第2話 異邦人は碧の大海を知る

 (虹なんて最後に見たのいつだっけな)

 厳密にいえばあんなに巨大な虹なんてないのだけれど、働きづめの生活を忘れるくらいの色彩だった。頬を撫でる潮風は遠い記憶を呼び覚ましていく気がした。子どものころに家族で行った海辺を思い出したから。

(あれ? 働きづめの日々……って何だろう) 

 震えだした手を見つめた。奈央の手だ。友達よりも一回り小さい手で、からかわれてきた。右手からつながれた鎖はじっとりと熱を持っている。持ち上げるのは難しそうで、逆に顔を手に近づける。

「わたし、は。奈央……ナオ。ナオ、よね?」

 暗くした視界の中で自分の名前をつぶやいた。ナオ、という名前なのははっきりと覚えている、けれどそれ以外の何もかもが零れ落ちている。自分が今までどこにいたのか、なぜこんなところにいるのか。

 おかしい、と思いながら何気なく額に触れた。

「痛っ!?」

 額から後頭部にかけて電流のような痛みが駆け抜けた。片頭痛のような突発的な痛み。それは一瞬で消えたもののまるで静電気にあったかのようなショックでナオは体がこわばった。

「頭痛なんて、おかしい。何か、額に……?」


 周りを見渡しても鏡はおろか顔を映せるものはない。人が着たら鏡を持ってきてもらうのはどうだろうか。人の気配はしないのに。不定期に揺れる甲板にいるから、おそらく海洋の上だろう。揺れる身体をマストに支えてもらうと、ナオは思いっきり息を吸った。

「誰か……誰かいませんかっ!!」

 腹から声を出せた。声を張り上げると、不安が少しだけ安らいだ気がした。闇雲に叫んでしまうと、それはそれで恐怖感が増してしまう。だから、言葉一つ一つに力を込める。一つ叫んで、呼吸を整え、息をのんで、もう一度吐き出す。

「誰か!」

 人の気配が消えた場所で叫ぶことではないけれど、現状これ以外できることがない。


「ここはどこですか!?」 

 鎖さえなければ船首に向かうことも、操舵室に行くこともできる。でも、鎖がある今、体の自由はない。

「私は、どうしたらいいのっ!!」

 叫び続けて、のどがいよいよ限界に近付いてきた。でも、何か変わるはず。その一点だけを信じてナオは言葉をつづけた。

「誰かいませんか! 私は、どうしたらいいんですか!」

 この場所はどこなのか、それすら分からない。自分がどこから来たのかもわからない、けれどここではないどこかであることは分かっている。

「私はどこに行ったらいいんですか!」

 示して。そう心に念じて声を張り上げる。言葉を探しながら声を上げる。ナオの中の言葉が尽きつつあった。助けを求める言葉、現状を嘆く言葉、それらを繋げていくうちに、だんだんと心が引きずられていくのを感じる。がくりと肩を落とし、甲板の床材に目を落とした。思ったより傷んでいる。あちこちに穴や割れている所があった。まるで戦闘があった後のよう。


「———? ———っ!!??」

 銃弾や刀傷の走っているそれらにナオの心が大きな音を立ててきしんだ。

「私はこんなところにいたくないっ! 誰か、助けてくださいっ!!」

 

「ならば探し出せばいい! そうでしょう!」

 鮮烈な声が聞こえてきたのはナオの足元だ。何事かと考える前にナオの目の前に流れ星の様な物が落ちてきた。それは甲板の上に降り立つと、まるで石を投げ込まれた水面のように波紋を描いた。

「え……?」

 広がっていく波紋は複雑な模様を描き、まるで魔法陣のようにナオを取り囲んだ。それは一見時計のようにも、羅針盤のようにも見えた。幾重もの三角形や丸を重ね、淡く発光していく。

「何、が……」

 後ずさろうと腕に力を籠めると、先ほどまで右手につながれていた鎖が消えていた。そろそろと両手をそろえてみる。すると、広がっていったはずの魔法陣がふわりと宙に浮かんだ。そしてまるで氷砂糖のように砕けながら中心にいるナオの両手の上に集まっていった。

「な、何が起こっているのっ!?」

 集まっていく光の色は万華鏡のようにくるくると変わっていく。赤や青、緑や黄色、紫……ゆっくりと変わっていくそれに美しさよりも怪しさを感じた。大きさは大きめの卵ぐらいだろうか、投げ飛ばせそうだがあっけにとられてしまって何も考えられなくなった。


