第3話 風の鷲は瀑布を裂く

 髪を撫でていく潮風にさらわれそうになって、ナオは足を踏ん張った。踏ん張ったところで、そこには地面はない。そうでもしないと、目の前の景色に心を奪われそうになってしまいそうで。

「ナオ!」


「!?」


 青に溶けそうになっていく心を赤いトカゲ———アズが声を張り上げて引き戻した。ナオが声をかける前にアズはナオの腕にその長い尾を巻き付けた。爬虫類の尾なのでうろこまみれかと思いきや、細かい羽毛に覆われていた。羽毛は柔らかな光に包まれていく。ナオの手首から始まったその尾はひじの所まで伸びて止まった。

「構えて! なにか来る!」

「そう言われても! なにかって何!?」

 ナオの掌から手の甲へと立ち位置を変えたアズがせわしなく辺りを見渡している。思ったより大きい。トカゲかと思ったら、小さめのイグアナのような大きさでナオの手がすっぽり覆われているようだった。けれど、重さはあまり感じられず、違和感を覚える。


「何も見えないし、何も聞こえないよ?」

「え? 知覚魔法を展開したら、いいんじゃ……」

「ちかくまほう?」

「知覚魔法も使えないって、どんだけ遅れた世界から来たの!?」

 びくりと震えたアズだったが、あぁそうか、とぼやきをつぶやいた。そして、聞き取れないほど小さな、そして複雑な言葉を発した後、体中が赤く光り始めた。

「一つ質問していい?」

「うん?」


「ナオの世界は——―」

 その言葉は巨大な波しぶきにかき消された。巨大な水柱がナオの目の前で巻き上がり、先ほどまでいた難破船を粉々に砕いた。数メートル浮かんでいるナオよりも高く、そして幅が見えない。地鳴りのような音を立てながら落ちていく水柱の中には難破船の欠片が混ざっている。

「ひっ!?」

 引っ込んだ悲鳴を上げ、ナオは思わず後ろに倒れこみそうになった。そうできなかったのは、その瀑布の中から伸びてきた黒い影に捕らわれたからだ。

「ナオっ!」

 胴体をぐるりと取り囲んだそれはイカの足のようだった。白く太い足には小さな吸盤が付いており、日光を受けてつるつるとした光を反射している。胴体に巻き付けられた足は徐々にその力を増していく。

「なにこれ!? アズ!!」

「クラーケンね! 海を根城にする頭足類のモンスター!」

 腕は何とか束縛から逃れたようだ。クラーケンの足ごしにアズの切羽詰まった声が聞こえてきた。

「くらーけん?」

「もう! こっちの話をしたいのに、早々にモンスターに遭遇するなんて、ナオの幸運のステータスどうなってんの!?」

「ステータスって、ゲームじゃあるまいし……」

「馬鹿なことを言ってないで、とっとと魔力炉ファーナスを起動しなさい!」

「ふぁーなす?」

「……この子、そこからなのね」

 あからさまにがっかりした、期待外れだ、と言わんばかりの声色をアズが発した。

 そういわれても、何のことだか分からない。ぽかんとしているナオの目の前に怪しく光る赤い目玉が見えた。打ち上げられた水から飛び出てきたのは小さな家ほどもある巨大なモンスターだった。

 

 こんな生き物、ナオの記憶にはない。悪い夢でも見ているかのようだった。けれど、身に迫ってくる恐怖は現実味を帯びている。現実味はやがて恐怖に塗り替わっていく。巨大な生き物は、禍々しく光る眼玉をナオに向けている。

「や、や……だ」

 ギラギラと光る目玉には感情はなく、ただ獲物を見定めているように見えた。先ほどから幾度となく恐怖に心を支配されていたナオは、叫ぶこともやめてただその赤い目玉を見つめていた。

 遠くで誰かが呼ぶ声がした気がしたが、ナオはそれに耳を傾けることはできない。視覚も、聴覚も、触覚も、全てがすべて遠くに追いやってしまった、ナオの瞳からは光が失せていく。

 全ての光を失ったところを見計らったかのように、クラーケンの長い腕がナオの首元をめがけて走っていく。その細い首など、腕がかすっただけでも致命傷だ。

 

