第27話 失意を越えて

 涼香が危惧したとおり、彼方は記憶を半ば失っていた。事件のことばかりか火惟のことさえ、まともに覚えていなかったのだ。

 それでも日常生活を送るのに必要な知識は無事で、彼はすぐに学校に融け込み、以前と同じように皆の人気者になった。

 記憶喪失の原因は階段で転んで頭を打ったという、ありきたりなものにされていて、当人もそれを信じている。

 彼方は自分が火惟の親友だったことを友人達から聞いて、なにかと気にかけてくれたのだが、火惟はそれに上手くつきあえず、卒業の頃には、すっかり疎遠になっていた。

 もちろん火惟は理解していた。変わったのは彼方ではない。自分の方だ。

 その理由は彼方の記憶喪失とは関係ない。

 それが起きたのはあの日から、ほんの数日後のことだった。

 北の山裾で大きな火事があったのだ。

 そこには大きな屋敷と剣術道場があって、幾人もの門下生が住み込みで生活していた。今にして思えば随分と時代錯誤な話に思えるが、火惟にも町の人間にとっても、当たり前のことだったので、それを不思議に思ったことはなかった。

 真夏はその道場主の孫娘で、そこが彼女の自宅だった。

 話を聞いた火惟は大慌てで現場に駆けつけようとしたが、そこに続く道は警察によって厳重に封鎖されて近づくことさえできなかった。

 ようやく彼らが引き上げると、火惟は進入禁止のロープをくぐって、屋敷の跡へと踏み込んだが、そこはもう焼け跡ではなく更地になっていた。

 どこを見回しても記憶に残るものはなく、美しかった庭園も大きな道場もなく、その土台すら残っていなかった。


 生存者なし。


 それは公的な発表ではなく噂に過ぎなかったが、それ以来、そこの住人を町で見かけることはなくなった。

 真夏はもちろん、涼香を含む取り巻きの少女たちも姿を消し、教師はもちろん、誰に話を訊いても満足な答えが返ってくることはなかった。

 学校での扱いは転校ということになっていたが、行き先も不明で連絡先も判らない。あえて口にする人間は少なかったが、誰もが死んだものと考えているようだった。

 納得がいかず、火惟は彼女たちの痕跡を求めて町中を走り回った。頭の悪い、虚しい行いだと自覚しながら。

 結局、すべてが徒労に終わり、それでもあきらめきれずに足を向けたのが、真夏が怪物と戦ったあの山だ。

 まだ日は高かったが、秋が深まり景色が変わったことで道に迷い、予定よりも随分と深い場所に入り込んでしまった。

 帰り道も判らなくなって、ひとり途方に暮れていると、場違いにも思える奇妙な少女に声をかけられた。

 白い制服の上に赤いコートを羽織った可憐な娘だ。年の頃は火惟と似たようなものに思えるが、コートに隠れて制服はよく見えない。ただ、なんとなく、この近隣の住人ではない気がした。


「驚きましたね。人払いの結界が張ってあるのに」

「結界……?」

「お気をつけください。激しい戦いの影響で、この山には怖ろしい怪物が出るんです」


 柔らかな笑みで告げてくる少女を見て、火惟はどこか真夏に通ずる部分がある気がした。そもそも結界や怪物などという言葉を口にしたところを見ても一般人とは思えない。


「少女坂は!? あいつらはどこにいるんだ!?」


 前置きもなしに縋るように問いかける。

 少女はわずかに驚いた顔をしたが、なにやら納得したようにうなずくと、囁くようにつぶやいた。


「姫の御友人でしたか」


 その言葉から自分の考えが的を射ていたことを知り、息せき切ったように言葉を投げかける。


「知ってるんだな!?」


 だが、わずかな期待を裏切るかのように、少女はゆっくりと首を左右に振った。


「残念ですが、彼女たちはもう戻りません」

「戻らないって――それって、どういう意味だよ!?」


 詰め寄って、その両肩をつかもうとするが、少女はするりと身をかわした。火惟がつんのめりそうになるのを堪えて振り向くと、静かに答えを返してくる。


「姫はご存命です。しかし、他の皆様は戦いの中で帰らぬものとなりました」


 落ち着いた声で告げると少女は無言のまま秋の空を見上げた。

 よく晴れた青空に巻雲が広がっている。美しい光景ではあったが、少女がそれを見上げたのは涙を堪えるためだったのかもしれない。

 火惟はただ立ち尽くしていた。

 少女が口にした姫が真夏であることは察しがつく。彼女の取り巻きも、彼女をそう呼んでいたからだ。

 つまり、火惟が望んだとおり、真夏は生きていた。

 ずっと聞きたかったはずの言葉だが、喜ぶことなどできなかった。

 涼香を含む真夏の友人たち。やさしくてお菓子作りが得意だった真夏の母親。聡明で誰にでも親切だった真夏の父親。その誰もが火惟の見知った相手だった。

 なによりも真夏にとっては、かけがえのない存在で、失うことなど耐えられるはずもない人間ばかりだ。

 それを一度に失って、彼女はどのような気持ちでいるだろうか。


「あいつは……どこに?」


 問いかける声にも力がない。


「遠くに行くとのことでした。今は旅の空だと思います」

「そうか……」


 うつむいて、踵を返す。

 喪失感が大きすぎて今はまだ涙も出ない。

 だが、真夏本人が抱え込んだ痛みは、こんなものではなかったはずだ。


「そちらに真っ直ぐ進めば自然と麓に出られます。あなたが道に迷ったのは結界の影響でしょうから」

「ありがとう」


 もう、そちらを振り向くこともなく火惟は歩き始める。

 気温はやや低いが陽の光に照らされて肌寒さは感じない。

 思い浮かぶのは真夏の笑顔。彼女はいつだって眩しいくらいに輝いていた。まるで、夏の太陽のように。

 だけど、それは失われた。永遠に失われた気がする。

 火惟は無意識のうちに拳を固く握りしめ、歯を食いしばっていた。

 溢れ出した涙が頬を伝い落ちていく。


(俺は誰も守れなかった……)


