第3話:サヨナラのノック
「ねえ、エリオット。あんたもっと食べなきゃダメだと思うのよ」
「そう言うヴァネッサも酒場の仕事あるだろ? なんで僕の皿にばっかり肉を放り込むんだ?」
「あのね、私はもう大人だし、これ以上大きくなる必要はないの。男の子はしっかり食べて大きくならないとダメじゃない? ほら、歳の割にエリオットっておチビじゃない」
「ぐぬっ……」
「文句があるなら私より大きくなってみなさいよ」
ヴァネッサのところにエリオットが来てから既に半年が経っていた。
ヴァネッサの仕事終わりで夕食をとる二人にとって、互いに料理を押し付け合うのが日常になっている。と言っても、エリオットが勝てたことはないのだが。
普通なら貧民街に住む人々は家族であっても早い者勝ちだ。強いものが勝ち残っていくところがほとんどだが、エイブリー家だけは違った。今日もこうして、エリオットは口では敵わずに渋々と肉の切れ端を口に放り込んだ。
「なんか、負けた気がする……」
「はっ、おチビのくせに生意気言ってるんじゃないわよ」
「ちぇっ、今に追い抜いてやるからな!」
「はいはい。あと十年? それとも二十年先かなー?」
「明日には追い抜いてやるさ!」
「あっはっはっ、楽しみにしてるわね」
何度も同じようなやり取りをしているが、これが彼女たちの日常の光景になっていた。最初こそヴァネッサは不安があったが、割となんとかなるものだ。酒場から余り物を拝借する量が増えたが、店主は分かっていて何も言わない。
それどころか、最近は給金が小銅貨3枚から4枚に増えている。店主は成人祝いだ、といつも通りに不機嫌そうに言った顔を思い出して、ヴァネッサはツンデレかよ、と内心突っ込んだのを思い出す。
でも、その生活もそろそろ終わりを迎える時期だ。
小説と同じならばもう既に公爵家内のお家騒動は終わっているはずだ。
このお家騒動でエリオットは両親を失い、本来ならヴァネッサに虐待されながら半年間を過ごす。そのせいで、愛を知らない、いや、愛し方が分からない歪な青年へと育ってしまうのだ。
だが、今ヴァネッサの目の前にいるエリオットは彼女の愛情を受けて半年間を過ごした。人生の中でほんの一瞬の時間にしかならないが、それでもヴァネッサはエリオットのためになればとしか考えていなかった。
そして、ヴァネッサの役目は終わりを告げようとしていた。
ドアがノックされて、外から落ち着いた紳士の声が聞こえてくる。
「失礼します、ヴァネッサ・エイブリー様。エリオット様をお迎えに上がりました」
わかっていた。
ヴァネッサなんて物語の中で合わせても十ページ行くか行かないかの存在だ。エリオットの人生の中でも一瞬しか関わらない刹那の存在に過ぎない。
それでも、ヴァネッサはパンを手から落とすほどに動揺している。
彼女の中でも、この半年間は一生の思い出に残るほどに楽しいものだった。
椅子から立ち上がると、ヴァネッサはドアを開けた。すると、そこには老紳士が立っている。
燕尾服にハットを被り、右目にはモノクル。白髪頭はオールバックに整え、口ひげを綺麗に整えている。そして、優しげな青い瞳だ。
ヴァネッサは即座に彼がこの後エリオットの教育係であり腹心になる男だと直ぐに分かった。
「ヴァネッサ、誰?」
「あなたを迎えに来た人よ」
「はぁ……? 迎えって何言ってるんだよ」
エリオットにも別れの時が来たことが分かっているようだ。今にも泣き出しそうな彼の声が震えていた。
「お初にお目にかかります。エンデュミオン公爵家の本宅で家令をしております、アルヴィス・シュタートと申します」
「嫌だ……僕は姉さんといる。どこにも行きたくない!」
「──っうっさいわね、エリオット。さっさと出ていきなさいよ」
イライラしたようにヴァネッサはわざと冷たい言葉を吐いた。エリオットがヴァネッサの元に来た最初の日に小説内で言い放った言葉だ。いつまでもメソメソしている彼にイラついたヴァネッサは叫ぶでもなく怒るでもなく静かに告げたのだ。
「いつまで子どもでいるつもり? 現実を見て貰ってもいいかしら? そうやって駄々をこねればどうにかなるほど世間は生易しくないのよ」
「──っヴァネッサ様、いくらなんでも言い過ぎではありませんか!?」
