第5話:トラブル発生
数週間の旅を経て、ヴァネッサは公爵邸の門の前までやって来ていた。道中では長年貯まった汚れを落とされ、ドレスを着せられ、さらにはどう見てもお高そうなアクセサリーで飾り立てられ馬子にも衣装、見た目だけは貴族令嬢だ。
だが、どうも落ち着かず、ヴァネッサはシンプルなブラウスと紺色のスカートに着替えている。
さすがに買いすぎだ、やり過ぎだと伝えてもエリオットは「このくらいヴァネッサには安すぎるくらいだよ」なんて言ってはにかむのだ。
違う、そうじゃない。
今ヴァネッサが着ているブラウスだって、金貨十枚はくだらない。
何よりもヴァネッサが恐れているのは金銭感覚をエリオットに破壊されてしまいそうなことだ。
家を出る前に持ってきたへそくりを大切にする気持ち、価値を忘れたくはない。
玄関前で馬車を降りようとすると、先に降りていたエリオットが手を差し出してきた。仕方なく彼の手を取って馬車から降りると見覚えのある老紳士が恭しく頭を下げている。
「お久しゅうございます、ヴァネッサ様」
「あなたは──アルヴィスさん、でしたよね?」
「おお、この老輩を覚えていてくださるとは恐悦至極でございます」
以前、エリオットを迎えに来た時に会ったのだが、その時と比べると態度が随分と違う。
アルヴィスがヴァネッサに向けていたのは侮蔑の感情であり、こんなに敬服されるのはむず痒く感じた。
「アル、ヴァネッサの部屋は用意できてるか?」
「申し訳ございませんが、特注のドレッサーがまだ届いておりません……」
「あれだけ入念に用意しろと言っただろ?」
「はっ、申し訳ございません」
「あのさ、エリオット。部屋なんてなんでもいいんだけど……」
「そうはいかないよ。僕はヴァネッサを迎えるために最高級品だけを用意したいんだ!」
「……もうお腹いっぱいよ。とにかくどこでもいいから休ませて……横になりたいわ」
「旦那様、恐れながらヴァネッサ様の体調を考えるのならまずは客間でお休みして頂いてはいかがでしょうか」
「仕方ない……ごめん、ヴァネッサ」
「もういいから……気にしないで」
「それと、旦那様。また例の方がいらっしゃって──」
真剣な顔をしてエリオットとアルヴィスは話し始めてしまう。出来るだけ早く横になりたかったヴァネッサは二人を残して屋敷の中に入ろうと決めた。部屋の場所は誰かに聞けばいいやと、エリオットに声をかけなかった。
そのせいで大事になるのだが、ヴァネッサはまだ知らない。
ヴァネッサは玄関の大扉の隣の小さな扉から中に入っていく。すると、目の前には真っ白な大理石で覆われた玄関ホールが現れる。ヴァネッサは感嘆の声を上げながらホールを見渡していた。
玄関ホールの中央には大きな階段が真っ直ぐ伸び、そこから左右に踊り場が続いている。その踊り場から今度は真反対に階段が伸びて吹き抜けになっていた。
「こう言うのにちょっとは憧れてたのよね」
階段をかけ登っていくと、階段正面の踊り場には気難しそうな顔をした金髪碧眼の男が描かれた肖像画が飾られていた。
高そうな絵だなとぼんやりみていると、女性に声をかけられた。振り返ると、エプロンドレスの女性が立っている。黒髪を三つ編みにして右側に流しているメガネの女性だ。
「何をしているのですか、早くこちらに来てください」
「あ、はい」
エリオットが気づいて案内を寄越してくれたのだろうかとヴァネッサは呑気に考えていた。だが、行先は屋敷の奥の渡り廊下を渡った先の離れだった。
さすが公爵家とまたヴァネッサは深く考えていなかったが、床の赤絨毯が途切れ、床は木の板に変わっていく。そして、ある部屋の前で止まるとメイドはノックした。
「サーシャ、今日から住み込みで働く新人を連れてきました。世話をお願いします」
言うだけ言うと黒髪メガネのメイドは踵を返して戻っていってしまう。それと同時くらいにドアが開き、中からショートヘアの赤髪の少女が顔を覗かせていた。
まだ見たところ十代半ばで、深緑の丸い瞳でヴァネッサを見上げている。
「あの、私、サーシャです。わ、私が先輩なので、ちゃんと言うことにしたがってくだしゃい!」
あ、噛んだ。
だからと言ってヴァネッサにはいちいち指摘する気はなかった。
サーシャと名乗るメイドに促されて、ヴァネッサは室内に入る。
室内は質素ながら両方の壁にベッドがひとつずつ。そして、窓際に机が二つ並んで置かれていた。ドアの脇にはキャビネットが左右にひとつずつ。
右側のベッドの上には真新しいメイド服が置かれている。