「キレイ……。 ———っ!?」

 卵はいつか割れるもの、だからだろうか、光の卵は急に光るのを止め小さな音を立てて何かが生まれてくる音をたてた。

「わっ!?」

 殻を脱いで現れるとしたら鳥―――と思ったが、生まれ出てきたのは赤いうろこを持ったトカゲだった。掌に乗るくらいの小さなそれは黄色の瞳をナオに向けた。

「ようこそ、異邦の人! 突然のことで驚いた? 驚いちゃったよね? ごめんね、だって急遽そろえられた数合わせだもの! 驚かないでっていう方が無茶よね?」

「ちょっと、ちょっと待って!」

「待つわよ? やっぱりありあわせの召喚式だと変なところに召喚されやすいって言うのは伝承通りなのは仕方ないこととして、こんなところに落とすなんてあいつらほんとロマンってのを理解してないわね。いや、逆に意表を突くってこと?」

「あのっ! ちょっと話が分からないんだけど!」


 ぐるぐるとナオの手の上を回りながらトカゲがひとりごとをつぶやいている。こちらのことを聞くようで聞いていないようだ。トカゲの質感がしっかりしているから、気味悪さは軽減されている。

「そもそも、確実性とか成功率を気にするんだったら質より量を考えてほしいところだわ。異邦の人を呼べば万事解決! みたいな安直な考え、あたしは好きじゃないのよね。なりふり構っていられないのは同意するけどサ」

(まるでおしゃべり好きな女の子みたい)

 トカゲの声はおしゃべりな女の子の声だ。なんともちぐはぐで、ナオがどうやって切り出そうかと思っていると、ぽかりとトカゲの口が開いた。

「あぁああああ!!???」

「!?」

「記憶封じの魔法式までかけるってルールはないはずなのに!! もしかして、この異邦人を捕まえたやつらがかけたって事かしら。あーもうっ。面倒がふえる! ただでさえ、こんな儀式あたしは大反対だったのに!」

 てけてけ、とトカゲがナオの右腕から登ってきて頭に乗った。長い尻尾の先でナオの額を撫ぜると、先ほどまで続いてた痛みが引いた……気がする。

「あの、もう少しわかりやすく話して、欲しい、んですが……」

「いいわよ。あたしの名前はアズ。異邦の人、あなたの名前は?」

「ナオ、です」

「あら、いい名前ね。大昔の王国の女王様と同じ名前じゃないの。異邦の人とはいえ、名前のセンスは大体に通ってくるものなのかしら」

「……そうなの?」

 頭に乗っていると影を落とさないように頭を少しだけ傾ける。名前しか覚えていないのは、心細いけれど。


「えっと、アズ……ちゃん?」

「ちょっと!? 急に子ども扱いはやめてくれないかな?」

「でも、その。呼び捨てはちょっとできないかなって」

「それでもちゃん付けはやめてくれないかな。まるで半熟の卵みたいじゃないの。これでもあたしは長いこと生きているんだから。呼び捨てでいいわ」

「……じゃあ、アズ」

「はい、なにかしら」

「知りたいことはいくつかあるけれど、まずは安全なところに運んでもらう事ってできる?」

「それはできないけれど、ちょっとくらい浮かぶことはできるわ」

「浮かぶ?」

「百聞は一見に如かずって言うんだし、ちょっと目を閉じてちょうだい」

「え?」


「早く!」

 そういわれナオは目を閉じた。とたん、強い風が下から吹き上げた気がした。そして体が上へ引っ張られていくような感覚があった。

「もういいわよ」

 左の耳から聞こえてきた声に目を開くと、そこにあったのは水平線だった。太陽は少し傾いて右側に見えた。さえぎるものがない海の上に立ち、ナオは目を見開いた。

 空の色と同化した海は太陽の光を受けて輝いている。吹き付けてくる風は先ほどの何倍も強く、気を抜いたら吹き飛ばされそうだ。空の光輪も近づいた分だけ大きく見えるような気がした。

「と、飛んでる!?」

「飛んでいるというより浮かんでいるって言う方が正しいわ。ここは数ある海の一つ、ロット海の東寄り」

 左肩に乗ったらしいアズの声が聞こえてくる。海の名前を聞いたけれど、やはりというべきかぴんとこなかった。異邦の人、とアズが言うように自分はこことは違う所から来たという事だけは分かった。

「アズ……ここは、どこなの? 私は、どうしてここに———」

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