第34話 青の約束

 この時代、世界から学校は消えて久しく、人類は基礎学習さえ行っていない。

 すべての人間は生まれて間もなく培養槽の中で十歳程度まで成長させられると、機械によって直接頭脳に高度な知識を刷り込まれて、速やかに社会に貢献するために活動を開始する。

 そのため生まれてしばらくは個性も乏しいが、何年かすれば自然と個性が生まれ、能力の差異も確認されるようになる。そこで初めて適性検査が行われ、正式な所属先へと振り分けられるのだ。

 人造人間の場合も基本は同様で、生まれながらに必要な年齢まで急成長させられると、マインドコントロールを含めた、より強力な疑似記憶を与えられて国家に忠実な兵士となる。

 ところがナインには、この疑似記憶が与えられなかった。そればかりか遥か大昔の人間よろしく赤子の状態から自然のままに育てられたのだ。

 結果としてナインは、この世界の誰よりも知識の乏しい子供だったが、もとより愛海以外の人物とは接触を禁じられていたため、劣等感とは無縁だった。

 残念ながら多忙な愛海はナインに付きっきりというわけにはいかず、旧世代の育児ロボットを改造して、その任に当てていた。

 ポルタと名づけられた彼は、その時代では考えられないような古くさい外見をしていて、見た目はまるでブリキのロボットのようだった。

 音声もあからさまな合成音声でたどたどしく、感情プログラムが実装されているのかどうかも怪しいものだったが、それでもナインにとっては育ての親であるという以上に、大事な大事なたったひとりの友達だった。

 ナインが生まれた研究施設は愛海とポルタ以外は誰もいないのだが、規模だけはやたらと大きく、まるでテーマパークのような広がりを見せていた。

 生まれてこの方、外に出ることを禁じられていたナインにとって、この施設はちょっとした迷宮であり、ポルタとふたりで地図など書きながら隅々まで探検して回ったものだ。

 そんなある日のこと、ナインとポルタは地下の一画に隠されるようにして設けられていた鍵のかかった扉を発見する。

 興味を持ったナインは、愛海の研究室に向かうと、それについてストレートに質問してみた。

 すると、愛海は面白がるように笑って


「いやはや、さすがというべきか、こんなに早く見つけてしまうなんてね」

「見つけたのはポルタ」

「おお、彼か。古いAIも侮れないわね~」


 楽しそうに声を立てて笑うと、机の引き出しを開けて小さな鍵を取り出す。それをナインの手に乗せると片目を瞑って告げた。


「本当は次の誕生日にでもあげようかと思ってたんだけど、彼へのご褒美よ。あそこにあるのはわたしの宝物。そして今日からはあなた達のものよ」


 愛海の言葉に小首を傾げつつも、ナインは言われたとおりに扉の場所へと戻った。手渡された鍵を使って扉を開くと、ポルタと共に中へと踏み込む。

 そこにあったのは本を満載した本棚の群れと、部屋の中央に置かれたディスプレイ。それに接続された謎の機械だった。

 まずは本棚から調べることにしたナインは、そこで初めて漫画なるものを目にすることになる。

 そのほとんどは20世紀以降に描かれたものらしく、言語はなんとか判別できたものの、意味の判らない事柄が多く、最初は読み進めるのも一苦労だった。

 しかし、ポルタにはこれらの知識が豊富にインプットされていて、彼の助けを得ながら、いろんな作品に目を通すうちに、ナインは次第に物語の魅力に引き込まれていった。

 そうやってある程度漫画を読み進めるうちに、本棚には本以外のものも収められていることに気がつく。

 ポルタに訊ねたところ、それらは古い記憶媒体で、やはり映像作品としての物語が記録されているとのことだった。

 部屋の中央に置かれていた機械は、それらを再生するための装置だったのだ。

 こればかりは、さすがに古い物ではなく愛海が自作した物のようだ。わざわざ古い記憶媒体を保存していることを考えれば、デッキの方も当時の古い物を用意したかったのだろうが、おそらく現存していなかったのだろう。

