エミコが笑わなくて済むように

ぷろけー

エミコが笑わなくて済むように

 うだるような暑さと窓から差す光にまぶたを叩かれて、私は目を覚ました。部屋に置かれた時計を見れば、目覚ましがなるには少し早かった。すっかり目が覚めてしまった私はなんとなく自分の部屋を見回す。何の変わりもない私の部屋だったが、長いこと開けていない引き出しに目が行った。

 引き出しを開けると、奥に押し込めてあった卒業アルバムを見つけた。まるで嫌な思い出を隠すようにしまってあった卒業アルバムは当時のままの美しさを保っていた。

 私の卒業アルバムはあまり好きではないが、そのコンセプトや表装は好きだ。思い出を一冊の本にまとめて華やかにする。ありふれた思い出でも、そうやってまとめれば美しく見える。

 私は卒業アルバムのカバーを外した。私の卒業アルバムは黒地の厚い表紙に、金色の文字でタイトルが書かれている。「笑顔」の文字がはっきりと浮かんでいた。黒と金という王道の取り合わせであり、端整な見た目である。

 私は、このアルバムのタイトルが「笑顔」でなければもう少し卒業アルバムというものを好きになれたのかもしれない。時を経てもそう思うのだから、当時の私にとっては反吐が出るほど嫌だったはずだ。

 別に笑顔というものが嫌いなわけではない。むしろ好きと言って良いだろう。子供が欲しいとは思わないが、街で見かける子供がはしゃいでいる姿やベビーカーに揺られる子供たちの微笑みを見ていると、不思議と心穏やかになる。

 だが笑う人間が歳を重ねてくるとどうにも怪しくなってくる。繰り返すようだが、私は、笑顔は好きなのだ。しかし老練した人間の笑みというのは私に恐怖心をかき立てる。

 整った顔立ちのアナウンサーやら女優やらが微笑み、立っているだけで華があるのは事実だ。美しい男が、人の言うところの、気持ちの良い笑顔とやらをすれば、周囲の雰囲気が良くなるのは明らかである。

 確かに彼らは口元には笑みを浮かべている。しかし目だ。精巧に作られた人形の瞳を覗き込んだかのような、めでたい席で食べる鯛の姿焼きと目があってしまった時のような、ハッとする恐怖がある。

 平たく言えば、目が笑っていないのだ。だから私はよく出来た大人というものが嫌いだし、何も考えていない子供、あるいは大人のなり損ないが好きだった。


 私はおもむろに卒業アルバムを開いた。3年2組のページには各々の顔写真が並んでいる。口角を釣り上げた少年少女の顔は、皆同じに見えた。しかし一人、私の感性に訴えかけてくる顔がある。


ーーー


 エミコという子がいた。その子の本当の名前は別にあるのだが、ここではエミコと呼ぶことにする。

 私が初めて彼女を見た時、彼女は笑っていた。確かそれは入学してからすぐのホームルームでのことだった。そこではクラスの仕事――学級委員や保健委員、そういった意味のない役職――を決めていた。

 本来なら自己紹介の場で、初めて同じクラスの人間と対面することになるのだろうが、生憎私はその日は欠席していた。

 誓って言うが、ただ自己紹介が嫌いだからと言って休んだわけではない。確かに私は自己紹介と言った自己開示が苦手であるものの、人間と接することをその時はまだ諦めてはいなかった。

 だがしかし心と身体は時に相反するもので、心では学校に向かおうとするのだが、身体がそれを許さなかったのだ。立っていることすら許されぬほどの腹痛と吐き気が私の身体を支配した。

 私は身体から汚物が漏れ出す前に、這うようにして電車を降りた。身体の調子が整った時には時計の針は真上を指していた。その日は学校に行くのを諦めて、しばしの間、道端に咲くたんぽぽを眺めてから家に帰った。

 そういうわけで、私はエミコの名前を知らなかった。だが後に見ることになる彼女の笑みは私に強く印象づけたのだ。

 彼女の笑みは生きてきて手に入れた能面でも、誰かに取り入ろうとする者の笑みでもなかった。だがそれは確かに、彼女がうまく生きるために手に入れた表情なのだと、私は思う。

