第65話 賑やかな朝

 朝、華実が目覚めると階下から明るい笑い声が響いていた。

 こんなことは記憶にはないことだ。

 ベッドから身を起こして素早く着替えると、ドアの横の姿見で寝癖がないのを確認してから部屋を出る。

 階段を降りていくと、案の定、華実の母と千里が話し込んでいた。


「わたしとしては果物屋よりも八百屋の方が幅広くやってる気がしていいと思ったんだけど、なぜか八百屋と呼ぶと鬼のように怒るの」


 どうやら幸美の話をしているようだ。千里のことだから華実のことを面白おかしく吹き込んでいるのではと心配したが杞憂だったようだ。


「結局、最後には華実が本人の希望を尊重すべきだって言うから、あそこを八百屋と呼ぶことはタブーになりました」


 そんなどうでも良さそうな千里の話を聞いて、華実の母は実に嬉しそうに笑っている。


「そうかぁ。あの娘が、そんなふうに仲裁をね」


 感心したようにうなずきを繰り返している。なんとなく出て行きにくくて、階段の途中で足を止めていると、母はさらにしみじみと言った。


「あの娘ってば、訊ねれば、友達はちゃんといるって答えるけど、誰も家に連れてこないし、電話の一本もかかってこないから心配してたのよ。けど、ちゃんとあんたみたいな可愛い友達がいたんだね」

「うん、華実はちゃんと友達がいる。幸美もそうだし、別のクラスの子や先輩達。ついでに外人までひとりいる」

「外人さん?」

「うん。先輩を通じて知り合った」


 千里は意外に上手い具合に嘘も交えながら説明している。

 さすがにいつまでも隠れていられないので、さりげなく出て行くと、それに気づいた母親が「おはよう」と言ってくれた。

 その笑顔を見る度に、華実の心にチクリとした痛みが走る。

 命を投げ出すことをやめても、背負った罪が消えることはない。それはむしろ時間とともに増え続けていくばかりに思える。

 目の前のこの人は何も知らない。

 自分の娘がすでに亡く、今はその身体を別人の魂が支配していることなど気づけるはずもない。

 すべてを告げたところで理解できるはずもなく、たとえできたとしても、その果てに待つのは深すぎる絶望だ。

 だから華実は今日も、彼女の娘を演じる。


「おはよう、母さん」


 明るく告げて偽り続ける。

 そのとき、華実はふと自分の欺瞞に気づいた。

 自分の命を絶つことで、すべてを終わらせようとしていたのは贖罪のためではなく、自分の罪から逃れるためだったのではないか。

 だとすれば、つくづく情けない。

 こっそり嘆息しつつ、朝食を摂るためにテーブルに着く。

 ふと見れば千里は流しで食器洗いの手伝いをしてくれているようだった。


「意外に家庭的?」


 思わずつぶやくと、母親が笑いながら華実に言う。


「あんたも見習ってくれると助かるんだけど」


 微妙に眉根を寄せつつも、華実はうなずいた。


「分かった。努力するわ」

「あら、意外」


 母親に言われてそっぽを向く。

 これまであまりそういう事をしてこなかったのは、本物の華実がそういうタイプではなかったからだ。

 だけど、そろそろいいだろう。人は少しずつ変わるものだ。それが友達の影響とあらば、それほど不自然ではないはずだった。

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