花と散る
第32話 鮮血姫
汚れた月が血に濡れた庭園を冷たく照らし出している。
闇夜に佇む純和風の大邸宅は外壁と主屋だけを残して、なにもかもが破壊し尽くされていた。砕けた石灯籠が血溜まりに沈み、離れ座敷は巨大な物体に押し潰されたかのように倒壊している。庭園の奥に建てられていた荘厳な剣術道場にいたっては壁の一面しか残されていなかった。
かろうじて原形を留めている主屋も、すべての扉が粉砕されて、壁や屋根にいくつもの大穴が空いている。
この破壊が殺戮を伴った蹂躙だったことは、大地を覆い尽くす血溜まりを見れば明らかだ。それはまるで川のように高きから低きへと流れ、冷たい音を奏でていた。
人里からやや離れた屋敷の周囲には緑の山並みが広がっていたが、夏の夜だというのに、そこからはいかなる生き物の声も聞こえてこない。
闇の中で息を殺しているのか、それとも死に絶えてしまったのか。たとえ後者であっても驚くには値しない。
世界さえも滅びかけたその夜だ。それくらいのことが起きていたとしても不思議はない。流れる風は冷ややかで、それこそ冥府に吹く風を思わせた。
だが、生者はそこに存在している。血の海の上に佇む少女は左手に刀を携え、冷たい眼光を居並ぶ男達に向けていた。
本来ならば腰まで届く漆黒の髪と藍色の瞳を持つ美しい少女だが、今は身につけたセーラー服のみならず、長く伸びた髪の先までもが、粘つく血を浴びて緋色に染まっている。
裏社会にその名を轟かす恒覇創幻流剣術の達人、そして東条家の次期当主――
明るく温和な少女として知られていた彼女だが、その顔には今、なんの表情も浮かんでいない。瞳に宿る光はひたすら冷たく、見る者の心臓を凍りつかせそうなほどだ。
彼女の背後にはもうひとり、小柄な少女が佇んでいる。全身に巻かれた包帯に血が滲み、見るからに痛々しい姿をしていた。悲嘆に暮れた表情で俯き加減に真夏の背中を静かに見つめている。
ふたりの眼前に立ち並び半包囲しているのは裏社会において最強の武装勢力として勇名を馳せる円卓の騎士達だ。
手にした剣や槍といった類いの武器は原始的に思えて、その実、銃火器よりもよほど強力な魔力を秘めた武器である。
だが、それを握る彼らの手は明らかに震えていた。
緋色に染まった少女が、無造作に足を踏み出すと足下で血溜まりが冷たい音を立てる。そこには、かつて人だったものの残骸が無数に転がっているはずだが、淡い月明かりの下では、はっきりと視認することはできない。
騎士達は職業柄、惨劇の現場など見慣れているはずだったが、これほどひどい光景を目にしたのは初めてだ。
しかし、今はその事実に意識が向かないほど、眼前の少女に恐怖していた。
いや、そこに立っているのは本当に少女なのだろうか。
死神か、それ以上の脅威としか思えない。たとえ全員でかかっても、その一瞬で全員が細切れにされそうな予感がするのだ。
いっそ騎士の矜持も使命もかなぐり捨てて逃げ出したいところだったが、恐怖ゆえに視線を逸らすことさえできない。さながら蛇に睨まれたカエルだ。
それでも、そのまま対峙していれば、いずれは醜態を曝して瓦解していただろう。
だが、その寸前のところで彼らの背後から頼もしい声が聞こえてきた。
「君たちは下がっていたまえ」
人垣を割るように進み出てきた三人の男を見て騎士達が歓声をあげる。これで問題は解決したと言わんばかりの喜びようだ。
先頭に立つのはマーティン・ペンフォード。裏社会において世界最強を謳われる円卓十二騎士のひとりだ。
金の髪を長く伸ばした碧眼の若者で、騎士服の上にマントを羽織り、腰には精緻な装飾を施した西洋剣を提げている。彼の家に代々伝わる聖剣ブライトスターだ。世界でも有数の名だたる魔法剣であり、これを凌ぐ剣はアーサーが持つ聖剣カラドヴルフ以外にはあり得ないと彼は固く信じていた。
彼の後ろにはさらに同格の騎士達が控えていたが、騎士服は身につけていない。
ひとりは遊牧民ふうの衣装に身を包み、残るひとりは迷彩服を着ていたが、これは緊急の呼び出しを受けたために正装が間に合わなかったからということだった。
