第62話 夜明け
風が鳴っている。
唸るような音が途切れることなく虚空に響き渡っていく。
夜明け前の空は肌寒く、ナインは吹きつける風に目を細めていたが、造られた身体は、この程度の寒さを苦痛に感じはしない。
全身に巻かれた包帯には血が滲んでいるが、致命的な損傷は魔術によって癒やされており、小さな傷口もすでに塞がっているはずだ。
ナインは今、真夏に抱かれるようにして遙かな空を漂っていた。
このまま放り出してくれたら死ねるだろうか。
眼下に広がるのは人気のない山の連なりと、その向こうに広がる小さな町並みだ。
早朝と呼ぶよりもやや早い時間とあって光はほとんど見えない。
空を仰げば果てを感じさせることなき夜の世界がどこまでも続いている。
そこにちりばめられた輝く星の群れは美しくはあったが、寂寥を感じさせる光景でもあった。
ナインがもたらしてしまった災いによって、今宵、大切なもののすべてを失くした真夏は、それでもやさしい力でナインを抱きかかえている。
艶やかな黒髪を風に躍らせながら、静かに東の空を見つめていた。
透き通った藍色の瞳には、憎悪か悲痛な光が宿っていそうなものだが、何度見つめ直してみても、そこにはあるのは穏やかな光だけだ。
長い沈黙を挟んで、ようやく口を開いたとき、真夏の声もまた穏やかなものだった。
「見て」
促されて、ナインはおずおずと視線をそちらに向ける。そして思わず息を呑んだ。
遥か視線の先――遠くに見える稜線をなぞるように、オレンジ色の光が生じ始めていた。
ゆっくり、実にゆっくりと明けていく空の色。初めて目にするその光景に涙が自然にこぼれ始める。
ナインの視線の先で、光は徐々に明るさを増し、オレンジから白へと変わっていく。空が青く染め上げられていく中で星々は、ゆっくりと大気に融け込むように消えていった。
やがて空が藍色に変わる頃にはすべての星が見えなくなるが、さらに見つめていると再び空は青みを増していき、今度はそれが朝焼けの色に染め上げられていく。
美しい。
本当に美しい光景だった。
感動に身体が、心が、魂が震えて涙が止められなかった。
ナインは初めて知ったのだ。朝の一時の中でさえ、空がこんなにも多様な顔を見せることを。
「ありがとう」
真夏の声が耳にすべり込んでくる。
「あなたのおかげよ」
やさしい瞳がナインを見つめていた。
「あなたが守ってくれたから、世界はまだこんなにも綺麗でいられる」
心地良い声音で真夏が繰り返すように続ける。
「あなたが守ってくれたから、わたし達はまだこの空を見つめていられるの」
うつむき、震える。ナインは、なにを口にすればいいのか判らなかった。
「でもね。わたしはこの景色よりも、もっと綺麗なものを知っている」
「え……?」
ナインが小さく驚きの声を上げると、真夏は眩しいものでもみるかのように目を細めた。
「それはあなた。この世界を守ることを選んでくれたあなたの心よ」
なんのてらいもなく、芝居がかったところもなく、真夏は自然な笑みを浮かべて嬉しそうに笑う。
たまらずナインはうつむいた。
ひどい間違いを犯した。重すぎる罪を抱いてしまった。
世界を裏切ったことさえ、この少女のすべてを奪ってしまったことに比べれば些細なことに思える。
なのに――。
どうしてこんなにやさしいのか。
どうしてこんなに強いのか。
なにができるだろう。
なにをすればいいのだろうか。
自問自答を繰り返しながらナインは自分の手の平を見つめる。
造られたこんな小さな手で、彼女のためにできることがあるのだろうか。
それを考えると、帰る場所を失くしたときよりも、故郷を裏切ったときよりも、不安で心細かった。
目の前の少女はナインのためにすべてを失い、それでもナインのために世界にさえ剣を向けた。
本当に美しいのは、きっとこの少女の心だ。
でも、なにをすれば償えるのか。なにをすれば恩に酬いることができるのか。
うつむくナインの前髪を真夏の白い指がそっとかき分ける。
「千里」
やさしい声が耳元で囁く。
「あなたの名前を考えたの。ナインだと、この国では浮いてしまうから」
愛おしげに頬を撫でながら続けてくる。
「だからあなたは千里。遠い場所から来てくれたから……ダメかな?」
問われてナインは勢いよく首を左右に振って否定した。ダメなはずなどない。
「そう、良かった」
また目を細めて嬉しそうに笑う。
「ありがとう。でも、わたしには……」
ナイン――いや、千里は自分には、なにひとつ返せるものがないと言いかけたが、真夏の声がそれを遮る。
「笑ってよ、千里。涼香も、母さんも、みんなも……悲しみにくれた未来のために戦ったわけじゃない。きっと、わたし達の笑顔のために戦ったのだから」
そのやさしさにふれて千里の目尻から、また雫がこぼれた。それでも今度はうつむくことなく顔を上げる。
いつの間にか空は一面の青へと変わっていた。
太陽が輝き、また暑い一日が始まる。
真夏もまた長い髪をたなびかせながら笑顔で空を仰いだ。
千里の思い出を聞き終えたとき、華実は静かに泣いていた。
膝の上で両手を握り込み、肩を震わせながら嗚咽を噛み殺している。
「わたしはただ、意地を張ってるだけ」
真夏が発した言葉は華実の耳にも届いていた。
その時にはなにも思わなかったが、今になって痛いほど解る。
失われた人々の想いに酬いるために真夏は以前と変わることなく笑っているのだ。
彼女たちの生も死も無駄にしないために。
理屈としてはもっともだが、人間の心は理屈だけで割り切れるものではない。
だから彼女は意地と言ったのだろう。
運命がどれほど残酷でも、悲しみの雨に打たれ続けても、愛する人たちを負の遺産にはしない。あくまでも彼女たちは自分にとっての財産だと。
きっと、それが真夏の意地の張り方なのだ。
華実は今になって自分の過去を顧みる。
なにも解っていなかった。
命の価値も。死の重さも。人の想いの深さも。
(なんて無知な……)
後悔と無念。それ以上に羞恥を感じて華実は泣いた。
亡者の都など造ってはいけなかった。たとえ望んで得たものではなくとも軽々しく命を捨てることなど考えてはいけなかった。
(生きていかなきゃ……)
決意ではない。人として当然のことを理解しただけだ。
(たとえ、それが罪深いことでも……)
自分の行いが多くの人を不幸にし、元の華実を死に追いやった事実は今さら消すことはできない。
それでもなお、安易に死を選ぶなど赦されることではなかった。
(こんなわたしでも愛してくれる人達がいる……)
真夏も、千里も、幸美も、地球防衛部の仲間たちや、おそらくはマーティンも華実が生きることを願っている。
それはつまり、自分の死が自分ひとりのもので終わってくれないということだ。
たとえ、その命が自分のものだとしても、その価値は自分だけで計って良いものではない。
華実はこの日、生まれて初めてそれを理解した。
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