 その表情というのはひどく歪んでいるのだ。卒業アルバムの個人写真を見なくても、今でも鮮明に思い出せる。眼球がこぼれ落ちそうなほどに見開き、口角は左右非対称に釣り上がっている。少しこけた頬が顔の各部の歪みをより大きく見せていた。

 人はそれを不気味と言って恐怖するのだろう、気持ち悪いと言って遠ざけるのだろう。だが私にはそのような思考のほかに、もう一つの考えが浮かんだ。


 彼女のことを知りたい。


 私は確かにそう思ったのだ。

 確かに私も彼女の狂気とも言える笑みを見て恐怖を感じないわけではなかった。しかしそれ以上に、狂気を身につけるまでにエミコが歩んだ道を知りたいと思ったのだ。

 もしかしたらこう言われるかもしれない。人が好きという物を嫌いと言い、嫌いという物を好きという、稚拙な逆張りだと。あぁ、そう言いたくなる気持ちもよくわかる。まさしくこれは大人のなり損ないの考えなのだ。

 だが、あいにく私は賢者ではない。それどころか、現実と理想、嘘と真、建前と本音、それらを使えぬ子供である。だからこそ私は彼女が持つ狂気に魅入られたのだし、その裏に潜む何かが気になったのだ。だがそれは、今思えば、エミコに興味を持つきっかけにしか過ぎないのだった。


 話を戻して、学級での係決めでのことだ。その時、エミコは狂気の笑みを被り、俯きながら手遊びをしていた。そうしている間にも黒板には順調に、クラスの人間の様々な名前が浮かび上がっている。黒板に名前が書かれていない生徒の数が減ってきたところで、エミコは教室の大きさに合わない大きな声を出した。


「アヤノちゃん、何にするか決めた?」


 一瞬、教室から音が消えた。止まった時間を動かすために、エミコに空白を気取られないように、エミコに名前を呼ばれた娘は、頬を引き攣らせたぎこちない笑みを浮かべて返事をした。アヤノと呼ばれた彼女は既に保健委員の欄に名前を入れていた。

 エミコは娘と同じように頬を引きつらせた後、面を被り直してから再び異なる名前を呼んでいった。


「リコちゃんは?」

「ミツリちゃんは?」

「ココネちゃんは?」


 初めは静寂が支配していたが、次第に騒めきが大きくなっていった。名前を呼ばれた生徒は取り繕った笑みを浮かべて、これから自らに与えられる役職の名を、怯えるように、あるいは偉大な者の威を借るかのように告げた。

 その役のどれもが定員に達していて、エミコが名を挙げることはなかった。エミコが口を開くたびに、教室の空気が萎縮し、軋む音が聞こえた。まるで処刑台に並ぶ囚人が自らの番が来るのを恐れるかのようだった。

 なかなか役が決まらないエミコを目にして、皆の前に立って仕切っていた男子が助け舟を出したのだ。


「図書委員とかどう? 人気ないみたいだし、入ってくれるとありがたいんだけど」


 その助け舟はエミコのための舟ではなかった。張り詰める教室のクラスメイトを救うための優しさに、エミコは含まれていなかった。

 黒板の図書委員の枠には名前が入っておらず、二人分の空白が空いていた。エミコは何がやりたいというこだわりもないようで、彼の問いに首を縦に振ると、脱力した手のひら同士をぶつけて音を鳴らしながら、薄気味悪い笑みを浮かべた。

 黒板の前で書記をしている女子は、図書委員の文字の隣にエミコの名字を書き足した。彼女が名前を書き終えた途端、張り詰めていた教室の空気が弛緩したのが分かった。

 今まで埋まらなかった空白に、次々と名前が埋まっていった。その様子を気持ち悪く思いながら、その時の私はと言えば、ただ呆けていた。


「ねぇ」


 その時、私の名前が呼ばれたのをよく覚えている。今思えば手元に置かれた名簿の名前を読んだだけなのだろうが、自己紹介で欠席した人間の名前を覚えているのかと驚愕したのだ。猫撫で声の彼女を思い出すといまだに寒気がする。


「図書委員で良いよね?」


 綺麗な弧を描いた笑みを浮かべて私の方を見ていた。その時の彼女の顔をよく覚えている。人に好かれるような可愛らしい顔に浮かぶ笑みは、私の嫌いな笑みだった。

 私はその、断られるとは思っていない、断らせるつもりのない笑みに、否を突きつけることもできた。私は人の顔を見て意見を合わせると言った、大人な行動はできないのだから。

