第4話:迎えに来たよ

 エリオットがいなくなってから五年目。

 完全に立ち直ったわけではないが、ヴァネッサは相も変わらず酒場で働いている。仕事が終わると日銭を受け取り皮袋へと放り込み家に急いで帰宅した。

 そして、床下に隠していたもう一つの大きな皮袋を取り出す。

 その中では大量の銅貨がジャラジャラと音を立てている。

 今の目標はとりあえず貯金することだ。マスターの計らいもあって、給金は銅貨四枚から五枚に上がっていた。

 マスター曰く、見舞金だそうだ。

 一気にくれればいいのにと思うが、彼なりの気遣いに文句は無粋だろう。

 ある程度溜まったらどうするかヴァネッサはまだ決めていない。

 この金で貧民街を出て新たに仕事を探すか、それとももうここで一生を過ごすなら未だに使っている硬いベッドを買い換えるか。

 結局五年経った今も何も決めていない。

 もしかしたらエリオットが帰ってくるかも、なんて淡い期待を抱いて一年、二年と経ち三年がすぎた頃には期待は薄れ、四年目で諦めた。そして、五年に入った頃やっと新しい生活を夢見るようになった。

 けれども変わらない極貧生活。

 今日も昼過ぎまでゆっくり寝て、ヴァネッサは歯が折れた櫛で髪をとかす。ある程度身だしなみを整えると仕事の時間だ。一人暮らしに戻ったとこもあり、のんびりと言うよりはダラけた生活になっていた。

「よし、今日もお仕事頑張るか……」

 気が重いがヴァネッサは酒場の仕込みをするために家を出を出た。

 酒場まであと少しというところで、ヴァネッサは見覚えのある顔の男たちが道を塞いでいた。

 デニスの手下たちだと気づいたヴァネッサは、逃げ出そうと近くの路地に入るのだが失敗だと気づく。

 路地にも手下たちが道を塞いでいた。

 完全に囲まれてしまい、ヴァネッサは薄暗い路地裏の中奥歯を噛み締めている。ここ最近はデニスも声をかけてこなくなり、ヴァネッサも油断していた。

 まずいことになってしまった。

「いよう、ヴァネッサ。優しくしてりゃつけ上がりやがってよぉ……俺にも我慢の限界があるんだぜ?」

 手下たちをかき分けてデニスがニヤニヤと気持ちの悪い笑みを浮かべて現れた。

 デニスに気を取られていると、ヴァネッサはドンと強い衝撃を後頭部に受けて倒れていた。ややあって、後ろ頭を殴られたのだと理解した。

 起き上がろうとするが、それよりも前にヴァネッサはデニスに仰向けに押し倒されてしまう。両腕はデニスの足で押さえつけられ、逃げられなくなってしまった。

「おい、野郎ども。後で回してやるからしっかり見張ってろよ……」

 部下たちに命令すると、デニスはヴァネッサの服を破り捨てる。ヴァネッサの胸元が顕になり、デニスはさらに醜い顔で笑っていた。

「いい格好になったじゃねぇか……お前、初めてか? それともあのガキとやることはやってたのか?」

「黙りなさいよ、デニス!」

「なんだ、やっぱり手付かずなのか。俄然楽しみになってきたぜ」

「……エリオット」

 ヴァネッサは気づけばエリオットの名前を呟いていた。どうしてこんな時にあの子のことが思い浮かぶのだろう。

 もう戻って来ないのに。

 ヴァネッサは恐怖に身を震わせ、ギュッと目を強くつぶった。

 デニスはヴァネッサの様子にさらに気を良くしていた。ズボンのベルトを外すと、ヴァネッサの肌に触れようとした。

 その時、辺りが妙に騒がしくなる。

 次の瞬間には男の悲鳴が上がっていた。

 デニスが異変に気づき顔を上げて通り側を振り返る。すると、手下たちが泡を食って逃げていく光景が目に入った。そして、逃げていく手下の間を抜けて右手に抜き身の剣を持った男が現れる。

