的に、婚約者にされてしまいそうだ。
それはそれとして、今一番の問題は日付の感覚が薄れてきていることだろう。
──せめて週一で休みが欲しい。
算術や母国語の勉強は日本で生きていた頃の知識や経験があるが、歴史に関しては全く分からない。どこぞの家門が何年に何をしただの、どこぞの家門は何の功績で授爵、陞爵しただの覚えるだけで大変だ。
その上、間違う度に手の甲をムチで打たれるのだ。
「はぁ……もうおうちかえりたい……」
泣き言を言っているとドアがノックされ、心配そうな顔をしたサーシャが入ってきた。専属という訳ではなかったが、ランドリーメイドだったはずの彼女が気づけば世話をしてくれている。
もうこのままレディメイドはサーシャでいいかなんて思いながらぼんやりと彼女を見つめていた。
「ヴァネッサ様、大丈夫ですか?」
「大丈夫です、先輩……」
「あのぉ、そのぉ、先輩呼びは勘弁してください……」
「ふぁい……」
二人のなかではお決まりの冗談になって久しいが、ヴァネッサは目に見えて元気がなくサーシャも心配になる。
ヴァネッサは仰向けにベッドに転がったまま、サーシャの治療を受けた。このままではストレスで禿げそうだと思ったヴァネッサはサーシャに頼みごとを思いつく。
「あの、先ぱ──サーシャさん。外套か何か持ってきて貰えませんか?」
「外套、ですか?」
「はい。ちょっとお出かけしたいなって思って……」
「申し訳ございませんが、それはできかねます。旦那様のお許しがなければ外出は許可できませんので」
「そっかぁ……」
申し訳なさそうにしているサーシャを責めるつもりは到底ない。ならば自分で交渉するか、とヴァネッサは包帯を巻き終わるとゾンビのようにノロノロとエリオットに会いに向かう。この時間ならきっと執務室で仕事中だ。
部屋に着くと、中から話し声が聞こえてきてノックの手が止まる。
ヴァネッサはドアに耳を当て欹てた。
「ヴァネッサ様──」
「静かにしてください、先輩……」
中ではエリオットがアルヴィスと真剣な面持ちで相談していた。話の話題は例の男爵令嬢のことだ。
「アルヴィス、ロズハートは今後何があっても通すな。兵を使ってでも追い返せ」
「はっ、旦那様。しかし、仮にも貴族令嬢ですが、よろしいのですか?」
「ああ、ロズハート男爵家くらいならすぐにひねり潰せるからな」
「しかし、さすがにひねり潰すはやり過ぎではありませんか?」
「これも男爵が娘を甘やかすだけ甘やかしたツケだ。全く、小説と現実を混同するとはな……」
「巷では身分の低い令嬢や平民が王族や上級貴族と結ばれる低俗な話が流行っておりますからなぁ。困ったものですな」
「そうだな。ロズハートは自分が小説のヒロインか何かだと勘違いしているようだ」
グサリとエリオットの言葉がヴァネッサにも突き刺さる。前世で読んだ小説の世界に転生しているヴァネッサ自身もそんな考えがないとは言えない。だが、セリネア・ロズハートと違うのはヒロインではなく、悪女だと自覚があることだろう。
「ところで、ヴァネッサはいつまでそこにいるつもりかな?」
さっきまでとは打って変わって嬉しそうな声でエリオットは声をかけてきた。
バレてる!?
逃げなきゃ!
