第26話 悪夢
「父さんは怪物に殺されたんだ」
彼方は悲痛な顔で火惟に告げた。
「まさか、この世にあんなバケモノが実在していたなんて……」
とても信じられないようなこの告白を、それでも火惟は信じて事情を聞いた。
「そいつは鎌みたいな手を振り回して僕らに襲いかかってきた。父さんは僕を逃がすために囮になったんだ。それできっと崖に追い詰められて……」
答える彼方の肩は恐怖で震えていた。火惟が知る限り、彼ほど勇敢な男は他にいない。それが小さな子供のように怯えるなど、ただ事ではない。この姿を見れば、嘘など言っていないことは一目瞭然だった。
火惟はそう思い、そう主張もしたが、大人たちは誰も信じようとはしなかった。
「そんなもんがいたら、すぐ分かるって」
「俺たちも現場には行ったんだ」
確かめたからなどと言いつつも、端から信じる気がないのは明白だ。
大人たちはアテにならない。
悩んだ数に火惟は家の物置からクワを持ち出して、早朝早々に彼方の元へ出向いた。
「俺たちで親父さんの仇を討とう!」
火惟が勢い込んで告げると、彼方は唖然とした様子で立ち尽くした。
「このまま放っておけば、どんな被害が出るかも分かんねえし、それだとなおさら親父さんが浮かばれねえ。どうせ誰かがやらなきゃならねえんだ。だったら、正義の味方の俺たちがやるべきだ。大丈夫、そいつがどんな奴だろうとふたりでかかればどうにかなるさ!」
力強く告げる火惟に、しかし、彼方はうなずくことはなかった。それどころか、さもおかしそうに声をあげて笑い始めたのだ。
戸惑う火惟の前で、大きく息を吐くと彼方は困ったような顔を浮かべる。
「すまないな、火惟。あれは嘘なんだ」
「は?」
「作り話なんだよ。ちょっとドラマチックにしてみたかっただけだ。だって格好悪いだろ? 僕の親ともあろうものが、とくに理由もなく足を滑らせて転落したなんてさ」
「な、なんだよ、それ!?」
このとき火惟は初めて親友に対して激昂した。
「ふざけんなよ! 人の生き死にに格好いいも悪いもないだろ! だいたい俺がどれだけ……」
「だから悪かったって。あやまってるだろ?」
ケロッとした顔で語る親友に火惟は思わず拳を振り上げかけたが、結局それは思いとどまった。それでも怒鳴りつけることまでは我慢できず、最後に「大バカ野郎と」叫んで走り去ってしまった。
結局、本当にバカなのが自分だと思い知ったのは、その日の夕刻だ。
憤懣やるかたなく、自室でふて寝していた火惟は、妹の
「なんだよ、お前? いくらお兄ちゃんが格好良いからってラブレターを出すのはどうかと思うぞ」
「そんなわけないでしょ。草間彼方さんから託かったの。明日の朝に渡してくれって」
「彼方から?」
朝の件で謝罪の手紙を寄越したのかと考えたが、とりあえずは妹の発言のほうが気になった。
「明日の朝って、それじゃあ早過ぎんだろ? だいたいあいつとはもう絶交――」
言いかけたところで手紙を顔に押しつけられてしまう。
「様子が変だったから、悪いとは思ったけど、すぐに渡すことにしたの。今読むかどうかは大羽火惟が決めて」
「お前はなんで実の兄をフルネームでしか呼ばないんだろうな……」
愚痴りつつも火惟は手紙を開いて目を通した。
その内容を見て一瞬で眠気が吹っ飛ぶ。事情を訊いてくる灯佳に答えることなく家を飛び出すと火惟は一目散に問題の山へと向かった。
「バカヤロウ!」
叫びながら必死で走る。
その手紙は彼の遺書も同然だったのだ。
すまない、火惟。
親友であるお前にバカげた嘘をついた僕を赦してくれ。
お前の気持ちは嬉しかったが、あの怪物は僕らがふたりでかかったところで、どうなるものでもない。
それでも、お前の言ったとおり、このままだと父さんの死が無駄になる。
息子として――
いや、正義の味方として、それだけは看過できない。
これから僕は例の山で怪物を捜す。
途中の木々に印を刻んでいくから、僕の通った道筋はすぐに判るはずだ。