この三人が日本にいてくれたのは僥倖だ。騎士達は皆そう思っていた。
彼らは円卓の騎士とはいっても、もちろん伝説に名を残す英雄そのものではない。だが、それに匹敵する力を持つと信じられていて、それを否定する者はいない。
ゆえに、ここでも彼らは、自らの力に絶対の自信を持ち、敗北の可能性など端から除外していた。
先頭に立つマーティンだけは生真面目な表情を浮かべているが、左右のふたりは面白がっていることを隠そうともせず、獲物を値踏みするような残忍な笑みを真夏に向けている。
もちろん彼らも、ここに来る前に彼女の情報は得ていた。
恒覇創幻流剣術師範の孫娘で、十三才という若さで免許皆伝となったほどの腕前らしいが、世界の頂点と一流派の剣士など、比較するのもバカバカしい話だ。
真夏にしても自分が属する東条家が円卓傘下の一組織である以上、目の前の男達の正体は察しているはずだが、それでも萎縮した様子はまったくない。ふたりの騎士のように愉しげな様子もなく、その瞳はただひたすらに冷ややかで感情のカケラもないようだった。
あえてその眼差しを真っ向から見据えてマーティンが名乗りをあげる。
「私は円卓の騎士マーティン・ペンフォード」
やや芝居がかった動作で腰の剣に右手をかけると、抜刀しながら威圧するように続けた。
「今すぐ、その娘の身柄を引き渡せ。これは盟主アーサーの御意志である。背けば反逆者として即刻死を与えるがいかに?」
剣から生じる魔力の光が夜の闇に青白い軌跡を描く。ことさら彼が威圧的に振る舞ったのは無益な血を流したくないからだ。
本来は目の前の少女も騎士達と同じく怪異の脅威から世界を守る同胞だ。背後の少女を守ろうとする心情も理解できる。
だが、盟主の命令は絶対だ。マーティンは青臭い正義などという言葉で相手を貶めるような愚鈍な男ではないが、それでも盟主の冷徹な判断には意味があると信じている。たとえそれが正道であっても感情論だけで世界を守れるほど人間は強くないのだ。
祈るような気持ちで見据えるマーティンの前で、真夏は言葉を発することなく、血のりを払うように手にした刀を軽く振って戦意を示した。
(やはり無駄か……)
それもまた理解していたことだ。目の前の少女はどう見ても覚悟を終えている。たとえ世界のすべてを敵に回しても、背中に庇った少女を守り抜く覚悟をだ。その姿には敬意すら感じるが、手加減はできない。
(赦せとは言わぬ)
マーティンもまた覚悟を決めて、自らの役割を全うするために剣を構えた。
「女子供を手にかけるのは主義に反するが、盟主の御意志に背くのであれば容赦はできぬ。覚悟せよ!」
宣告と同時に全力で大地を蹴った。タメの動作すらないその動きは居並ぶ騎士の目には瞬間移動のように映ったことだろう。
マーティンは十二騎士でも最速を謳われる男だ。常人では感じ取ることもできない刹那の一瞬の中で、さらに加速して容赦なく真夏の首を狙う。
盟主の意思に逆らった以上、彼女が死を賜るのは自明の理だが、それならばせめて恐怖も苦しみも感じさせず、一瞬で絶命させるのが、せめてもの慈悲だと思えた。
だが、信じ難いことにマーティンが剣を振るう半瞬の半分にも満たない時間で、真夏は彼に向かって逆に踏み込んできた。
知覚が追いつかずにマーティンは一瞬、相手の姿を見失う。その彼の視界で何か奇妙な物が赤い糸を引きながらくるくると回っていた。
それが自分の利き腕だと気づいたとき、後から追いついてきた激痛で彼は思わず悲鳴をあげた。たまらず血溜まりの中に倒れ込むが、それでもなんとか身を起こそうとして、身体の自由が利かないことに気づく。
(霊質を揺らされた――!?)
戦慄とともにマーティンは悟る。
霊質は魂の中枢と身体を繋ぐ接点のようなものだ。真夏は刀を通して、そこに霊力を叩き込み波紋を起こすことで、一時的にマーティンの身体の自由を奪ったのだ。
高度な技ではあるが、それなりの修練を積んだ者ならば使えて不思議はない。ただし、同格以上の相手に、これを成功させるのは至難の業だ。
それはつまり――
(――レベルが違う!)
