5話


 ――俺の可愛い巫女姫。


 甘やかで、優しい声でそう呼ばれるたびに嬉しくて、胸が高鳴った。

 抱きしめて、頭を撫でてくれる温もりが愛しかった。

 でも、あの人は、もういない。


 (兄様……)


 実の兄としても、一人の異性としても、愛していた。

 今でもその想いは変わらない。何年も、何年も色褪せることなくずっと、ずっと――。



 サァー……っと、水が流れる音がする。

「……雨」

 唯はぼんやりと窓の外を見る。

 市街地から離れた農村部の古民家に移り住んで、そろそろ一ヶ月が経つ。時間の感覚なんてとうの昔に忘れた気がしたけれど、意外と忘れられないようだ。

「駄目ね。忘れるって決めたのに……」

 あの顔と声で呼ばれると、どうしても思い出してしまう。あの魂を見るたびに胸が苦しくなる。

 日課の禊を終え、簡易的な祭壇に祈りを捧げる。

 巫女姫と呼ばれていた頃の習慣はなかなか抜けないが、それでいい。

「私は、神様の番……」

 どうしてそうなったのか、神様の基準はよくわからない。ただ、時折夢に現れては神様だと名乗る美男にそう言われ続けていた。


『我は、清らかな魂を持つ乙女が好きだ。何にも負けぬ、意志の強い魂は、それだけで我の力となる。凰花、そなたは選ばれし乙女だ。いくつもの試練に耐え、我が力となれ』


 幼い頃からそう言われ続けてきた。巫女姫たる自分は、それに何の疑問も持たずに役目をこなし続け、人として恋をした。許されざる想いだとしても、心を制御するなんて難しくて、幸せな時間を壊したくなくて、手放せなかった。

 結果として、大切なものをいくつも失った。

 あれから、ずいぶん長い時間が過ぎて、今なお生き長らえている。

 死ぬことを考えなかったわけではない。ただ、死ぬことすら取り上げられてしまった。

 何度小刀を喉に突き刺しても、心の臓を穿っても、痛くて苦しいだけで、死ぬことが出来なかった。

 傷が浅いわけではなく、本当に駄目だったのだ。だから、自分から死ぬのをやめた。

 死ぬ方法がわかっても、それを実行させるわけにはいかず、今も生きている。

 (でも、いいの。これも、あの方が……月夜様が遺してくれたものだから。私は、月夜様がそう、望んでいるから……)

 

 不老不死――。


 その呪いは、兄・月夜が死んだあとに受けたものだ。

 目の前で月夜を処刑され、身籠った子も取り上げられ、絶望の淵で命を絶とうとした。しかし、巫女姫たる自分の命は自分で自由に出来ず、神から死も取り上げられた。

 不老不死の呪いを受けたことで村から追放され、それからは役目に殉じるようにひたすら各地を転々としながら落神や悪霊を祓う毎日。

 どれほど時代が変わろうとも、変わらない自分に疲れていたのかもしれない。

 彼を、槻夜光留を見つけたのは、そんな時だった。

 月夜の墓参りに訪れた凰鳴神社で、当代の宮司と光留が話しているのが偶然聞こえた。

『光留君は、もう将来とか決まっているのかい?』

『いや。全然』

 聞き間違いかと思った。

 懐かしい声。

 でも、声が似ているなんてよくあることだ。別人なのはわかりきっていたけれど、もう少しだけ聞いていたくて、境内の物陰で様子を伺って驚いた。

 (兄様……!)

 最期に見た時よりもいくらか幼い顔立ちだったが、月夜の生き写しと言っても過言ではなかった。

 (それに、あの魂も……)

 ひと目見てわかった。生まれ変わりだと。魂にいくつもの枷がついているのは、きっと自分のせいだろう。

 嬉しいのか悲しいのかもよくわからない。ただ、どうしようもなく胸が苦しくて、もうずっと流していなかった涙が溢れた。

 (兄様……、月夜様……。ごめんなさい、ごめんなさい……)

 その枷を外してしまえば、また月夜を自分に縛り付けてしまう。そして、あの日と同じ光景を見てしまえばきっと、耐えられない。神様が望むような魂にはなれない。

 どうするべきか、必死に考えた。けれど、ぐちゃぐちゃな心ではなんの考えも浮かばなくて、遠目に光留を眺めるのが精一杯だった。

『だったら、うちの跡取りにならないか?』

『ちょっと、伯父さん!』

『跡取りって、養子になれって?』

『いやいや、そうじゃなくてだな。まあ、宮司なんてなかなかなり手がいない。うちの倅も芸人になるとか言って飛び出して、連絡一つも寄越さないしな』

『うーん、考えとく』

 その後もいくつか話をして、母親と思われる女性と一緒に帰っていった。

 こちらに気付かれなかったことに安堵して、小さく息を吐き出す。

 姿が見えなくなって思うのは、寂しさだった。

 (会いたい……。月夜様に、会いたい……)

 あの枷は、霊力と記憶を封じるものだ。近づけば、その封が解かれてしまう。封が解かれたあと、光留がどうなってしまうのか想像ができなくて。

 身勝手だとわかっていた。

 (愛してくれなくていい。ただ、あなたを守りたい……)

 近くで見守る事が出来れば良かった。いつか彼が結婚して、知らない女性と添い遂げるのを守れたらいいと思った。

 (あの人は、月夜様の魂を持っているけれど、別の人だもの)

 今度こそ、幸せになって欲しい。自分には、彼に幸せをあげられなかったから。忘れたままでいい。ただ、近くにいることを許してほしい。

 そうして凰花――唯は光留の進学先である時野学園に学生として入学し、運良く彼と同クラスになった。

 ただ、やはり唯が近くにいれば、光留の魂の枷が薄くなっていった。守り人の力すらない彼は、今のままでは落神や悪霊にとってご馳走だ。必要以上に近づきすぎないように、敢えて嫌われるような態度を取った。

 心がバラバラになりそうなくらい苦しかった。それでも、守りたかった。

 しかし、懸念は当たり、光留の枷は急激に解かれ始めていた。遅かれ早かれ、彼が潜在的に持つ霊力が解放され、月夜の記憶に飲まれてしまう可能性があった。

 (これ以上は彼の魂を壊しかねない。ごめんなさい……。あなたを見守りたかっただけなのに……私にはそれすら許されないのね……)

 最後に、ほんの僅かでも彼と話すことができて良かった。笑った顔がやはり月夜と同じでそれだけで胸がいっぱいになった。

 (どうか、今度こそ幸せに……)

 意識が現実に戻ってきて、再び外に視線を向ける。雨はまだ止まず、雷の音すら聞こえてきた。

 幼い頃は雷の音が怖くて、鳴るたびに月夜の部屋に駆け込み蔀に潜り込んだ。

 彼は呆れながらも暖かく迎えてくれた。

『俺の可愛い巫女姫。そんなに怖がらなくても、鳴神は姫を取って食べたりしないぞ』

『兄様のいじわる! ひゃっ! またなりましたっ!』

『近くにいるな。ほら、こっちにおいで』

 抱きしめられて頭を撫でてくれる。心地よくて、安心した。

『兄様、起きてもずっといっしょにいてくださいね?』

『俺の巫女姫は甘えん坊だな。もちろん、一緒にいるよ』

 まだ、幼く恋も知らない頃の優しい思い出。

 (……ずっと、一緒に)

 約束は叶わなかったけれど、どうか今は、遠くから見守ることを許して欲しい――。

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