 そもそも何世紀も前の記憶媒体が現存していたことが奇跡的なことでもある。

 ポルタの弁によれば、これらはかつて発禁とされた品々で、所有することすら犯罪とされる時代もあったが、現在では無価値なガラクタ以外の何ものでもないという話だった。

 ナインとしては、このように素晴らしいものがガラクタ扱いされたり発禁になるなど理解しがたいことだったが、そもそも世間とは縁がなく、社会に関心もなかったため、それほど深く考えることはなかった。

 こうしてポルタとふたり、毎日をここで過ごすようになったナインは、いつの間にか現代よりも二十世紀の世界に詳しくなっていたが、そこで一つ大きな疑問を抱くことになる。

 アニメにせよドラマにせよ、当たり前に出てくるあの青い空は、いったいどこへ行けば見られるのだろうか。

 ポルタに訊いても不明とのことで、ちょうど愛海が不在だったこともあって、ナインは施設の展望台に上って一日中、空を眺めて過ごした。

 しかし、そこから見えるのは代わり映えのしない灰色の空だけだ。日が沈んで薄暗くはなっても灰色は灰色で、夕焼けも朝焼けも見られない。そのまま何日待っても彼女の望む景色は現れなかった。

 それから十日が過ぎても愛海は帰宅せず、連絡もないままで、ポルタが気を利かして当局に問い合わせたところ、どうやら愛海は国外にいるらしく、帰りは未定とのことだった。

 少なくとも無事であることは確認できて、それについては一安心だったが、そうなると今度は空のことが気になり出す。

 それでも、さらに十日は待ち続けたナインだったが、その翌日、とうとう我慢できなくなって禁じられていた施設の外へと生まれて初めて足を踏み出した。

 とくにセキュリティの類いは反応せず、ポルタも制止することなくついてきたので、彼とふたりで灰色の荒野を進んだ。

 生まれて初めて目にした外の世界は、ただひたすら空虚だった。あるのは灰色の岩と砂、そして同じ色をした空だけだ。獣どころか虫の一匹も生息していない。

 二十世紀の地球とは、あまりにもかけ離れた場所だった。

 もちろんナインとて知っている。現在、人間はドームポリスか地下都市を居住空間としていて、生身で荒野に出るなどあり得ない。

 その理由と合わせて考えれば答えは簡単だ。

 映像の中で見たあの緑も、鳥も、獣も、虫たちも、あの青い空さえも、遠い昔に死に絶えてしまったのだ。

 涙の雫が頬を伝い落ち、風に巻かれて消えた。

 表情のないポルタが、それでもどこか気遣うようにナインを見上げる。それでもナインは黙ったまま歩き続けた。

 空に朱が差すことなく夜が来て、同じように朝が来る。定期的に仮眠を取り、携帯食料を囓り、ポルタのバッテリーを交換する。それを幾度も繰り返しながら、ひたすら真っ直ぐ足を進めた。

 そのようにして幾度目かの夜を越えても空は灰色のまま変わる気配はない。

 だが、それでもナインは、もう一つの青を求めて歩き続けた。

 何を探しているのかと問うポルタにナインは答える。


「海だよ、ポルタ。一面の青い海。地図によれば、この先にあるはずなんだ」

「ナイン……」


 ポルタは何かを言いかけてやめたようだった。

 仮に、そこに海があったとしても青空の下でなければナインが求める青には出会えないだろう。そう言いかけてやめたのはナインにも分かっていた。ポルタもまた、ナインが分かっていながら進まずにはいられないのだと理解したのだろう。

 生まれ育った研究施設から、いったいどれだけの距離を進んだのか……。

 やがて風が湿った空気を運んでくるようになったが、潮の香りはまるでしてこない。

 ナインはまだ歩き続ける。

 そこに希望がないのは、もはや分かりきっていた。それでも歩くのは絶望を目の当たりにすることで未練を断ち切るためなのだろうか。

 頭を振って答えの出ない自問自答を打ち消し、絶望に抗うかのように澄み渡った青空を心に描き、陽の光を浴びてきらめく海を夢想する。

 この幻想が現実を打ち砕けるならば、どれほど幸福なことだろう。

 だが、現実は最後までナインの願いに応えることはなかった。

 ふたりがようやく目的の場所に辿り着いたとき、眼前に広がっていたのは水面ですらなかった。砂の混じった風が頬を打ち、髪を乱暴にかき乱す。かつて海があった場所に広がっていたのは、やはり灰色の死んだ砂の世界だった。

