第7話 屋根裏
「…次はどっち…そう…な…」
朦朧とする意識の中、ソニアは人の声を聞き、ハッと目を覚ました。ここはどこだ。暗くて何も分からない。動こうとした瞬間、腕に痺れたような痛みが走った。ソニアは椅子に縛り付けられていた。
暗闇の中、人影がぼんやりと見えた。おそらくジョン・ボルテクスだろう。この家の住人を殺し、女神から死刑の裁きを受けた愉快犯。いや、もしかすると、被害者はこの家の住人だけではないのかもしれない。目の前の人影がこれまでどれだけの命を奪ってきたか。それは女神のお告げの花片には書かれていなかった。ただ、ジョン・ボルテクスが死刑宣告を受けた罪人だということ。死神にとって、それだけが必要な情報だ。
この状況でソニアがまだ殺されていないということ。それはまだ詰みではないということ。それにしてもこの暗闇。気が滅入る。冷や汗がどっと吹き出し、背中に不快感を与えた。一旦、落ち着こうと息を吸ったところで、ソニアはようやく異臭に気づいた。
「ゔっおぇ…」
鼻を刺すような強烈な刺激臭に思わずえづく。同時に、ソニアは理解した。ここにいるのは罪人だけではない。まだ残っているのだと。かつて人だったもの。その残骸が。
人影がゆらりとこちらを振り返った。
「ようやく気がつきましたか」
穏やかな男の声だった。フランムの詠唱とともに、光が灯る。突然の眩さにソニアはとっさにうつむいた。目を細めながら見たのは、男の足元。そして杖の先。ソニアは内心ため息をついた。こいつもまた魔法使い。魔法が使えないソニアにとって、対峙するには厄介な相手である。しかし、こればかりはしょうがない。厄介だからこそ、簡単には捕まらず死神の出番となる。そういう認識の方が正しい。
ソニアは自身の腰に視線を移した。魔剣は取り上げられていた。柄物はない、縛られている、魔法も使えない―
(「もしかして、詰んでる?」)
男が一歩近づいてきた。はっと顔を上げたソニアは、柔和な顔つきの青年と目があった。善良そうな
その顔はとても人殺しには見えない。青年は口元に自然な笑みを称えていた。
「死神さん、ようこそお越しくださいました」
そう言って青年は恭しく頭を下げた。杖の先端に灯る炎が部屋を妖しく照らしだす。埃にまみれた壁、それほど高くない天井、剥き出しの梁、木っ端で塞がれた小窓…どうやらここは、ソニアが思った通り、一家の屋根裏のようだった。そして、ソニアは見てしまった。部屋の隅にぶら下がるそれらを。
喉元を吐き気が一気に駆け上がる。口の中に広がる酸っぱさに堪えながら、ソニアは数えた。大きいのが2つ、小さいのが…1つ―
ソニアは生唾を飲み込んだ。青年はくすりと笑った。
「なんで3つ? って思ったんですよね。分かりますよ」
青年はソニアの疑問なぞお見通しとばかりに頷き、満足そうに目を細めた。
「4つ目はこちらです」
そう言って、自身の後ろにある素晴らしいものをお披露目するように、華麗に身を翻す。すっと差し出された手のひらの先。見えたのは、ソニア同様椅子に縛り付けられた女の子。それも、まだ、生きている。
「…何が目的だ」
ソニアはフードの下から青年を睨みつけた。わざわざ家族1人を生かしておき、ソニアを生け捕りにした目的は何だ。まさか命を助けてくれるわけでもあるまいし。
ソニアの質問は青年のお気に召さなかったようだった。残念そうに首を振り、少女へと近づいていく。
「やめろっ!」
ソニアは身を捩ったが、縄は緩まるどころか締まっていくばかり。痛みをぐっと堪えながら、デュランダルはどこだと目を走らせる。そうしている間にも青年は少女へ一歩ずつ近づいていく。
ソニアは再び叫んだ。
「やめろっ! その子には手を出すな! 殺すなら私を殺せっ!!」