 友も、恋する少女も。それ以外の大切な友人も、知人たちも。


(なにが正義の味方だ……。とんだ能なしじゃねえか……)


 胸の裡で自分を罵倒し、全力で走り出す。それでも収まりのつかない気持ちを吐き捨てるように、いつしか火惟は大声で叫んでいた。言葉にならない想いが山々にこだましていく中を、ただひたすら泣き叫び、走り続けた。


 卒業までの時間を火惟は無為に過ごしていた。

 父親の転勤で遠い町への引っ越しが決まっても、とくに何も感じず、そのための準備を淡々と進めた。

 そうして迎えた卒業の日、火惟は突然彼方から呼び出しを受けた。


「らしくないな、火惟」


 開口一番、そんな言葉を突きつけると、彼方は拳を固めて思い切り殴りかかってきた。

 火惟が反射的に手の平で受け止めると、それでも不敵な笑みで告げてくる。


「ほう……いい反応だ。だが、やけに非力だな」


 彼方は受け止められた拳に力を込めると、受け止めた火惟の手をどんどん押し込んでくる。


「お前、なんの真似だよ?」


 顔をしかめる火惟に、彼方は挑戦的な笑みで答える。


「それは僕のセリフだ。そんなざまで正義の味方になれると思ってるのか?」

「なに?」

「熱く生きるって約束しただろうが」

「お前、なんでそれを……?」


 思いだしたのかとも思ったが、どちらにせよ火惟は闘志が湧かない。


「僕は不甲斐なくやられて、そのあとの事情も知らない。僕が知っているのは僕自身がしたためた手紙の内容だけだ」

「灯佳か! あいつ、あの手紙をお前に見せたな!?」


 今になって気づくが、あの手紙は妹が持ったままだったはずだ。


「そうだ。お陰で自分の苛立ちの理由がようやく理解できたよ」

「苛立ち?」

「ああ、お前を見ていると苛立って仕方がなかったんだ。そんなやる気のないお前と、今日までの僕自身にも」

「お前自身にも……?」

「聞け、火惟。この手紙を見る限り、僕は大きな失敗をしたようだ。情けないし恥ずかしくもあるが、一番情けなくて恥ずべきことは失敗をすることではなく、それを活かすことなく繰り返すことだ」

「繰り返す……」


 つぶやいて力を抜くと、彼方も突き出していた拳を引いた。親友の真っ直ぐな視線に耐えかねたかのように火惟は項垂れる。


「繰り返す心配はねえよ。俺はもう失くしちまった。これ以上、失くすものなんてない」

「そうかな?」


 彼方は自信に満ちた声で現実を突きつけてくる。


「お前にはまだ大事なものが残っているだろう。灯佳ちゃんに御両親。そして――」

 赤面もせずに親友はキッパリと言い切る。

「この僕だ」


 思わずポカンとして彼方を見る火惟。


「どうした? 否定してみるか?」


 挑発するように言われて、火惟はようやく口元に弱々しい笑みを浮かべる。


「いや、大事だよ。灯佳も、お前も、俺にとってかけがえのない存在だ」

「なら、今のお前は失敗を怖れて、ただ縮こまっているだけだ。違うか?」

「そうかもな」

「間違いなくそうだ。だが、そんなのはまったく熱くない。僕が憧れた男の姿じゃない」

「いや……なんつーか、お前の方が、よっぽど熱苦しいんじゃないか?」


 苦笑してみせると、彼方はむしろ嬉しそうにうなずく。


「ああ、僕はこれからの日々を熱く生きる。明日からのお前に負けないようにな」

「明日からの俺……か」

「好きな女がいるんだろ?」

「え……?」


 彼方の記憶に真夏のことは残っていないはずだ。不思議に思っていると、彼方がその答えを口にする。


「灯佳ちゃんから聞いた。世間の連中は死んだと言っているようだが、お前の妹は生きていると確信しているようだ。お前はどうなんだ?」


 灯佳は昔から真夏に懐いていた。火事のあと、真夏が死んだと聞かされても、まったく動じることなく平然としていたが、それはつまり、その話を端から信じていなかったからのようだ。昔から妹には、そういう不思議なところがあって直感的に真実を言い当てることが度々あった。

 残念ながら火惟に、そんな力はなかったが、真夏が生きていることは不思議な少女が教えてくれた。


「あいつは……生きてるよ」


 火惟が告げると彼方は大きくうなずく。


「なら、いつかどこかでもう一度、その娘に会ったとき、情けない姿をさらすような真似はするな。だいたい、俺たちは正義の味方になるんだぞ。世界が滅びるまで守るものがなくなることなんてあるものか」


 大真面目に告げる親友に火惟はようやく彼らしい笑みを浮かべた。


「ああ、お前の言うとおりだ」


 うなずいて右手を差し出すと、彼方がそれを力強く握る。これは別れの握手ではない。互いに熱く生きるという誓いの握手だった。

 この日を最後に火惟は往時市を離れ、今のところ彼方とは会っていない。

 だが、べつに心配はしていない。きっとあいつはあいつで、この瞬間を熱く生きているはずだ。

 真夏と再会できるかどうかは正直望み薄に思えるが、彼方とはいずれ再会する日も来るだろう。そのときに親友を失望させないように、日々を精一杯熱く生きる。

 その想いを胸に火惟は今も戦っている。

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