 彼女の整った顔が、自身の予想を裏切られることで、歪む様を見てみたくもあったが、それは真に私が望むことではない。確かに否を突き返せば爽快ではあろうが、それ以上のことは望めない。


「あぁ」


 私は短く答えた。口を開いて出たやる気のない返事ではあったが、それはしっかりと肯定の意を示すものだった。

 図書委員の隣の隣、すなわちエミコの隣の空欄に私の名前が書かれた。今まで整った字で書かれていたクラスメイトの名前たちであったが、私の名前は力強く乱れた字をしていた。

 その字が示すのはホームルームの仕事を終えた高揚感からくるものではないのは一目瞭然だった。

 安堵の空気が漂う空間で、エミコはやはり笑っていた。ぶつぶつと何かを呟きながら手を叩く。何が嬉しいのかも分からずに笑う彼女を見て、私は小さくため息をついた。


ーーー


 笑うしかない、という言葉がある。何か面白おかしいことがあるわけでもない。だが、それ以外にどうすることもできないから笑うのだ。エミコの笑みはそういう類のものだと、私は考えていた。

 私はやはり心地良い笑み、笑顔というものが一番だと思っているが、エミコの浮かべる笑みも嫌いでなく、むしろ好きだった。私と彼女が実際に関わることは少なかったが、私は事あるごとに彼女のことを目で追っていた。

 例えばそれは何気ないクラスでの一時のことであった。

 四限が終わると同時に、飢えた目つきをした男子たちが、我先にと教室の出口を目指していく。騒音を立てながら一目散に消えた巨躯はそのままの勢いで廊下を駆けていった。その様はまるで生存競争のようだった。

 実際それは彼らにとって戦いと言って良いものであった。購買で売られるパン、パンの中でも特にメンチカツサンドは人気で、常日頃から血で血を洗うような戦いをしているのだと、以前クラスメイトが言っていたのを覚えている。

 こう言うと、彼は私と話していたように聞こえるかもしれないが、実際はそうではなかった。彼が彼の友人に対して、自身が手に入れたメンチカツサンドを掲げながら自慢していたのを、私が聞き耳挟んだだけだ。今も学生時代も、ろくな友人が居ないことには変わりはない。

 ともかく、熾烈な戦いが繰り広げられる購買ではあるが、食堂の方は落ち着いて食事ができるらしかった。私は入学してから食堂というものに一度もいかなかったため、その真偽はわからない。

 食堂にいかなかったのは、そこは、私にとって、魑魅魍魎が集う集会所にしか思えなかったからだ。仲間たちと食事をしながら会話を楽しむ、大いに結構。しかし私はその、青春というものに身震いするような恐怖を感じるのだった。



 いつもは運動部に混じって購買戦争に挑んでいるエミコだが、その日は違った。


「はなっち、食堂行かない?」


 エミコしか使わぬ愛称で呼びかけられた“はなっち”は彼女の友人たちと談笑していた。エミコの呼びかけに反応しない彼女に再び声をかけた。


「はなっち!」


 もう一度名を呼ばれた彼女は、錆びて固まってしまったネジのように、ぎこちなく首を回した。


「なに?」

「食堂行かない?」

「ごめんね、今日お弁当なんだ〜」


 その問答に違和感はなかった。エミコは他の人と同じような問答を繰り返し、最終的に一人で教室を出て行った。


 彼女が出て行った教室に残る悪意に、ひどい吐き気がした。私はエミコと“はなっち”の間にいた。彼女の声は私にはっきりと聞こえた。つまり“はなっち”が聞こえないと言うことはないはずなのだ。

 会話に熱中していて彼女の声が聞こえなかった。確かに筋の通る言い分だろう。だが、私は知っているのだ。エミコが口を開くたびに、一瞬の静寂が訪れることを。

 誰もが彼女への干渉を拒むと言うのに、その誰もがエミコの一挙手一投足に意識を向けている。言うなれば彼女は、中途半端な透明人間だ。皆の目に奇怪に映りながらも、自分とは違うものだと線を引き、見えないふりをする。