信じ難い思いに戦慄する。世界最強の剣士という彼の肩書きはダテではないのだ。
仲間に向けて警告を発しようとするが、この状態では声もあげられない。
状況を見守っていた騎士達は利き腕を斬り跳ばされて地に伏したマーティンの姿を見て悲鳴をあげていた。
残る十二騎士のふたりも信じ難い光景を前に息を呑んでいる。自惚れの強い彼らでさえ、他の十二騎士の力は認めているのだ。しかも、彼らの目を以てしてもマーティンが敗れた理由がまるで判らなかった。彼の剣が真夏を仕留めたと思った瞬間、逆に彼の方が腕を斬り飛ばされていたのだ。
しかも、それを為し遂げておいて真夏は自分の勝利に何の感慨も抱いていない。
世界最強を謳われる騎士のひとりを倒しておいて、それを当然のように考えている――いや、それすら考えていないのかもしれない。その無感動な眼差しには人としての感情が決定的に欠落しているように見えた。
ふたりの十二騎士は、騎士達をさらに後ろに下がらせて、それぞれに武器を構える。
迷彩服を着た大柄な男は一目で戦闘用とわかる大型のナイフを。もうひとりの遊牧民を思わせる男はシャムシールと呼ばれる湾曲した刃を持つ刀剣を握りしめて、目の前の少女に全神経を注いだ。
もはや甘く見てはいない。自分たちよりも上だとは思わないまでも全力でかからねば危険な相手だと肝に銘じていた。
雲が月光を遮り、世界が薄闇に覆われた中をふたりの十二騎士は同時に大地を蹴る。暗黙の内に連携で仕留めることに決めていた。
ふたりの速さはマーティンには及ばないが、それでも世界のトップクラスだ。タイミングを合わせて同時に襲いかかると見せかけておいて、突然マントを着た騎士の姿だけが霞のように消える。
姿が消えただけでは透明になったのか、幻覚か、空間を飛び超えたのか――などと判断に迷いそうなものだが、真夏に戸惑った様子はない。
振り向くことすらなく無造作に刀を閃かせると、なにもいないはずの背後を斬る。同時に
背後であがる絶叫を完全に無視して真夏は残るひとり――迷彩服の男に向かって踏み込んでいく。
それを見て迷彩服の男は異国の言葉でなにかを叫んだ。あるいは神に苦情を言ったのかもしれないが、それでも彼は臆することなく
本来ならば魔剣の一撃にも耐えられる力だが、このときばかりは彼も慢心は捨てていた。
たとえ少女の力が異常なレベルにあるとしても、硬質化したこの腕ならば、一撃では切断されることはない。たとえ半ばまで断ち切られても、その瞬間に相手は動きを止めることになる。
(そこをナイフによって仕留める!)
握りしめた短い刃も、やはり魔法の品で十分な斬れ味を持つ。仕留めるには一瞬あれば十分のはずだった。
左腕を盾にするように前に出して怒濤の一撃で突撃を敢行する。薄闇の中で握りしめたナイフが淡い魔力光を放っていた。
両者が間合いに入ったその刹那、雲間から伸びた月光が、真夏の姿を照らし出す。
驚くほど冷たく透き通った眼光が迷彩服の男を捉えていた。
全身が粟立ち、本能的な恐怖とともに自らの読みの甘さ、失策を悟るが、今さら止まることはできない。
ナイフは当然のように空を薙ぎ、同時に涼しげな金属音が響いた。
自分の右腕が手にしたナイフもろとも宙を舞うのを見て彼はもう一度神に罵声を浴びせた。異能によって鋼鉄以上の強度を得た彼の肉体も、少女の斬撃の前では枯れ木にも等しかったのだ。
それでも彼は怯むことなく反対の手に隠し持っていた短剣を振るって少女の喉笛を狙う。あらかじめ二の矢は用意してあったのだ。
少女はすでに刀を振り切っていて、これに対処することはできない――そのはずだった。
だが、結果は彼の期待をすべてを裏切る。
刃が少女に届くよりも早く彼女は信じ難い速さで刀を引き戻して、それによって残された彼の腕まで簡単に斬り落としてしまった。
ここに来て迷彩服の男もようやく理解した。強さの次元が最初から違いすぎているのだと。それはマーティンが仲間に伝えようとしてできなかったことだ。
真夏にとって、これは戦いですらない――ただの作業に過ぎなかったのだ。
もう一度刀を振って血のりを払うと、真夏は倒れた男たちには見向きもせずに、その眼光を残る騎士達へと向けた。
狼狽した声があがり包囲の輪が崩れる。
世界最強と謳われ、裏社会の誰もが畏怖する円卓の十二騎士が、たったひとりの少女に三人も倒されたのだ。彼らは自分たちが全員でかかっても、円卓の騎士ひとりに敵わぬことを、じゅうぶんに理解していたから、この状況で動揺するなと言う方が無理な話だった。
「バケモノだ……!」
「あり得ない……!」
百戦錬磨の男達が悲鳴をあげながら不様に後ずさる姿は滑稽だったが、真夏はクスリとも笑わない。
手にした刃よりも冷たい視線を彼らに向けて告げる。
「わたしは悪夢。今宵、お前たちが見る至高の悪夢」
鮮血姫――ナイトメア・スカーレット。
円卓の者たちから真夏がその名で呼ばれるようになったのはこの時からだ。
たが、これは凄惨な事件の終幕の一コマに過ぎない。後にディストピアと呼ばれる異世界に端を発した、世界の存亡さえかけた戦いは、この時点ですでに終わりを迎えており、これは、つまらない人間のエゴが状況をかき乱したというだけの話だ。
少なくとも、ここでこれ以上命を落とす者はなく、表向き世界は平穏を維持したまま続いていく。
ディストピアの名は裏社会に関わる人々に強い衝撃を与えつつも、一夜限りの悪夢で終わるはずだった。
しかし、この時すでに同じ場所に端を発する事件が、人知れず動き出していたのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます