第2話


「たばこくさい」と、ミキは声をかけてきた。


 七月に差し掛かり、外の気温についても、大学構内の空気についても変わっていく。七月の空気というものは身体にまとわりつくように湿っぽく、日差しも高く上るので、外に出れば相応の汗をかいてしまう。構内に設置されている冷房は作動こそしているものの、そこまで効力を発揮することはできず、屋内だといっても汗ばんでしまうことが多々ある。


 そんな中、少しばかりの行列ができていた購買に並んでいた時、いつの間にか後ろに立っていた彼女から、僕はそう声をかけられた。


「……そう?」


 僕は誤魔化すように笑いながら、適当に相槌を打った。その振る舞いは、どこか彼女に喫煙していることを悟られないように、という思いがあった。隠す必要はないはずなのだけれど、なぜか僕はそんな気持ちで言葉を吐いていた。


 きっと、僕は彼女の言う通りに煙草臭かったのかもしれない。


 限定的すぎる場所と時間ではあるけれど、確かに僕は煙草を吸って、その煙を浴びるようにしていた。でも、自分の臭いを自覚することは難しい。だから、煙草の臭いがそこまで染みついていることは想像することができていなかった。


 そんな僕を、彼女はくすぐるように笑う。いよいよ僕がレジ前に立つ頃合いになったところで、惣菜のコーナーにあったから揚げをミキは取り、「おごってよ」と笑いながらつぶやく。僕はそれを渋々受け取りながら、一緒に会計をした。




 大学の雰囲気は少しだけ慌ただしいように感じた。


 月末に成績が決まる考査を控えているからかもしれない。大学内を過ごす学生の中には焦燥感を抱いているような人間が数多くみられた。彼らが焦りを感じているのは、考査に対して準備をしていなかったり、きちんと出席をしていなかったり、など自身の思い当たる節を考えてのことだろう。そういった学生の大半は、構内に設置されている自習室へと足を運んだり、もしくは図書館の方へと足を運んで、適切に勉学に励んだりする。


 僕はどうしていたのかというと、声をかけてきたミキと一緒に、その時間は使われていなかった空きの講義室へと入って、ただ呆然と時間を過ごしていた。出席についても不安はなく、提出物についてもちゃんとしていた。考査に対する不安こそは多少あったものの、それを補えるほどに正しい生活をしていたから、特に憂う必要もなかった。


 ミキも同じようなものらしく、彼女は涼しい顔で、僕が買ったから揚げをほおばっては携帯を覗いて時間を過ごしている。会話をすることはなく、僕も僕で携帯を見つめて、SNSに上がっている情報を漁って、心の内でそれを笑っていた。


 そんな時間を過ごして、十数分ほどだった。講義室にあるアナログ時計の分針が、さきほどよりも角度を進めていることに気が付いた。携帯を眺めるのにも飽きてしまい、途端にやることを見失った。やるべきこともないし、やりたいこともない。適当に携帯を机に放り投げて、ホワイトボードに落書きでもしてやろうか、とか考えてみたけれど、ミキが隣にいるうえでそんなことをするのは子どもっぽいと考えて自制する。


 ふとミキの方へと視線を向けてみる。


 僕が携帯を置いたタイミングに合わせて、彼女も携帯を小さな革の鞄の中にしまった。そのしまう様子を見て、どこかに行くのだろうか、と思っていたけれど、特に移動するような様子を見せることなく、ただホワイトボードを見つめている。彼女も僕と同じように、やることを見失ってしまったようだった。


「そういえばさ」、と僕は声をかけた。


 沈黙に針を刺した。やるべきことを見失ったうえでの二人の沈黙が、少しばかり心地の悪さを感じさせる。気にする必要はない気まずさであることを頭の中では理解していたものの、それでもいつの間にか僕はミキに声をかけていた。


 だが、声をかけたのはいいが、正直何を話題にすればいいのかがわからなくなる。話しかけた手前、僕が何かを話題にあげなければいけないことが、少しの焦燥感を煽ってくる。


「いつから、煙草を吸い始めたの?」


 そういう時は、いつだって変な話題を言葉に出しがちだ。普段であれば、頭の中に過ってはいても無視するような言葉が、自然と口から出てしまっている。脳裏に、なんとなくミキが入学当初から喫煙していることを思い出したからかもしれない。もしくは購買で煙草についての話題が上がったからかもしれない。無意識的に、無邪気な疑問を浮かべた後、本当にこんな質問をしていいのだろうか、と不安になる。


 こういった話題は、結構センシティブなものだろう。


 二十歳から煙草を始めたものならばともかく、ミキについては入学当初から噂されるほどに、誇示するように喫煙をしていたらしいじゃないか。それならば、それよりも前から喫煙をしていた可能性は高く、その由縁を知ることは何かしら琴線に触れることになるのかもしれない。


 ……けれど、そんな僕の不安をよそに、彼女は特に気にしてもいないような雰囲気で「あー」と声を出すと、思い出そうとしていることを示すように、手であごをさすり、唸るように声を出し続ける。


「……んー、彼氏の影響?」


「彼氏の影響?」


 ミキが疑問をつけながら返してくるので、僕はそれにオウム返しをする。ミキは話すべきか、少しためらうように視線を違う方へとむけながら「聞く?」と聞いてくる。僕は「聞く」と、またオウム返しをした。


 僕の即答に、ミキは軽く笑った後、小さく息を吐く。躊躇っているような様子を見て、やはりあまり触れるべきではない話題だったのかもしれない、と彼女に対して申し訳なさを感じてしまう。


 でも、抱いてしまった好奇心を今さら消すのも、逆に気まずくなってしまうだろう。僕から聞いといて『やっぱりなし』というのは、なんとも間が悪い。


 取り消すつもりはなかったけれど、そんなことを頭の中に思い浮かべながら、僕は好奇心を心に浸したまま、ミキの言葉を待つことにした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る