その場から離れようとするが、逃げるよりも先にアルヴィスがドアを開けていた。ヴァネッサはその場で正座してしゅんと項垂れている。
「ヴァネッサ様、レディが聞き耳を立てるなど不躾でございます」
「はい、アルヴィスさんの仰る通りです……」
「まぁいいじゃないか」
楽しげに微笑むとエリオット自らヴァネッサを招き入れて来客用のソファに座らせた。
「ヴァネッサから来るなんて珍しいね」
「あ、うん。あのさ、外出したいんだけどいいかな?」
「いいよ──」
あっさりと了承されてヴァネッサは驚いていた。
多分、ダメだと断られるだろうなと期待をしていなかった。飛び跳ねて踊りたい気持ちだったが、すぐに小躍りする脳内ヴァネッサはすぐにガックリと膝を着くことになる。
「──僕も出かけたいと思っていたからね」
一人で出かけたかった。
別にエリオットが嫌いなわけではない。
だが、目が覚めて最初に見るのは天井ではなく、エリオットの笑顔からおはようが始まる。そして、寝る前もエリオットが見守る中眠りにつく。しかも、仕事の合間を縫って彼はヴァネッサの様子を何度も見に来るくらいだ。
唯一安らげるのは、歴史の授業中以外だろう。
「丁度、今日の午後は予定がないし、どうかな?」
「あ、うん。じゃあ、それで……」
「ヴァネッサからデートのお誘いだなんて、嬉しいよ」
「デ、デートって、ちょっと出かけるだけじゃない!」
「巷では男女で出かけるのをデートと言うらしいじゃないか。どこが違うんだい?」
ニコニコと満面の笑みを見せてくるエリオットに、それでも違うと否定できなくなってヴァネッサは敗北を受け入れることにした。
いや、違う。
前世では姉弟でも、姉弟デートと言って家族で出かけることもあった。だからそう、姉弟デートだと切り替えてヴァネッサは心を落ち着かせた。
いつものようにエリオットと一緒に昼食を摂るとヴァネッサたちは馬車に乗り込んだ。
その時、御者の顔に見覚えがあるような気がしたが、思い出せない。デジャブかなと特に気にしないことにして、馬車の中から差し出されたエリオットの手をとった。
しばらく馬車は走り、畑や農村を通り抜け大きな街に到着する。ヴァネッサの体感からざっと一時間くらいだろうか。馬車から降りながらヴァネッサはエリオットに問いかけていた。
「ねえ、なんでわざわざ不便な場所に屋敷を建ててるの? 街の近くの方が便利じゃない」
「それ、僕も思ってるけどさ、村から毎日直接新鮮な卵や野菜を仕入れるためにはちょうどあの場所がいいんだって」
「ふぅん。食材を売りに来る領民に配慮したからあの場所なんだ?」
「いや、そうじゃなくて美味いものを食べたいからって理由で爺さんがあそこに屋敷を建てたんだってさ。傲慢だよね」
それはエリオットもではとヴァネッサは訝しんだ。
「ところでさ、ヴァネッサ」
「なに?」
「その手、大丈夫? どうしたの?」
「あ、ああ、うん。ちょっと転んで──」
「歴史の授業のウィペット・シギャックだね? ヴァネッサには鞭を使うな、手を出すなと言ったのに……どうして黙ってたんだ?」
「えっと……あんたって理由も聞かずにすぐ怒るじゃない。マリーナさんの時だってあんたの方が悪いのに!」
「どうしてヴァネッサは他人のことばかり心配するんだ……。でも、マリーナの時とウィペットは違う。僕は最初に警告してたんだからね」
「あのさ、エリオット。穏便に、ね?」
「穏便に秘密裏に処理するよ」
「そうじゃなくってさぁ!」
傍から見ると和気あいあいとした様子でヴァネッサたちは街中を歩いていた。
その二人を、いや、ヴァネッサを嫉妬の眼差しで見ている女がいた。
セリネア・ロズハート男爵令嬢だ。
公爵邸は出禁にされ、エリオットは話も聞いてくれない。全てはあの悪女のせいだとセリネアの頭の中で物語が再構築されていく。
そう、あのヴァネッサとかいう悪女は物語における大きな障害だ。
あいつを舞台上から引きずり下ろせば、きっとまたエリオットは微笑みかけてくれるはずだ。そして、私はエリオット様と
