愛別莉久(上)

病院の一室で女の怒号が響き渡る。

「なんで、持ってきてくれないのよ!持って来いって言ったでしょ!」

「…でも、お母さん…煙草はダメだって…お医者さんが…」

怒号を宥めるのは、ランドセルを背負った少女だった。名前は愛別あいべつ莉久りく

子供の癇癪の様に叫んで、暴れる母親を、まだ小学生の莉久がなだめていた。

歳と見た目の割に、莉久の行動の全てが大人びていて、大人よりもしっかりしていた。

短い二つ結びに、お気に入りのピンクのパーカーを着て、子供らしいヒラヒラのスカートを履いていた。

「うるさいうるさいうるさい!私が持って来いって言ったら持ってくるのよ!この、ノロマ!」

「お母さん…」

「何?その目は…」

母親の開きき切った目がギロリ、と、莉久を見た。その目が、莉久は嫌いだった。だって、この目の後の母は、『止まらない』からだ。

「っ……」

母親の乾燥した手が莉久の髪を掴んで、力強くひっぱりれる。莉久がベッドに腕を着くと、母親は親の仇の如く莉久に罵声を浴びせるのだった。

「また、また、またまたまたっ!またっっっっ!私をそんな目で見て!私を舐めてるの!馬鹿にしてるんでしょ!うるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいっ!私は悪くないんだ!アイツが悪い!アイツがっ!アイツがっ!アイツのせいで!」

「……っ…」

ブチブチと音を立てて莉久の柔らかい細い髪が母親の乾燥した手に絡み取られて抜ける。

莉久は歯を食いしばって、母親が収まるのを待つ。今はそれしか出来ないからだ。

病院の一室ではこんな怒号がほぼ毎日のように飛び交っていた。

看護師や医者が気づけば、すぐに助けが入る。けれど、それ以外の患者達はこの中に起きている出来事に素知らぬ振りをした。

そして、みんな口を揃えて言うのだ。

「「「「可哀想に…」」」」

と、誰一人、助ける事なんてないのに。口だけは揃えて噂をする。

それがひとつの娯楽のように。

莉久の周りはいつだって、そんな興味の無い同情に溢れていた。

けれど、莉久にとってはそれはどうでもいいこと。世話焼きな性格で、目の前困っている人が誇っておけないだけだった。それが大好きなお母さんなら、なおのこと。

それだけ。

本当にそれだけだった。

母の暴力に付き合うのは、そんな簡単な理由だけでいい。

だから、莉久にかけて欲しい言葉は、『可哀想』じゃなくて、『頑張って』だった。

莉久は頭が悪い訳じゃない。いつか、その言葉が煩わしく、聞くだけで苦しくなると知っていても、奮い立つしか、出来ないのだ。

『哀れ』で『可哀想』で『悲しい』『無力な』少女の『苦労話』なのだから。


『耐えればいい。自分が我慢すればいいだけの話』


学校では、莉久はスカートやワンピースの裾をずっと強く握っている、おどおどした少女だった。

昨日の事を友達にちょっとした手違いで話してしまおうものなら、クラスメイトから出てくる言葉は一つだった。

「それは、莉久ちゃんが悪いんじゃない?」

「やりたいって言うなら、やらせてあげればいいじゃん」

「もう少し、お母さんの事考え手上げたら?可哀想だよ」

なんて、純粋な言葉が帰ってくる。

当たり前だ。子供は感情を優先してしまうのだから。

理屈で考えようとしても、まだ理屈を学べられていない。

莉久は何一つ理解されない。誰一人、味方はいない。

大人しい少女が虐められよくある話。

きっと、ファンタジーな作品なら、願いを叶えてくれる、可愛らしい見た目の生物が宇宙から飛来して、願いを叶えてくれるんだろう。

莉久はそんな妄想をしながら、漫画の小説版をめくる。

「なのです…なんてね」

ページをめくる度に、幼い夢に目を輝かせる。

「それ、新作?」

「ひゃぁぁあ!」

明るく話しかけてくるのは、知らないクラスメイトだった。

長い黒髪を耳の後ろで、輪っかにして、二つ結びにしている。だいぶ長いはずの髪はうなじまでしかない。フリルが着いたピンクのワイシャツに、黒いリボンをネクタイのように結んでいる。丈の短い黒のキュロットスカート。そこから伸びるニーハイを履いた絶対領域が、チラチラ覗かせていた。

可愛らしいタレ目に長いまつ毛。甘い雰囲気のある彼女は、今まで見た中で、一番可愛い人だと思う。

「あ、あう…そう、なの、です…」

堂々としている彼女は、挙動不審に服を掴んで恥ずかしそうにしている莉久とは真逆だった。

見つめられてるだけで、照れてしまい、顔を逸らす。

「え〜?何で顔そらすのぉ?お顔真っ赤〜」

「う、うるさい!のです…」

「え〜?照れちゃって可愛い〜」

「うるさいのです〜!」

莉久がその少女をポカポカ弱い力で殴る。その姿は本当に微笑ましいじゃれ合いだった。

「あ、莉久ちゃん、髪留め緩んでるよ?」

「え?あ……ホントだ」

髪を二つにまとめている玉飾りが着いた髪留めを取って、櫛で溶かす事もしないままぐちゃぐちゃに結び始める。それを見かねた少女は大きくため息を着いて

「もー、私がやってあげる」

少女は何処からか、ブラシを出して莉久の髪を梳く。

「こんな風に話したの、猫吾郎以来のです」

「『猫吾郎』?」

「はい!三毛猫のです!」

「へぇ…」

「お目目きゅるきゅるでとっても可愛いのです!みゃーみゃーって鳴き声がとっても可愛くて、時々面倒を見るのです!」

そう話す莉久は年相応の少女の様に楽しそうに喋っている。

「ふーん。良いじゃん?」

もう、片方の髪留めも取って、編み込みの両サイドポニーテールにした。

「はい、出来た」

「わ、わぁ!すごいのです!とっても凄いのです!」

「えへん!女の子だからね!これぐらいは当然よ!」

「私は不器用だから羨ましいのです…」

「じゃあ、コレから毎日やって上げるよ!」

「ホントなのですか!」

「うん!その代わり、約束して?私と何があっても友達で居るって」

「良いのです!」

「やった〜!」

こうして、少女と莉久は友達になったのだった。

休み時間が終わり、莉久が授業中、少女は屋上に居た。十七歳程の姿になって、服装は地雷服を来ていた。

『他殺屋』だった。

「どうしようか…困ったわ〜」

他殺屋は大きくため息をついたのだった。


莉久は学校が終わって、家に帰ると、父親と一緒に知らない女の人がいた。お母さんとは違くて、優しいそうな顔で化粧が濃くて血みたいに赤い口紅見つけた女性だった。莉久は服の裾を強く握りしめて、言う。

「ど、どちら様なのです?」

体のラインが出る服を着た女性は、莉久の前に膝を下ろすと、目線を合わせて微笑んでくる。

「初めまして。私はれんレンって言います。レンって呼んでくれると嬉しいな。君が、莉久ちゃん?」

「はい。愛別莉久のです。レンさんとお父さんは恋人さんなのです?」

「え?」

レンは驚いた顔で、お父さんと目を合わせてから大きくため息をついた。

「そ、そうだけど…」

「分かったのです」

莉久は頷いてからランドセルを置いて、いつもの母のお見舞いカバンをもって父親の前に頭を下げた。

「お父さん、生活費ありがとうのです」

「あぁ。すまないな…コレしか出来なくて」

「沢山やってくれるのです」

「母さんの見舞いも…」

「お父さんが行った方が大変なのです」

「…。冷蔵庫に、買ったケーキが入ってる。夕飯後に食べるんだぞ」

「本当のです!今日はそれを楽しみに行ってくるのです!」

「あぁ…行ってらっしゃい」

「あ」と莉久は呟いてから、クルッと回って他殺屋がやってあげた編み込みの両サイドのポニーテールを見せた。

「見てのです!友達がやってくれたのです!」

「そっか…可愛いね」

「えへへ〜」

レンが気まづそうに話しかけた。

「とっても似合ってるわ。私も、出来るようにしておこうかしら?」

気を使った様なぎこちない言葉に、莉久は無邪気な笑顔で答えた。

「はい!可愛い服を来た時にして欲しいのです!お父さん、プラネタリウム!行きたいのです!レンさんも一緒に行きたいのです!外の時に、やって欲しいのです!」

「うん。分かった、勉強しておくね」

「はいのです!あ!もうバスの時間のです〜!」

慌てて靴を履く莉久に父親が机の上に置きっぱなしにしていたスマホを渡す。

「鍵は?財布は?お母さんに持っていく物はしっかりあるか?」

「あるのです!」

「そうか。じゃあ、車に気おつけて。暗くなる前に帰って来なさい」

「はいのです!」

莉久は無邪気な笑顔を向けて玄関を出たのだった。

「はぁ…」

走る莉久の顔はどこか疲れていて、大人びていた。

大人びる…は語弊があった。背伸びをしていた。子供の精一杯の背伸びであった。良い子のフリをして、笑う。聞き分けがあるように笑う。そうじゃないと、ただでさえ余裕が無いお父さんにもっと負担をかけてしまうから。

父親としては、いっその事「嫌いだ」「嫌だ」「最低」だの言われた方が、ずっと楽だっただろう。罵ってくれれば、自分が最低だと思えるのに。父親の軋みの音は幼い莉久には分からないのであった。