 逆光で顔がよく見えないが、ヴァネッサはどこか懐かしさを覚えていた。

 スラッと背が高く、黒い軍服を身にまといがっしりとした体つきだ。

 徐々にその男の姿が見えてくる。

 整えられたブロンドの髪は艶やかに光を放ち、まだあどけなさを残す顔立ちの少年だ。青い瞳は鋭くデニスを睨みつけていたが、ふとヴァネッサと目が合うと彼は笑みを見せた。

「迎えに来たよ、ヴァネッサ」

 声変わりして低くなっているが、ヴァネッサには彼がエリオットだと直ぐに分かった。

「エリオット……なの?」

「そうだよ、姉さん。遅くなってごめん」

「ちっ、な、なんなんだお前は!」

 五年ぶりの再会を邪魔するだなんて無粋なやつだ。

 エリオットは冷めた目をデニスに向けた。

 ズボンはずり落ち、やつが何をしようとしていたのかを理解すると、エリオットはデニスの下腹部を蹴り上げていた。

 痛みに呻き声を上げてデニスは両膝をついて、顔には脂汗を浮かべている。立ち上がって抵抗しようとするが、それよりも早くエリオットの蹴りがデニスの顔面を直撃していた。

「おい、姉さんは貴様のようなやつが触れていい人じゃない」

「ぶはっ……お、お前……何様のつもりだ!?」

「エンデュミオン公爵家当主様だよ、下郎」

「こ、公爵っ!?」

「ああ、そうだ。平民が貴族に対する侮辱をしたらどうなるか──当然知ってるな?」

「や、やめろ。俺のバックには貴族が──」

「僕も貴族だよ。それも他の貴族たちの上に君臨するエンデュミオン公爵家だ」

「──っ」

 繋がりのある貴族をどれだけ集めてもエンデュミオン公爵家に勝てる家門はない。どこも裏賭博に手を出さなければならないほどに借金があるだのビジネスが上手くいっていない貴族ばかりだ。

 ──井の中の蛙。

 やっとのことで昔ヴァネッサに言われた言葉を理解していた。

 どれだけ木っ端貴族と繋がりがあってもそれはデニスの力ではない。それ以前に本物の中の本物では相手にならないだろう。

「頼む……いや、お願いします。命だけはどうか!」

 懇願するデニスに、エリオットは道端の虫けらでも見るような目を向けた。そして、情けなく地面に額を擦り付けるデニスに無感情な声で沙汰を下した。

「顔を上げろ。殺しはしないさ──」

「ありがとうございま──」

「だが、報いは受けてもらおうか」

 ぼとり、とデニスの下腹部から男性たらしめるものが切り落とされて地面に落ちた。血を垂れ流しながらもデニスは切り落とされたものが何なのかを理解した。途端に彼は泡を吹いてひっくり返って失神していた。