「ちっ……さっさと連れて行ってくださいませんか、アルヴィスさん」
「……まさか、こんなにまで酷いお方だったとは。聞いたでしょう、エリオット様。これ以上あなたをここにいさせるつもりはありません」
「失せなさいよ。早く──」
ダメ押しの一言でエリオットはやっと席から立ち上がる。そして、エリオットはとぼとぼと玄関から出ていってしまう。
じわりとヴァネッサの視界が滲んでいく。
アルヴィスは既に馬車の前でエリオットを待っていた。
あと一歩。
最後の一歩を踏み出してしまえばエリオットはこの家を出ていって二度と戻ってこないだろう。だから、ヴァネッサは最後だけ本音を伝えようと呟くようにエリオットに告げた。
「さようなら、エリオット。あなただけでも幸せになって……私はもう、幸せです」
ヴァネッサの言葉でエリオットは振り返ろうとする。だが、その前にヴァネッサはドアを閉じた。そして、ドアにもたれるとそのままズルズルと座り込んで声を殺して静かに涙した。
彼女がようやく顔を上げたのは朝日が上がり、そしてまた沈み始めた頃だった。やっとのことで立ち上がるとヴァネッサは硬いベッドの上に横になる。
二人で狭いねと笑いあって眠った。
いつもエリオットを壁側に寝かせ、ヴァネッサは寝ているうちに何度か床に落ちた。
何もやる気が起きずにヴァネッサはしばらく横になっていた。
「よう、ヴァネッサ。今日は休みか?」
気がつくと酒場のマスターがバスケット片手に家の中まで入ってきていた。バスケットからは香ばしいいい香りがしている。それでも、全く食欲を感じずヴァネッサはぼんやりとマスターを見上げていた。
「エリオット、行っちまったのか」
「はい。でも、これであの子は幸せになれますから……これでいいんです」
「そっか。ひとつ聞いてもいいか?」
「なんですか? 仕事なら今から──」
「お前の幸せは、どこにあるんだ?」
「どこでしょうね」
「はぁ……お前はいつも他人のことばっかだな。お前自身の幸せは考えたことねぇのか?」
「私の役目は終わりましたから」
「役目? なんのことかは知らんがな、お前は明日も明後日も来年も生きてるんだ。役目とやらが終わってもお前の人生は続くんだよ」
「まさに生き地獄、ですね」
「そうだ。生きるのは地獄だ。地獄のような苦しみだ。だがな、それでも俺たちは生きていかなきならならねぇんだ。なぁ、ヴァネッサ」
こうなることは分かっていたはずだ。
エリオットがいなくなったあとのことを考えていなかったわけではない。それでも、この半年間が今まで孤独だった彼女にとってとても温かく、優しい時間だった。
まだ終わっていない。
後どのくらい人生が残っているかは分からないが、一番大きなエリオットの面倒を見るという役割が終わったんだ。それなら、もうこの家にいる必要もないし、好きにしていい。我ながら薄情だと思うが、やっと自由になれるんだとヴァネッサはどこかスッキリした気分だった。
「では、マスター。生きていくために賃上げをして欲しいんですけど」
「すまんがそれは無理な話だ。まずはクソ客どもからツケを払ってもらわんとなぁ」
「ブラックだぁ……」
「ブラック? なんでいきなり色の話になるんだ?」
「あー、こっちの話なので気にしないでください」
「お、おう。そうか」
困惑しているマスターを他所に、ヴァネッサはベッドから起き上がると大きく伸びをしていた。ゴキゴキと背骨がなり、まずはそれなりにいいベッドを買おうと新たな人生の目標を決めていた。
馬車の中でアルヴィスは黙ったまま窓の外を眺めているエリオットを見てていた。エリオットを従姉にあたるヴァネッサに預けたのは失敗だったと彼はため息をついた。
エリオットが不憫でならない。
あんな酷い言葉をまだ子どものエリオットに吐くだなんて信じられなかった。
「アルヴィスさん、だっけ?」
「ええ、坊っちゃま」
「僕が公爵家の次の当主になるんだよね?」
「もちろんでございます。と言っても、おぼっちゃまの努力次第になるのですが」
「そっか……公爵って偉いんでしょ? なんでも出来るんだよね?」
「そうでございますが……ところで、そのなんでも、とは主にどのようなことを指すのでしょうか?」
「──ヴァネッサに僕の傍にいて欲しい。出来るよね」