首尾よく奴を見つけられたなら、もちろん戦いを挑むつもりだ。
だが、正直勝つのは難しいだろう。
それでも、その印を辿った先に僕の遺体があれば、それが怪物が存在する証になるはずだ。
そうなれば警察か、自衛隊か、なんであれ誰かがあれを仕留めてくれるだろう。
火惟、僕のこんなやり方は、たぶんお前を傷つけてしまうだろう。
だが、これは僕自身の愚かさで、ワガママだ。だから、どうか自分を責めないでくれ。
僕はずっとお前に憧れていた。
誰にバカにされようと「正義の味方になる」と公言するお前の熱さに憧れていたんだ。
子供の頃から周りをバカにしていい気になっていた頭でっかちな僕にとって、あれは衝撃的だった。
できれば僕もお前みたいに熱く生きたかったが、どうやらそれは叶わないようだ。
だから火惟、これからは僕の分までお前が熱く生きてくれ。
さようならとは書かれていなかったが、それはどう見ても別れの手紙だった。
火惟は立ち入り禁止のロープを跳び越えて山に分け入ると、樹木に付けられた傷を頼りに彼方の後を追う。
必死でその足跡を辿って、ようやく開けた場所に辿り着いたとき、彼方はそこでうつ伏せに倒れていた。
彼自身の血溜まりの中に。
「彼方ぁぁぁっ!」
叫ぶ火惟に反応もせず、身じろぎ一つしない。
駆け寄ろうとしたところで火惟はようやく気がつく。
樹木の一本だと思っていた歪な影が、この世のものとは思えない存在――彼方が話していた怪物であることに。
そいつは赤く輝く目で火惟を見据えていた。恐怖で身が竦み、自分の顔から血の気が引く音が聞こえる気がする。
よく見れば怪物の身体には農業用の大鎌が浅く食い込んでいる。おそらく怪物と戦うために彼方が用意した物だろう。
一太刀浴びせたというには、ささやかすぎる戦果だったが、少なくとも彼方は勇敢に戦ったのだ。
(お、俺だって……)
歯を食いしばって膝が笑うのを堪えようとするが、そもそも火惟は武器も手にしていない。
怪物が鋭い鎌のような手を振り上げても、結局は戦うことも逃げることもできなかった。
(すまない、彼方)
心の中でわびを入れながらも、火惟は最後まで目は閉じなかった。それが最後の抵抗であるように。
だが、振り下ろされた怪物の鎌が眼前に迫ったとき、突然視界がぶれ、風切り音とともに、その鎌が空を切るのが見えた。
襟首をつかまれて思いきり後ろに引きずられたことに気がついたのはその直後だ。
「うわっ……!」
バランスを崩して尻餅をついた火惟の眼前に、獲物を仕留め損ねた怪物の腕が突き刺さっている。
聞き覚えのある怒りの声は頭越しに響いた。
「わたしのクラスメイトに随分なことしてくれたわね」
地面に座り込んだまま、見上げるようにして背後に立つ人物に視線を向けると、いつも火惟が突っかかっては返り討ちにされているクラスメイトの女子――少女坂真夏が彼の襟をつかんだまま怪物を睨みつけていた。
「お、お前、なんで!?」
「灯佳ちゃんに聞いたわ」
それだけ答えると火惟の襟を放して怪物に詰め寄っていく。
「おいっ!?」
慌てて声をあげるが、その時にはもう怪物が地面から引き抜いた腕で彼女に斬りつけていた。引き戻した腕を再び振り下ろすのに、ほんの一瞬しか擁さない。とても人間が対抗できるスピードとは思えなかった。
だが、真夏は長い髪をたなびかせながら、それをいとも簡単にかいくぐると、怪物の身体に突き刺さっていた彼方の鎌を引き抜く。
それを見て怪物はさらなる速さで突撃するが、真夏は避けようともせず、逆に自らも一歩踏み込んでいった。
鮮血が迸り、いびつに歪んだ枝のような物体がクルクル回りながら宙を舞った。だが、それは地面に落ちる前に無数の亀裂に覆われて、次の瞬間には粉微塵になって風にさらわれて消える。
真夏が無傷で鎌を構え直したとき、怪物の身体からは片腕が綺麗に消えてなくなっていた。
すべてを見ていた火惟はそれでも我が目を疑わずにはいられない。
真夏が鎌を使って怪物の腕を斬り飛ばし、さらに細切れに斬り刻んだのは間違いない。