 さすがのヴァネッサもドン引きだ。

 五年も会わなかったうちに、あの可愛らしさのあったエリオットがとてつもなくえげつないことをしている。どこで育て方を間違ったのかなぁとヴァネッサは頭を抱えていた。

「さて、姉さん。邪魔者は片付いたし──ごめん、姉さん!」

 目を逸らすエリオットに、ハッとなりヴァネッサは両手で胸元を隠した。

 エリオットはジャケットを脱ぐとヴァネッサの方を見ないようにして手渡す。ヴァネッサは受け取ると、エリオットのジャケットを羽織った。

 ヴァネッサの体には随分大きく、エリオットの成長を感じていた。

「もういいわよ、エリオット?」

「なんで疑問形なんだよ、姉さん」

「そっくりさんとかじゃないわよね……? ほら、最後に会った時はちっちゃかったし」

「そりゃ、五年くらいあればそれなりにデカくなるもんさ」

「そうね、デニスのはもう無理みたいだけど……」

「こほん、姉さん。はしたないよ」

「躊躇いなく切り落としたあんたには言われたくないわよ」

「あ、うん。ごめん。頭に血が上ってて……」

「正直ドン引きよ。と、それはそれとして、迎えに来たってどういうことよ」

「そのままの意味だよ。今は僕がエンデュミオン公爵家の当主だし、姉さんを連れ込んだって誰も文句を言えないさ」

「連れ込むって……あんたねぇ、婚約者とか好きな人とかいないの?」

「……いる、けど」

 エリオットは照れくさそうにヴァネッサから目を逸らした。好きな人は目の前にいる。そう伝えようにもどうも気恥ずかしくて口から出てくれない。

 そんなエリオットの気持ちを知るわけもなく、ヴァネッサはやっぱりエリオットに着いて行く訳にはいかないと考えていた。

 小説の中でエリオットが執着するのは、アリアベル・ラントレスと言う伯爵家の令嬢だ。

 貴族令嬢の割に、社交界のドロドロに染まっていない純朴さを持っている。エリオットが政略結婚や打算で近づいてくる令嬢に嫌気がさしていた。

 それも全て、エリオットを裏切り傷つけたヴァネッサが原因の一つでもある。

 だが、ヴァネッサに酷い仕打ちを受けた心の傷も、アリアベルとの触れ合いで癒され、彼女を独占したいと言う歪んだ愛情を持つようになってしまった。

 エリオットは婚約者がいるとヴァネッサは確かに聞いた。つまり、その相手はアリアベルだろう。

「やっぱり、私は行けないわ」

「どうしてだよ、姉さん!?」

「だってさ、いきなり見ず知らずの私がお世話になりますなんて現れたら婚約者さんも困っちゃうでしょ?」

「???」

「何よ、その鳩が豆鉄砲でも食らったような顔は……」

 ああ、もうダメだとエリオットは追い詰められていた。どうやらヴァネッサは変な勘違いをしているようだ。このままでは埒が明かないと気づいたエリオットは覚悟を決めるしかなかった。

「僕が好きなのは──姉さんだよ!」

「あ、そう。私も好きよ──」

「じゃあ──」

「──大切な家族だもの。離れていてもそれは今も変わってないわ」

 さすがのヴァネッサもドキリとさせられた。

 だが、彼女の中でエリオットとくっつくのはアリアベルだと考えが凝り固まっている。

 故に、真っ先に自分のことを排除していたヴァネッサにエリオットの告白は届かず受け流されていた。

「だから違うんだって……」

「何がよ?」

「ああもう! 姉さん!」

「な、何なのよさっきから……」

「け、けけけ……」

「???」

「僕と、けけけけ、けこん、結婚してください!」

 頭を下げたままエリオットは右手を真っ直ぐに差し出している。

 盛大に噛み散らかしたせいで、ヴァネッサの頭の中では結婚という言葉が直ぐに出てこないでいた。

 ややあってエリオットの言葉が分かってくると、ヴァネッサの顔は徐々に赤くなっていく。

「はぁ!? け、結婚!? 私と!?」

「そうだよ! 僕がずっと好きだったのは姉さんだけだ!」

「いやいやいやいや、ちょっと待ってよ! な、何で私なのよ!?」

「分からないよ! でも、僕は姉さんと、ヴァネッサとしか結婚する気ないから!」

「ちょっと待ってよ……」

 どうしてこうなった!?

 ヴァネッサの頭は、転生したと気づいた時以来の混乱に見舞われていた。

 預けられたエリオットを虐待し、公爵家当主になったエリオットに殺されるのがヴァネッサの本来の未来だ。その未来は回避出来たようだが、予想外の方向へと進んでしまいヴァネッサは膝から崩れ落ちた。

「──っヴァネッサ、そんなに僕と結婚するのは嫌なの?」

「待って、違うの……頭が追いついてないのよ」

「僕はヴァネッサが結婚してくれるまで、いつまでも待つよ」

「〜〜っっっ!!!!!!」

 一度意識してしまうともうダメだった。

 エリオットの顔を見るだけでも心臓が張り裂けそうになる。だが、こんなのは間違ってると心を落ち着けるとヴァネッサはやっとのことで言葉を絞り出した。

「あのさ、いきなり結婚してって言われても直ぐに答えられないわよ……」

「分かった。ヴァネッサの心の整理が着くまで──僕と一緒に暮らそう、ね?」

「はい!?」

「じゃあ、行こうか」

「あっ、ちょっと、下ろしなさいよ!」

「ダメだよ、ヴァネッサ」

 ヴァネッサを抱き抱えると、エリオットは路地裏を出ていく。周りの好奇な目を気にすることなく、晴れやかな笑顔をしていた。

 ヴァネッサは良いさらし者だと感じ、羞恥心もあって両手で顔を覆っていた。

 こうして、ヴァネッサは有無を言わさずに公爵家へと向かうことになってしまったのだった。

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