病院に着いて、莉久は母親と話をする。

今日は誰かが持ってきてくれたリンゴを果物ナイフで不器用に皮を剥いて、切っていた。

「お母さん、今日ね、私お友達が出来たの」

「…」

「すっっごく可愛い子でね!手先が器用で、見て見て!この編み込み!とっても可愛いでしょ!その子がやってくれたの!あ、でも、名前聞き忘れちゃった…明日、聞いてくるね!今日の給食は揚げパンでね!私、じゃんけんに勝って食べれたの!」

莉久は母親に最大限に気を使って、父親の事を気にかける事が無いように、一方的に喋り始める。

いつもの「のです」という口調すら、母親の気に障るかもしれないから辞めて、笑顔で話し続ける。

それでも、上手くいかない時は上手くいかない。

「それでね、図書室の司書さんが…」

「ねぇ」

母親の低く野太い唸り声に、莉久の話が止まる。

「私の事、馬鹿にしてるの?自慢?」

「そ、そんなつもりじゃ……」

「うるさいっ!うるさいうるさいうるさいうるさいのよ!アンタの声!無駄にキンキン高くて、頭が痛くなってくる!」

「ご、ごめんなさいのです…」

「あ」と、莉久口を抑えた。(しまった)と思った。母親の目はいつもの様に開きった目がギロリと、私を見た。

「その口癖、まだ直ってないの?アレだけ直せって言ったのに?まだ直ってないの?」

「お、お母さ……っ!」

母親が莉久の肩を掴んで細い首を乱暴に掴む。小さくて細い首にしわくちゃで老人の様な両手が掴まえると、肩を揺らす様に前後ろに腕を動かした。

「何でお母さんのゆう事が聞けないの!いっつもいっつも!なんでお母さんの気持ちを考えないの!何でそんな悪い子なの!」

「がっ……おが…さ……」

加減を知らない母親の手は莉久の首を絞めあげ、彼女の酸素を奪って行く。

「ねぇえー!私の事大切だって言うなら大事だって言うなら、私の言う事聞いててよ!私のお願い聞いてよ!可哀想な私のお願い聞いてよ!あの女を殺してよ!お父さんを殺してよ!ねぇーえ!それが無理なら私を殺してよ!ねぇ!私を!殺しなさいよ!ねぇ、ねぇ…ねぇ………お願いだから……私を、殺してよ……」

母親の懇願の声と共に首を締め上げる力は強くなる。

「あ゙…お゙か……さ…離し……」

「いい加減にして」

怒りを含んだ可愛らしい甘い声が莉久の耳に聞こえると、一気に呼吸が出来た。

「ごホッ!ゴホッゴホッ!……あれ?」

莉久が頭をあげると、そこには十七歳ほどの女性がいた。黒髪にサイドポニーテールの位置からドーナツヘアの青を貴重としたドレスの様なロリータファッションの彼女は母親の腕をひねりあげていた。

「ホント、だっさ〜!何も出来ない子供に八つ当たりとか、マジでダサい〜!挙句の果てに殺してくれとか、首絞めながら言うの、マジで激矛盾何ですけど〜!」

「はぁ!なんだよクソガキ!親の子会話に入ってくんじゃねーよ!」

「なんなのって……『他殺屋』だよ」

「他殺屋……?知らない!そんなの知らない!私の事殺しに来たの?!嫌だ!来ないで!助けて!莉久!こんな死に方いや!」

莉久にしがみついて、莉久を盾にする様に後ろに隠れる母親を見て、他殺屋は苛立って炎の様な影を纏う大鎌で母親を切ろうとした。

「あんた……いい加減に…」

「待ってください!だめ!ダメのです!」

母親の前に自分の背丈よりも大きい鎌の刃に億さず莉久は両手を広げて母親を守るように立っていた。

「…」

鎌を構え直し、しっかりと見据える。震える莉久は、腕を組む様な、肘を掴んで、自分を抱きしめる形になっていた。

「い、今は、病気が不安なだけのです!だから、やめて下さい!お願いします……のです……」

言葉を言いながら莉久は膝をついて、両手を床について、頭を下げる。

他殺屋は息を飲んで、吐きそうになった。

子供が、小さい子供が…土下座をして命乞いをしている。

他殺屋にはその光景そのものに苛立った。

他殺屋は鎌を下ろすと、蜃気楼の様に姿を消した。

「な、なんだったのです?」

「莉久、お前が呼んだんでしょ……お前が呼んだんでしょ!」

「ち、違うのです!」

「出てけ!出てけよ!!」

「…」

莉久は母親の言う通りに病室を出ていった。

泣きそうな顔で、病院の廊下を走る。

「頑張らなくちゃ、頑張らなくちゃ、やらなくちゃ…お母さんの為に……頑張らなちゃ…」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る