とっさに己の口から出てきた言葉に、ソニアは心のどこかで自嘲した。そんなこと頼んでどうする。もし、男がソニアの望みどおりソニアを殺したとして、それは決して少女を殺さないとイコールになりはしないのだ。
しかし、ソニアの言葉に男は足を止めた。こちらを振り返り、穏やかな笑みを湛えている。椅子に縛られた少女は、さっきから微動だにしない。眼は虚ろ。同じ空間に家族の死体がぶら下がっているというのに、まるで、何も感情がない。
青年は少女を再び顧みた。虚ろな少女の姿につまらなそうに鼻を鳴らすと、杖を振った。
「エール」
それは空気を操る魔法だ。物を浮かせるフロッタンよりもはるかに高度な、大気の組成を操る魔法。その瞬間、少女は苦しそうに顔を歪めた。少女の周りの空気を奪ったのだ。このままいけば窒息死。しかし、少女の表情に死への恐怖はない。ただ物理的に苦しいだけ。
ソニアは声の限り叫んだ。
「頼む、やめてくれっ!!」
弾みでフードが外れた。いつもならすぐに被り直すが、今はそんなこと微塵も気にもならない。少女が目の前で死んでしまう恐怖で胸がいっぱいだった。
「良いですねぇ」
青年はソニアに向き直ると嬉しそうに魔法を解除した。少女の咳き込みが屋根裏に響く。死から生還した少女に、しかし、生への喜びはない。虚ろな目で床を見つめるだけ。
(「一緒だ…」)
ソニアはそんな少女の姿をかつての自分と重ね合わせた。何もかも諦め、ついには諦めさえも感じなくなった、あの日。あのとき、デュランダルと出会わなければ、今ごろ、きっと自分は―
ソニアの懐古は青年の大仰なため息に遮られた。
「僕だって殺したくはないんです」
どの口が、と悪態が出掛かったがソニアは押し黙った。青年は1人で勝手に熱く語りだした。
「殺さなくてもいい方法があるのなら教えてほしい。でも、殺すしかないんです。殺さないと満足できない」
青年は屋根裏を行ったり来たりしている。
「みんなが食事によって空腹を満たすように、僕は人の絶望する顔によって心が満たされる。絶望顔をしばらく見ないと苦しくて気が狂いそうになるんです。それでしか満たされないなら…殺すしかない。そうでしょう?」
「おまえが死ねばいい。それが女神の思し召しだ」
ジョン・ボルテクスは紛れもなく愉快犯だ。穏やかな口調に表情だが、言っていることはただの犯罪者。胸糞悪い。
「女神ねぇ…」
男は杖で肩を叩きながらつまらなそうに呟いた。ソニアを値踏みをするように不躾にじろじろと見てくる。そして、ふいに微笑んだ。
「さすがは女神の使い、死神様だ。罪人への容赦がない。あなたなら僕を倒して彼女を助けられるかもしれません」
そう言って、男は少女をチラリ見た。少女は相変わらず人形のようにぴくりともしない。男は肩をすくめると、少女に向かってどしどし歩いた。ソニアが怒声を発し掛けたところで、男は少女のそばにしゃがみ込むと、置かれた麻袋から何か長い物を取り出した。
「デュランダル…!」
そんなところにあったのか。ソニアの心の中に一瞬にして希望の光が射し込む。デュランダルさえ手元にあれば、こんな下種野郎一瞬で斬り捨てられる。
男は剣をソニアに見せびらかした。
「ふふ、いい顔しますね…これがあれば僕を倒せますか?」
ソニアは眉を顰めた。男の意図するところが分からない。
黙ってこくりと頷くと、男は剣を持ったままソニアの方へ近づいてきた。
「じゃあ、剣を返しましょう。縄も解きます。僕を倒して彼女を救ってください」
この男、どれだけ自分の力に自身があるのだろう。しかし、これで男を斬れる。そのうえ、家族の1人、そう、1人だけだが、少女の命も救うことができる。今、願ってもないチャンスがソニアに巡ってきている。早く。早く来い、デュランダル…!