 ——— その腕は届く事なく四散する。


「………え?」

 バサバサと鳥の羽ばたく音がした。はっと気が付いたナオはその風切り音を目で追おうとした。けれど、ナオの眼ではその青い線を追うことはできなかった。とびとびに目に映る影をつなぎ合わせると、それは青い光をまとった鷲だということが分かった。

 獲物を狩る邪魔をした鷲に標的を変えたクラーケンは残った方の腕を縦横無尽に振り回していく。大ぶりなその動きに後れを取ることなく、鷲は持ち前のスピードで翻弄していく。

 光る鷲とはいったい、とナオが考えているとアズの安堵したような声が聞こえてきた。

「どの勢力かは分かんないけど、星獣が来たのなら助かった」

「せい、じゅう?」

「言いたいことはあるし、あたしもある。けど、今はこいつから逃げることを考える!」

「方法あるの?」

 ててっ、と体の向きを変えたアズがナオの前に顔を出した。巻き付いたのしっぽのおかげでこの風量の中で吹き飛ばされずにいたようだ。

「言ったでしょ? 魔力炉を起動させなって」

「その、魔力炉? ってどこにあるの?」

 炉、というのなら何かしらの機械か装置だろうか。そんなものどこにもない。その言葉にアズは何か言いかけて、軽く首を振った。

「イメージしなさい。あたしの形を。あたしを使ってどうやってこの場所を切り抜けるか。ナオならどうやって、あのクラーケンを倒す?」

 イメージときたか。そう言われて、ナオは半ばやけっぱちになって目を閉じた。とたん、アズの重さに熱が加わっていく。火を直接手の甲に乗せているような熱の中でナオは考えた。


 ここからクラーケンの呪縛から抜け出すにはどうするか。


 ある形を思い浮かべた途端、熱は重さに戻っていく。しかし、その重さは生き物の重さではなく無機物のそれ。記憶を失っているはずなのに、なぜかそれの形は容易に想像できた。想像できたなら、創造することができる。


「魔力炉、起動!」


 右手に握りこめたのは、拳銃だった。銃身は長く、回転式の弾倉が見えた。金属の球が入っているはずの穴の中には赤い光が詰まっていた。黒い銃身の上に飛び出ている照準のねらいをクラーケンの眉間に合わせた。

「行って!」

 人差し指に力を込めて、引き金を引くとバン、という大きな音とともに鋭い赤い閃光が宙を奔った。一点を目指した光は矢のように細く、鋭く。クラーケンの眉間を貫いた。


 弱点を突かれたクラ―ケンは一瞬で色を失い、海面にその巨躯を打ち付けた。ナオはその勢いにつられて共に着水した。巻き上がった海水が雨のように降り注ぎ、ナオの体を濡らした。

「やるじゃない。星獣の使い方としてはまずますね」

 いつの間にかトカゲの姿に戻ったアズがぺちぺちと小さな手を叩いた。何となくうれしそうだ。一方でナオはなぜか全力疾走した後のような疲労感に襲われていた。ぜぇぜぇと荒い息をつきながらアズに向き合った。


「何のことか、教えてもらいたいところだけど、この状況どうにかしないと———」

 その言葉は最後まで言い切ることはできなかった。突然目の前に巨大な影が現れたからだ。ゆっくりと進んできたそれに目を向けるとそこにあったのは、一隻の帆船だった。ぷかぷかと浮かんでいるナオの目の前にシュルシュルと一本の縄が落ちてきた。上がって来い、とでもいうようだった。

「救助してくれるのかな」

「……油断しないでね。さっきの鷲の所有者に違いないわ」

 でも、とナオは言いかけて口を閉ざした。

 

 どうあがいても、このままいては遭難するほかない。目の前の船に乗るほかに生き延びる手段はないのだから。ナオが縄を取ると、ゆっくりと縄が持ち上げられていった。 


 それを見守るかのように先ほどの鷲がくるくると宙を舞っていた。その光景にナオはどこか既視感を覚えた。

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私の推しはそんなこと言いません!!~俺様系海賊じゃなくてうさぎ系海賊になってんですけど!?~ 一色まなる @manaru_hitosiki

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