「それはやてめおいた方が良いでしょう」
「何でですか……?」
「お言葉ですが坊っちゃま、エイブリー伯爵家の者は手段を選ばない卑怯者です。十分に金を渡したのに何故坊っちゃまそんなに酷い格好なのですか? 着服したに決まって──」
「ヴァネッサを侮辱するのは止めてください!」
馬車の中で立ち上がるとエリオットは拳を握りしめて大声を上げた。
自分のことよりもいつもエリオットや他人を優先してしまう優しいヴァネッサを、たったの半年だけの家族でも侮辱されるのは許せない。
驚いて目を見開いているアルヴィスは、まさか洗脳でもされたのではと訝しんでいる。財政難に陥ったエイブリー伯爵は黒魔術に傾倒していたと聞く。ならばヴァネッサも邪悪な娘なのだろう。彼は教会に密告すべきだとさえ考えていた。
「僕がこんな格好なのは……ヴァネッサが金を受け取らなかったからだ! 姉さんは金を──寄付したんだ!」
御者とヴァネッサの話を、エリオットは馬車の中で全て聞いていた。だが、この話をすればあの御者が怒られるのではないかと気にしたエリオットはぼかして伝える。
最初は会話を聴きながら、金貨数枚くらい気にするなんてみみっちいやつだと彼自身も侮蔑したくらいだった。だが、ヴァネッサは金が必要な理由を聞くと態度を変え全て持って行けと言うではないか。
今なら分かる。
ヴァネッサは困っている人を放っておけないのだ。だから、僕のことも放り出さずに、本物の弟のように接してくれただけだと寂しく思う。それでも、どれだけヴァネッサに助けられたか。
気づけばヴァネッサはエリオットの中でいちばん大切な人になっていた。
「それにヴァネッサは毎日休みもせず働いていたんだ! それなのにいつもちゃんと温かいご飯を作ってくれて……今まで食べた中で一番温かくて美味しかったんだ! ヴァネッサを、僕の家族をバカにするなら……僕は公爵家なんかに戻らない!」
「──っじゃあ何故あんなことを、坊っちゃまを傷つけることを……」
「僕が気にせずに出て行けるように言ったんだよ……ほんと、ヴァネッサって不器用でさ……分かりやすいんですよね」
「左様でございましたか……その話は本当でございますね?」
「ああ、僕に嘘をつく理由がどこにあるんですか?」
アルヴィスは胸元にしまった皮袋にジャケットの上から触れた。もし、エリオットの面倒をしっかり見ていたと判断したらヴァネッサに謝礼として渡せと言われていたものだ。だが、アルヴィスは渡さなかったことを後悔した。
「分かりました、坊っちゃま。公爵家当主になれば好きに伴侶を選べます」
「伴侶って……」
「結婚相手でございます」
「──っ」
ヴァネッサと結婚。
その言葉を思い浮かべるだけでエリオットの顔は赤くなっていく。
そして、遅まきながら気づいた。
姉として、家族としてではなく女性としても好きだということに。
「結婚……する。僕、姉さんと結婚する……したい」
「でしたら、この話はしばらく黙っておきましょう」
「なんで……? 直ぐにでも引き返して姉さんも連れてこようよ」
「残念ながら、旦那様──坊っちゃまのお爺様はお許しにならないでしょう」
「なんでですか!?」
「ヴァネッサ様は没落貴族の元令嬢です。公爵家としても立場があるのです。それに、坊っちゃまはまだ当主になるための勉強があります。しっかりとやっていただいて、当主の座についた時、お迎えにあがりましょう」
「でも……」
「坊っちゃま、エンデュミオン公爵家には分家が多く存在します。坊っちゃまは本家の嫡男であらさられますが、旦那様は能力で分家含めお選びになります」
「つまり、一番になれってことか……」
「左様でございます」
「じゃあ、やってやる。やってやろうじゃんか! それで絶対にヴァネッサを迎えに行くんだ!」
そうして決意した日から五年の月日が流れた。
分家の当主候補に公爵が目を向ける暇がないほどに、エリオットは毎日勉強をし、貴族としての知識をつけた。それだけではなく、ヴァネッサを守れるようにと剣術訓練も始めて努力を続けた。
いつかヴァネッサを迎えにいけるように、と。
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