どうやら新人メイドと間違えられているようだとヴァネッサは確信した。
けれども、これはこれで面白そうだとほくそ笑んだ。
使用人たちから見たエリオットがどんな感じなのか聞くチャンスである。
「えっと……あの……」
「失礼しました、サーシャ先輩。申し遅れました、私は──ヴィネスです。よろしくお願いします、先輩!」
先輩呼びされてサーシャの顔がパァっと明るくなる。ヴァネッサはしばらくサーシャの指示に従うことに決めた。
メイド服に着替えると、ヴァネッサはサーシャから貰った髪ひもで髪を結んだ。
「これで、ヴィネスさんもエンデュミオン公爵家のメイドです! では、早速、洗い場に行きましょう!」
「はい、先輩!」
嬉しそうにしているサーシャに、ヴァネッサはこの子ちょろいと思ったのは言うまでもない。
意気揚々と外に出ていくサーシャの後をヴァネッサは着いていく。すると、大きな木のタライに灰汁を入れて踏み洗いしているメイドの集団が既に仕事を始めていた。
「では、遅れた分、私たちも頑張りましょう!」
「はい、先輩!」
適当に返事すると、ヴァネッサも周りのメイドに習い、踏み洗いを始める。貧民街でも自分の洗濯物は自分で洗っていたこともあり、別段難しいことはない。だと言うのに、サーシャは酷いものだ。
洗濯物に足を取られて顔からタライの水の中にダイブしたり、洗濯物に絡まったり。その度にくすくすとサーシャを嘲笑するメイドたちの笑い声が聞こえてきた。
「サーシャ先輩、大丈夫ですか?」
洗濯物に巻かれて、全身びしょびしょで尻もちをついているサーシャにヴァネッサは手を差し出した。
「ありがとう……ございすます。私、いつもドジばかりで……ごめんなさい。私、良い先輩じゃないです」
「でも、本気でお仕事を頑張ってるんですよね?」
「もちろんです。手を抜いたことはありません──と言っても私はダメな子ですけど……」
「ダメな子じゃないですよ。私も手伝いますから頑張りましょう」
「はい!」
これではどっちが先輩なのか分からないなとヴァネッサは苦笑する。だが、気を取り直したサーシャとヴァネッサは雑談を交えながらも次々と洗濯を終わらせていった。
・
ヴァネッサが消えてしまった。
ちょっと目を離した間に彼女の姿が見えなくなりエリオットは大慌てだ。
さらに悪いことに悪いことは重なるもので、厄介な客人も来ているようだった。正直な話、その厄介な客人をさっさと追い出したいが、まずはヴァネッサの捜索が先だ。
エリオットは既に小一時間ほど屋敷中を探していると、黒髪を三つ編みにしたメガネをかけたメイドを見つけて声をかけた。
「マリーナ、僕の大切な人が消えた。どこかで見なかったか?」
「ごきげんよう、旦那様。婚約者様でしたら、ご用意中のお部屋にご案内致しました」
「──っそうか。そうだったのか……良かった」
「では、旦那様。お部屋へ行かれるのでしたらお茶をご用意致しますね」
「ああ、頼んだ。最高級品で頼む」
「かしこまりました」
エリオットは来た道を戻り、二階のエリオットの私室の隣の部屋へと向かう。そこがヴァネッサのために用意していた部屋だ。
意気揚々とエリオットはドアを開ける。のだが、次の瞬間笑顔が固まった。
そこにいたのはヴァネッサではなく、この世で一番嫌いな女だったからだ。
「あら、エリオット様。やっと会いに来てくださいましたのね?」
そこには亜麻色の髪と瞳の令嬢がソファに腰かけていた。
「ここで何をしている、ロズハート嬢?」
「そんな他人行儀に呼ばないで頂けます? せリネアとお呼びくださいまし、エリオット様」
「ふざけているのか? 何故お前がここにいるんだ?」
「あら、何故ってエリオット様の婚約者である私がこの部屋にいてはいけない理由はありませんわよね?」
「誰が婚約者だ! 私は貴様を婚約者だと認めた覚えはない!」
「そんなに照れなくてもよろしくてよ?」
「巫山戯るなっっっ!」
エリオットの怒声が聞こえ、異常を感じ取ったのか使用人たちがバタバタと部屋の前まで集まってくる。その中にはアルヴィスの姿もあった。
「これは──一体どういうことですか!? あの方をこの部屋案内したのはどなたですか!?」
「私ですが、何か問題でも?」
名乗り出たのはマリーナだった。
さすがのアルヴィスも言葉を失って口をパクパクしていた。
叱責しようにも言葉が出てこない。
その様子にマリーナもとんでもないことをしでかしたと言うのを感じ取った。
「家令様、婚約者がいらっしゃるとお聞きしたのですが……」
「ええ、そうです。しかし、その方はロズハート男爵令嬢ではありません!」