そのためにはあの女が邪魔だ。
だとしたら排除するしかない。
悪い魔女には遠くに行って貰わないと。
日傘でニンマリと邪悪な笑みを浮かべる顔を隠してセリネアは魔女退治を始めようとしていた。
・
「見て見て、エリオット! これキモかわいい!」
ヴァネッサは出店でヒトデに人間の体が生えたような人形を手に取って喜んでいる。キモかわいいが何なのかはよく分からないが、今なぜだか国中で流行っている謎のキャラクターだった。
「気に入ったのなら欲しいだけ買ってあげるよ」
「いや、さすがに多いって……」
「そうか……」
目に見えてエリオットはしょんぼりしている。
単に喜ばせようとしてくれたのだとヴァネッサも分かってはいた。分かってはいてもエリオットはやり過ぎなのだ。
まるでアリアベルにプレゼントをした時のように──。
(あれ? もしかして私がストーリーをねじ曲げちゃったんじゃ……)
不安になってヴァネッサは固まってしまう。
本来ならこの時期には既にエリオットはアリアベルに執着していたはずだ。だと言うのに、結婚を申し込んだのはアリアベルでもないし、公爵夫人用に用意された部屋──ヴァネッサ曰く監禁部屋──は彼女ではなくヴァネッサのために用意されている。
「どうしたの、ヴァネッサ?」
「えっと……なんでもない。そ、そうだ。小腹が空いたね。空かない?」
「そうだね。買い物は後にして行きつけのレストランにでも──」
「あー! あれ、あれ食べたいなぁ!」
「どれ?」
「あそこのワゴンで売ってるやつ!」
「ミートパイか。あんなのでいいの?」
「あんなのとか言わないの! お店の人に失礼でしょ!」
「あ、ごめんってヴァネッサ!」
「あのさ、いくらあんたが公爵様で偉くても、人を尊重しないなら誰も味方がいなくなるわよ?」
「……うん、分かったよ」
体は大きくなったが中身はまだまだだとヴァネッサは肩を竦める。だが、ある意味エリオットを矯正するチャンスなのではとも思った。
作中では愛情を受けずに育ったエリオットは、公爵家当主としての教育を未熟なまま受けている。その、人としてまだ未熟な部分をちゃんと自分が教育すればいいのだ。
もしかしたら、それで視野が広がり、アリアベルと恋に落ちて本編通りの流れに戻るかもしれない。その時、人としてエリオットが成長していればアリアベルも監禁される未来を変えられる可能性があった。
「こほん、とにかく、あんたは視野が狭すぎるわよ。しばらく昔みたいに粗食にしてみる?」
「ヴァネッサが作ってくれるのならそれもいいよ」
「〜〜っ」
恥ずかしげもなく告げるエリオットにカウンターを食らい、ヴァネッサは目を逸らした。そして、恥ずかしさを隠すこのようにエリオットに軽食を買いに行かせた。
「はぁ……やばいなぁ。私はただの殺され役の悪女なのに……」
「そうですわね。あなたはエリオット様を誑かした悪い魔女として消えるのがお似合いですわ」
不意に声をかけられて振り返ると、そこには嫌な笑みを浮かべるセリネアが立っていた。逃げようとするが、顔に麻袋を被せられ、セリネアが引き連れていた男たちに担がれてしまう。為す術もなくヴァネッサは誘拐されて、馬車に放り込まれていた。
──しばらくしてエリオットは両手にミートパイを持って帰ってきた。
しかし、いくら探してもヴァネッサの姿は見つからない。
「ヴァネッサ、どこだ!?」
エリオットはヴァネッサが消えた付近を探すが、見つけられなかった。
ひとまず屋敷に戻って私兵を集めて街中を捜索させようと馬留へと向かうが、馬車は置きっぱなしで御者の姿もない。
「あの、エンデュミオン公爵様、ですね。御者の方からお手紙を預かっております」
馬留のオーナーの男に手紙を渡されて、エリオットはすぐに中を確認する。そして、読み終わると彼は安堵のため息をついてしゃがみこんでいた。
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