第97話 緋色の悪夢

 月面都市に硬質なガラスが裂けるような甲高い音が響く。

 キーア・ハールスが驚いて瞼を開くと、目が眩むほどの逆光の中に見慣れぬ少女の姿があった。艶やかな黒髪を風に踊らせながら平然とそこに立っている。

 神獣が吐き出した超高熱のブレスは彼女のすぐ手前で透明なガラスにでもぶつかったように遮られていた。

 光が消滅すると、立ち込める煙の中に変わり果てた街並みが広がっている。

 神獣は訝しむかのように少女を見据え、低い唸り声を上げていた。さすがに警戒しているように見える。


「真夏」


 千里が目の前の女に歩み寄って、その名を呼ぶ。

 ほぼ同時にキーア・ハールスの背後からも別の少女――華実が近づいてきた。


「あなたがキーア・ハールスね」


 問われて、素直に頷く。


「ずいぶんと好き放題やってくれたわね」


 その声には明らかに怒りがこもっていたが、どちらかというとそれはダリアや505に対する仕打ちへのもののように思えた。キーア・ハールスが島で大暴れしていた時、華実はそこにいなかったのだから当然ではある。


「わたしはあなたがしたことを決して赦さない。けれど……」


 やや表情を和らげて溜息交じりに続けた。


「……わたしが言うのは滑稽でしょうね。わたしのしてきたことだって大概なのだから」


 溜息交じりに言うと華実はキーア・ハールスから視線を外して、神獣と対峙する真夏へと視線を向ける。

 黒髪の少女剣士は見た目こそ清楚なお嬢様だったが、巨大な神獣相手に悠然とした足取り近づいていくなど、どう考えても並の神経ではない。

 そこに神獣がもう一度ブレスを放射すると、真夏は刀を一閃して見えないなにかを斬り裂いた。ガラスが裂けるような音は、その瞬間の音だった。

 吐き出された超高熱の白い息は、ちょうど彼女がなにかを斬り裂いた場所で再び遮られる。


「あ、あの娘、空間を切断して――!?」


 空間系魔法のスペシャリストであるキーア・ハールスは、それを理解して絶句した。自分が魔法を使って同じことをするのは不可能ではないが、機械杖があったとしても時間がかかりすぎて、とてもあんなふうには使えない。それを刀一本で簡単に為し遂げるなど信じ難い話だ。

 神獣にその異様さが理解できるのかどうかは定かではないが、再び自身に向かって歩き始めた真夏を見て、怖じけたようにわずかに後ずさった。

 それでも、すぐに頭を振り回すようにして怒りの咆哮をあげると、今度はその顎で襲いかかる。金属質の白銀の牙が剥き出しの獰猛さを以て向かってくるのを見ても、真夏にはまったく動揺した様子がない。

 しかし、ここで神獣はさらに小賢しい手を打ってきた。噛みつくと見せかけておいて、彼女の眼前まで顔を近づけたところで再び光のブレスを放射したのだ。


「真夏!」


 華実が悲鳴染みた声をあげる。今度はガラスが裂けるような異音は聞こえてこなかった。

 思わず前に向かって走りかけた華実を千里が手で制する。


「大丈夫」


 ハッキリとそう告げた。

 そしてキーア・ハールスも気づく。ブレスがここまで伸びてこないことに。

 彼女が魔法によって視力を補正すると、白い光の中に人影が見える。もちろん真夏だ。あろうことか彼女は手にした刀で白光を細切れにし、容赦なくかき分けている。焦っているのは神獣の方に見えた。それは必死にブレスを履き続けるが、真夏は光も熱も構わず斬り裂いて塵に変えていく。いや、あるいは塵すら残っていないのかもしれない。

 とうとうブレスが途切れ、神獣が慌てて首を持ち上げようとするが、真夏の跳躍の方が早かった。

 電光石火の斬撃が、神獣の機械染みた右目を深々と抉るように斬り裂く。

 鮮血のような光を発して神獣が大きくのけぞった。もしそれに痛覚があるのだとすれば、それは神獣が生まれて初めて感じた痛みだっただろう。

 真夏はさらに空中に浮かび上がると、神獣の眼前で冷然と告げる。


「わたし緋い悪夢。お前にとっての至高の悪夢よ」


 発せられた声はその美しさに反してどこまでも冷ややかで、それはどこか冥府に吹く風を連想させた。

 神獣はさらにのけぞるようにして咆哮をあげたが、それは威嚇ですらなく、ただの悲鳴だったに違いない。

 四枚の翼を勢いよく動かして突風を巻き起こすが、それは攻撃でもなんでもなく逃げ出すためのは羽ばたきだった。必死の様相で巨体を宙に舞い上がらせると、再び叫び声を発してドームに空いた大穴から宇宙の彼方へと飛び去っていった。

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