「そんな……旦那様はロズハート様を婚約者にお決めになられたのでは……」
「誰がこんな女なんかを婚約者にするか!」
「ああっ……そんな……申し訳ございません旦那様!」
マリーナはエリオットの足元で頭を床に擦り付けるようにして謝罪していた。
だが、エリオットは剣の柄に怒りで震える手で握ろうとしている。
何も分かってないのは自分が婚約者だと思い込んでいる頭お花畑のセリネアだけだろう。
「侍女長……お前はどう間違えばこの女が私の婚約者だと思うんだ……?」
「申し訳ございません……」
「あのさ、エリオット。あんた何してんのよ」
一髪触発な空気の中、緊張感のないため息混じりの声に使用人たちは騒然とする。
このメイドは何をやっているんだ。
ああ、こいつ死んだわ。
使用人たちは突然割り込んできたメイドの末路を不憫に思っていた。
しかし、エリオットは急に笑顔になると、空気が読めないメイドの元に歩み寄ると人目をはばからず抱きしめていた。
「どこに行ってたんだよ、ヴァネッサ……心配したじゃないか!」
「どこって……メイド職場体験かな?」
「なんでそんなことを……なるほど? どこぞのバカがヴァネッサをメイドと間違えて、この女を婚約者だと間違えた。そういうことか?」
マリーナは頭を床に擦り付けたまま震えている。
こんなのは嫌だ。
こんなエリオットを見たくない。
ヴァネッサはエリオットの頬を昔のようにつねっていた。
「いだだだだだだ!? ヴァネッサ、何をして──」
「いや、私が公爵夫人だなんてありえないから」
「ちょ、ちょっと待って、本当に痛い──」
「あんたねぇ、ちょっとミスったくらいで何ブチ切れてんの!? カルシウム足りてないんじゃないの!?」
「カ、カル?」
「とにかく、私は気にしてないし、部屋なんか適当でいいわよ。それに、メイドとして働くのも楽しいから全然いいんだけど? むしろ何もしない方が落ち着かないっての!」
「わ、分かった! 分かったから放してよヴァネッサ!」
「本当に?」
「本当に!」
やっとのことでヴァネッサは頬を抓るのをやめた。昔と違って背丈を追い越されて抓りにくいななんてヴァネッサは考えている。その一方、使用人たちは呆然としていた。
血が流れるだろうと予見していたのに、ヴァネッサと言うメイドが主の怒りを収めてしまったのだ。
「な、なんなんですの、この下女は! エリオット様を傷つけるなんて許しませんわよ!?」
ヴァネッサはセリネアを無視して、未だに震えているマリーナに歩みよった。
そして、優しく声をかけた。
「顔を上げてください」
「で、ですが……」
「あの、マリーナさん、でしたよね。サーシャからいろいろと聞いてます。主に忠実でどんなに小さな仕事でも手を抜かないと」
「とんでもございません……」
「お聞きしたいんですけど、マリーナさんはエリオットからどんな風に聞いていたんですか?」
「大切な人が来るとだけです」
「はい、エリオット正座」
「えっ……なんで?」
「何でじゃないわよ! 完全にあんたの伝達ミス! マリーナさんはその人の名前や容姿は知ってましたか?」
「いえ……」
「確認しなかった侍女長にも責任が──」
「エリオットぉ……?」
「ごめん、姉さん。抓るのだけは勘弁して──あだだだぁ!?」
「とにかく、今回の件で悪いのはあんたよ!」
「はい、ごめんなさいヴァネッサっ!」
マリーナは涙しながらヴァネッサを見つめていた。
使用人のミスはあってはならない。
自分の落ち度だと言うのに、ヴァネッサと言う心が広く、器の大きな女性はエリオットのミスだと言い切っている。
メイドと間違えた上に、通すべきではない場所にセリネアを案内してしまった。
死を覚悟していたと言うのに許されたのだ。
「ヴァネッサ様、私は今一度エンデュミオン公爵家と、ヴァネッサ様に、いいえ、奥様に忠誠をお誓致します!」
「だから、私が公爵夫人だなんてありえませんからぁ!」
マリーナの宣言と同時に、他の使用人たちも膝をつき頭を垂れている。その光景にエリオットは満足気で、ヴァネッサだけがただただ困惑していた。
ただ一人、憎しみのこもった目でヴァネッサを見ている者がいる。
それは言わずもがなセリネアだった。
その後、有無を言わさず公爵邸を追い出された上に、大恥をかかされた彼女はふつふつと煮えたぎる怒りをヴァネッサに向けようとしていた。
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