その時、突然、男がピタッと足を止めた。見上げた先、男が笑いを堪えている。にやにやとだらしなく口元を歪め、ついには吹き出した。
「本当にあなたはいい顔をするっ! それに比べて…あの子はどうです!」
男は杖を腰に差すと、鞘から剣を引き抜いた。いつ見ても研ぎ澄まされたその美しき魔剣は見るものを虜にしてしまう。男もすっかり気に入ったようだった。ほぉ、とため息をつき、矯めつ眇めつ刀身を眺めている。
「女神のお告げを実行する剣だからかな。美しくないといけないなんて決まりでもあるのかも」
男は独り言を呟いて、突然少女に向かって剣を振り下ろした。
「―っ!」
ソニアは唇を噛み締めた。少女の髪の束が床に落ちた。ソニアは怒りで腸が煮えくりかえりそうだった。少女はというと、向けられた剣先に怯えるでもなく、泣き出すでもなく、怒るでもなく、ただ変わらずそこにあるだけ。
「最初はね、この子が1番感度が良かったんです」
男は嘆き悲しむように肩を落とした。
「まずは小さいのからやったんです。だって、ただ泣きわめくだけで、絶望も何もまだ分かってやしないから。それに、子を殺される親の絶望顔は…とても良いです」
「外道が」
男はソニアの悪態に笑顔で応えた。
「次は父親をやりました。そしたら、この子が、それはまぁ泣くんですよ。いい顔して。だから、母親と2人だけは助けてあげると言ったら…泣きながらもホッとしてるのが分かって」
「美味しいご飯も食べさせて、体も綺麗に拭けるようにして、新しい服も用意した。もちろん全部僕の自腹ですよ。死からの生還。生きる喜び。この子の目に光が戻ってきました」
男はペラペラとよく喋った。ソニアは耳を塞ぎたかった。手足さえ縛られていなければ掴みかかっていた。そのどちらも今のソニアには出来やしない。
「だから、母親をやりました。母親はどうせ助からないって勘づいてたし、どっちみち病気ですぐに死にそうだったから。そしたら、この子―」
男の頬は上気していた。特別な想い出を噛み締めるように、恍惚の表情で瞳を閉じた。
「そしたら、この子、僕が今まで見てきた中で最高の絶望顔をしたんです…!」
男の高笑いにソニアは今にも血管が切れそうだった。こんな奴が同じ人間だとは信じられなかった。今すぐ形残らずぎたぎたに斬り刻んでやりたい。ソニアにはその権利が与えられている。
男は剣を宙でぷらぷらさせた。まるで暇を持て余した子どものような仕草だった。
「もう1度あの顔を見たかった。でもね、だめだったんです。あれっきりこの子、こんなになっちゃって。もうオシマイかなって時に、死神さん、あなたがやってきた」
男は残念そうな表情から一変、笑顔全開でソニアを見つめた。
「死神さんが助けにきたよって言えば、あの子がまた希望を取り戻すんじゃないかって。そう思ったんです。まぁ、残念ながら、そうはならなかった。だけど……あなたも面白そうだ」
「…」
ソニアは理解した。次に殺されるのは少女だ。そして、ソニアが絶望することを男はご所望している。だったら、とソニアは精一杯の苦悶を表情に載せた。
「頼む。やめてくれ。その子だけはどうか―」
「いやいや、殺しますよ」
ソニアは怒りを感情に載せた。
「私が無理でも別の死神がきっと裁きをくだす。女神様は決しておまえを許さないっ!!」
「そういう正義感良いですね…堪りません」
男はとてもにこにこしていた。
「なら、女神に裁くことを許されたこの聖剣で殺ってやりますよっ!!」
男は剣を振り払った。死体の1つが切断され、粘着音をたてながら床に落ちた。男のひきつれたような笑い声がこだまする。
「この子を斬ると思ったでしょ! ははっ! そう簡単に楽しみを終わらせませんよ」
「いや、終わった」
ソニアは軽蔑の眼差しを男に向けた。さっきまでの苦悶も怒りも漣のようにすっと引いていく。男の手の中にもはや剣はない。
「まずい血を吸わせるな」
男の後ろにデュランダルが立っていた。男が振り返るまもなく、デュランダルは自身と同じ名の魔剣で男を上から真っ二つにした。
暗闇に戻った屋根裏部屋。遠くからミミズクの鳴き声が聞こえてきた。陽はとうに沈みすっかり夜になっていた。
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