 ナインは無言のまま立ち尽くす。

 古い記録映像の中で出会った青の世界を目にした時、生まれて初めて世界を美しいと思った。感動と憧憬――そして不思議な郷愁を感じた気がした。

 だが、その美しいものは時の流れの中で風化し、もはやどこにも残っていない。

 静かに認める。自分が帰るべき場所はあの青の世界ではなく、この死んだ砂の世界なのだと。

 いつの間にかポルタが自分の手を握ってくれていることに気づいて、ナインは微かな笑みを浮かべたが、「帰ろう」の一言さえ、今は口にできずにいた。

 やがて背後から、浮遊式乗用車ランドボートのエンジン音が響いてくる。それはふたりのすぐ後ろに停車するとドアが開いて、中から馴染みのある声が響いた。


「ごめんごめん、すっかり遅くなっちゃって。うぇー、ひどい風ね。とにかくふたりとも乗って。わたしのために。ぷり~ず」


 あまりにいつもどおりの愛海に毒気を抜かれたのと、外の空気が人間である彼女には有害であることに気づいて、ナインは大人しく指示に従った。

 ポルタを後部座席に乗せたあと助手席にナインが座ると、愛海はすぐにエアフィルターを起動して車内の空気を清浄化する。


「現代人もそれなりに肺は強化してるんだけど、やっぱりマスク無しはキツイわね」


 苦笑いを浮かべる愛海の隣でナインは黙ったまま俯いていた。

 愛海は細長い棒状のチョコレート菓子を口にくわえると、ハンドルを握って浮遊式乗用車ランドボートをスタートさせる。この時代はAI制御の自動運転が当たり前だが、彼女はなぜか手動で操作したがるのだ。

 ナインがぼんやり顔を上げると窓の外では代わり映えのしない灰色の景色が流れてゆく。乾ききった死の世界だ。


「なにがあったの?」


 問いかける愛海の声はやさしかった。


「青が……」


 言い淀んだのは声が掠れて上手く発生できなかったからだ。唾液を循環させて口の中を湿らせるとナインはあらためて言い直した。


「青い世界が見たかった」


 ナインの答えを聞いても愛海はしばらく無言のままだった。ランドボートを走らせる横顔には変化がなく、怒っているわけでも困っているわけでもなさそうだ。しいて言うならなにかを考えていた様子だった。

 実際、タップリ数分の間を開けてから愛海は口を開く。


「空がこんなになったのは、もうずいぶん前のことらしいわ」


 とくに感情のこもらぬ声で説明してくる。


「それでも昔は雲を抜ければ青い空が広がっていたらしいんだけど、今はもうそれすらない。もちろんドームポリスにはニセモノの空や海っぽいものも造られているけど、あんなニセモノはあなたには相応しくないわね」


 愛海の言い様になにか含みがある気がしてナインは不思議そうな顔を向けた。それに気づいたらしく、彼女は苦笑して告げてくる。


「わたしを信じて、ナイン。それを甦らせるのは、いくらわたしでも無理なことだけど、それでも――いつかあなたをそこに帰してあげるから」

「帰す……?」


 その不思議な言い方にナインは小首を傾げる。愛海は浮遊式乗用車ランドボートを自動に切り替えてハンドルから手を放すと、ナインの頭をやさしく撫でる。


「約束するわ。あなたはこの世界で、ただひとりの人間だもの。わたしが造った本物の人間。だから、あなたは人間の世界で生きるべきなの」


 正直なところ、なにを言われているのか解らなかった。もともと愛海には相手の理解を置き去りにしたまま話をすることが度々あった。それでも、不思議とあとになれば、その言葉の意味が理解できるようになるものだ。だからナインは深く考えなかった。


「わかった」


 涙の跡をぬぐってうなずくと、愛海はやさしく微笑んだ。

 正直なところ愛海がなにをする気かなどナインにも予想がつかない。それでも彼女が自分に向かって嘘を吐かないことはよく理解していた。

 だから絶望など忘れて、もう一度信じることに決める。愛海が青の世界と対面させてくれるその時を。

 しかし、このわずか数ヶ月後、人類は未曾有の大厄災に見舞われ、その混乱の中でナインもしばらくの間、この日のことを忘れてしまうのだった。

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