 そうであるから、エミコのいなくなった教室は妙な安心感とまとまりが生まれていた。同じ恐怖を味わった仲間たちで、その恐怖体験を共有するのだ。


 あぁ、本当に、ひどい吐き気がする。


 彼らは怪物と呼ばれる側の気持ちを知らない。人になれず慟哭する夜を知らない。彼らの何を知っているのかと思われる事だろうが、これは断言できる。

 もし彼らがそれらを知っているのなら、あれほど醜悪な空気を作れるはずないのだから。


 もちろん、エミコに悪いところがないとは言わない。私は彼女のひどく歪んだ笑みを好いているが、多くの人はそれを不気味と呼ぶことを知ってる。

 不気味な笑みを浮かべる彼女は人との距離感を掴めないのだろうか、誰も使わぬ愛称を用いて人を呼んでいる。

 親しい友人からならいざ知らず、不気味な笑みを浮かべたただのクラスメイトからそう呼ばれれば、嫌悪感を持つのだって無理はない。


 だが、私は知っている。怪物と呼ばれる側の気持ちを、人になれず慟哭する夜を。

 私は知っている。人になれぬ怪物が人になろうと足掻く強さを。心を抉る苦痛に耐え続ける忍耐を。


 だからこそ、私はエミコから目を離せないでいる。何かのために頑張る者を応援したいと思うのは、私だって同じだ。皆から見れば、私は人間ではないのかもしれない、同族ではないのかもしれない。

 だが、私の中にわずかにある人としての矜持がそう思わせるのだ。私は諦めてしまったから、戦う彼女に私の過去を重ねているのかもしれない。

 私は彼女に賞賛の言葉を送ろうと思った。だがそんな事は私にはできない。素直な気持ちを口に出せたなら、私は怪物にはならなかったはずだ。

 言葉にしようとするたびに、喉が締め付けられ、息ができなくなる。胸を刺すような、と言うほど鋭利なものではない。ただ重く陰湿な何かが私の胸を占拠して、何をするにしてもその何かが撤去される様子はない。

 私が彼女のためにできるのは、心の中で小さな喝采を送ることだけだ。


「やばすぎだろあれ」


 そんな言葉で、私の意識は、手の中にある菓子パンに戻ってきた。無意識に手を握っていたものだから、菓子パンの中央が窪み、中から黒いチョコレートが漏れ出ていた。

 私は食欲がなくなってしまったので、潰れた菓子パンをカバンの中にしまった。ポケットからハンカチを取り出して折りたたみ、小さな枕として、机に顔を伏せた。


――


 図書委員の仕事として、本の貸し出しがあった。放課後、図書委員は図書室に残り、借りる本のバーコードを読見込んだ後、続けて生徒証を読み込むのだ。

 仕事といえばそれくらいなもので、図書室のカウンターに座っている間は退屈だった。噂に聞けば、二人の時間が長いということで、恋仲になることも少なくないらしかった。ただ、気の知れぬ人と一緒になれば奇妙な空気を吸うことになる。

 私はと言えば、そのどちらでもない稀有な人間だったと思う。私はエミコと恋仲になりたいなどと思った事はないし、かと言ってエミコに対して気まずいと思うこともない。

 私にとって、図書委員の仕事はエミコの事を知る良い機会だと思っていた。私は彼女に、どうして笑っているのか聞いたことがある。

 すると彼女は口角を不自然なまでに吊り上げながら答えた。


「分からない!」


 真面目に答えてくれ、などという野暮な事は聞く必要がなかった。彼女の顔に浮かぶ不自然な笑みは、私は彼女の中ではいたって自然な事だと分かっていたからだ。

 そう答えた彼女の顔には笑みが浮かんでいた。その笑みを好ましく思うと同時に、これ以上痛々しく笑わないでほしいとも思った。その笑みが孕む痛みは私にもよく分かったからだろう。

 その時、私は確か、彼女にこういったはずだ。


「ねぇ」

「ん?」

「仲良くしてくれる?」


 彼女のハッとした表情は今でも鮮明に思い出せる。私らしくもなく、可愛い顔もできるのかと思ってしまったのだ。この時から、私は今でもずっと願っている。


 エミコが笑わなくて済むように、と。

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