色に染まる

第1話


 煙草を吸い始めたときのことを、よく思い出してしまう。


 堕落のきっかけ、もしくは象徴のようなもの。喫煙という行為に利益も意義もなく、ただ負債だけが溜まるのに、それでも煙を肺に取り込んでは吐き出して、その煙を憂鬱として数えたことを、思い出さずにはいられない。


 別に、やめてしまえばいいのに。


 わかってはいるけれど、依存の欠片は体の中にしみこんでいる。だからこそ、そのピースに当てはまるようなものを探して、結局は吸ってしまうのだ。


 どうして、こうなったのだろう。


 僕は、煙草に火をつけた。




 僕が煙草を吸い始めたのは大学二年生のころからだった。年齢としては十九の頃合いであり、未成年喫煙というのが問題視される現代の世の中で、確かに問題行為とされるものに、僕は励んでしまった。


 確か、あと三か月ほどで二十歳になる、という手前で、僕は友人の誘いに乗っかって煙草を吸うことになった。なぜ吸ったのかと、聞かれることもないであろう質問に返すのならば、その場のノリというのが大きいかもしれない。


 よく飲み会に誘われることがあった。周囲には四月や六月ごろに誕生日を迎える人間が多いもので、二十歳となったことで大人になろうとふるまい始めた人間に、勢いで誘われることが多かった。僕は酒を飲みたいという気持ちもなかったし、背伸びをする気持ちもなかった。だが、友人の誘いを無碍にするような行為をしてまで断る、という頭はなくて、誘われれば飲み会に参加していたし、よほどの用事が重ならない限りは、周囲に紛れるように酒を飲んでいた。酒を飲めば、酩酊感覚というのだろうか、頬に熱が上る感覚があった。顔赤いね、と女友達に言われたことが印象に残っている。自身が発言した言葉については特に記憶が残っていないが、翌日の反省会のノリで開かれる講義間の休み時間では、酔っていたね、とにやりとした顔で笑われていた。笑われているというのに、不思議と心地は悪くなくて、建前をなくして話し合うことができるという目的に酒を利用するのだということを、皆の暗黙の了解として理解した。


 そんな日々に明け暮れていた頃、飲み会の場面で煙草を吸っていた友人もどきから声がかかった。ミキという名前の女の子で、講義で隣か斜め後ろに座っていることからよく話す知人であった。中途半端に明るくなっていた茶髪がトレードマークだった。彼女は特に友達がいないということもないけれど、別に多くもないという感じで、休み時間で見かけるたびに孤独であったり、また違う時間には知らない女友達や男友達と話している姿を見かけた。


 僕は喫煙をしていなかったし、していなかったから喫煙所にも行かなかった。だから僕は知らなかったけれど、彼女は喫煙の常習犯のようなもので、よく煙草を吸っていたらしい。彼女は僕と同じでまだ誕生日を迎えていないというのに、それでも煙草を吸っていた。新入生である十八のころから喫煙所では目撃されていた、ということを男の友人から聞いていたから、なるほど、という感想だけを僕は抱いた。


 そんなミキから「吸ってみる?」と言われたので、僕はそれをきっかけにして火のついた煙草を受け取った。そうして初めて煙を肺に取り込んだ。


 断る理由はあった。煙は有害だし、体に得はなく、損しかしない。そんなことを挙げ連ねれば断れたのだろうが、それ以外に断る理由が見つからなかったのが大きいかもしれない。僕は彼女が吸っていた煙草を、そのまま受け取って、肺に取り込んだ。途端にむせてしまったことを周囲には笑われたけれども、それ以上に想ったことは、頭がぼうっとする感覚と、桃のような果実のさわやかさのある風味、そしてどれだけそんな風味で誤魔化しても消しきれない重みのある苦味であった。




 そのあと、しばらくは煙草を吸わなかった。別に吸う理由がないのだから、吸わないのならば吸わないでいい。そんなスタンスで僕は大学を過ごしていたうちに、とある友人ができた。


 いつも、僕は電車で大学へと通学していたのだけれど、近所に住んでいる友人が車を買ってもらった、というのだ。そんな彼に甘える形で、時間が合うときは一緒に車に乗せてもらった。彼の目的地は大学の先の方にあるので、彼としても都合は悪くなかったのかもしれない。なんなら、通勤の間、話し相手ができるという嬉しさについてを彼は語っていて、僕は少し気をよくしながら車に乗ることになった。


 そんな車という密室の中、彼は当然のように煙草を吸っていた。高校時代からの友人である彼が煙草を吸っていたことはよく知っていたけれど、目の前で喫煙している姿というのを初めて見たのだから、僕は呆気にとられてしまった。


 彼は煙草を吸いながら、卒業した高校の思い出話に花を咲かせた。彼にとって、煙草とは思い出の欠片なのかもしれない。その独特の苦い空気に絆されている間、彼は恍惚に会話を続けていた。


 正直、僕は煙草について得意ではない。もともと家族が煙草を吸っていたこともあり、副流煙に対する嫌悪感をというのをよく知っていた。だから、自ら吸うことはないだろうと、ついこの間まで思っていたことを、その日はよく思い出した。


 彼はきちんと窓を開けて、煙を逃すようにしてくれてはいたものの、それでも逃れることのできなかった煙は鼻腔と肺を刺激する。つんと弾けるような独特の不快感に、僕は何度か車酔いのような感覚を覚えた。覚えた、というか車酔いだったのかもしれない。


 そんな折、彼は僕に煙草を勧めてきた。そう進めてきたのは、ついこの間、ミキという女友達から煙草を渡されて、初めて吸った、という言葉を吐いたことがきっかけとしてあり、彼は悪戯心で僕に残り少ない煙草が入った箱を渡してきた。


「煙草の匂いが嫌なら、自分で煙草を吸えばいい。それで割と誤魔化せるもんだから」


 彼はそう言っていた。彼の言葉の意図がよくわからなかったけれど、どうせ一度は吸ったことがあるのだからもういいか、という気持ちで僕はまた喫煙をした。


 なるほど、煙の不快感に対して、煙の主流煙が上書きをする。周囲にある不快を上書きして、自分にだけ頭を混濁させる要素があることを、僕は初めて知った。


 その日から、僕は彼の車に乗っている間だけ、煙草を吸い始めることとなった。

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