だが、それは農業用のものでしかなく、そこまでの斬れ味があるはずがない。現に彼方の力では浅く突き立てるのが精一杯で、怪物にはなんの痛痒も与えていなかった。そもそもどんなスピードで振り回せば、物質を粉微塵に斬り刻めるのか。
あるいは似たような疑問を、怪物も抱いていたのかもしれない。顔に表情こそないものの、どこか茫然としているように見える。
それを真夏は深い藍色の瞳で静かに見据えていた。火惟が見たこともない冷たい表情を浮かべている。怖じけるように怪物が後ずさった。
「あなたはもうどこにも行けないわ。ここが行き止まりよ」
やはりそれは火惟が聞いたことのない声音だ。見慣れぬクラスメイトの姿に火惟は思わず唾を飲み込む。
「わたしはあなたにとっての至高の悪夢。緋い悪夢に沈みなさい」
告げられた言葉は疑いようのない死刑宣告だった。
あるいは怪物は、それでもまだ逃げようとしたのかもしれない。だがそれ以上は身じろぎ一つする暇もなかった。真夏が振るった鎌は一瞬にして怪物の身体を縦に斬り裂く。真っ二つに割れた身体は、左右に倒れながら、さらに粉微塵となって破片一つ残さず、塵以下となって世界から消え失せてしまう。
「お前、いったい……」
おののく火惟だったが、真夏は気にすることなく無造作に歩み寄ると、いきなり火惟が着ている服を引き裂きにかかった。
「う、うわぁぁっ、なにすんだお前!? 変態かぁぁぁっ!?」
それまでとは違う恐怖を感じる火惟。頬を赤らめつつ素っ頓狂な声で叫ぶが、真夏はわりと真剣な顔で告げてくる。
「じっとして。彼方くんの止血をしないといけないでしょ」
言われて火惟もハッとなった。
「彼方の奴、まだ生きてるのか!?」
「いいえ、あれだけ血が出てるとショック死してると思うわ」
無慈悲な言葉に硬直する火惟。
「でも、なるべく血を止めておいた方が蘇生の確率も上がるはずだから……」
「蘇生!?」
驚いて聞き返したとき、ちょうど茂みを掻き分けて別の女生徒が姿を現した。
真夏の取り巻きのひとりで名前は夏庭涼香。明るく真面目な優等生といった印象を持つ人気者だが、なぜかいつも真夏と一緒にいる。真夏は他にも校内の綺麗どころを何人も引き連れているが、涼香はその中でも一番のお気に入りらしく、自分の恋人だと宣言しているほどだ。
これだけ聞くと女王様気取りの女に聞こえるかもしれないが、真夏の振る舞いには、そういった高飛車なところはまるでない。ただ、一部の女生徒から「姫」と呼ばれているのは事実で、よく分からない集団というのが火惟の感想だった。
現れた涼香は血溜まりに伏した彼方を見て。さすがに息を呑んだ。それでも取り乱すことなく小さく深呼吸すると、なにかを確認するように真夏に顔を向ける。
「涼香、お願い」
「彼のことはいいのね?」
「ええ」
混乱していた火惟は、このやりとりの意味さえ理解できなかったが、後から考えれば簡単な話で、涼香は火惟が見ている前でそれをして良いのかと確認を取っただけだ。
状況について行けず、落ち葉の上に座り込んでいる火惟の前で、涼香は彼方の身体を仰向けにした。傷口が露わになりそうだったが、同時に後ろに居た真夏が火惟の両目を手の平で塞ぐ。
「お、おい!?」
「じっとしてて。傷口と今の彼の顔は見ないほうがいいから」
「けど……」
言い返そうとしたとき火惟は真夏の手の平越しに強い光が灯るのを感じた。同時にこれまで感じたことのない不思議な波動のようなものにさらされる。
なにが起きているのか分からないのも不安だったが、火惟としてはやはり彼方のことが心配だった。それでも身じろぎを始めるよりも早く、真夏は意外にアッサリと目隠ししていた手をどける。
いつの間にか木々の隙間から眩い西日が差し込んでいて、一瞬目が眩むが、それにはすぐに慣れる。目の前では涼香が彼方の身体に手をかざしていて、その両手からは眩い緑色の光が生じていた。光のお陰で傷口はよく見えないが、そこから流れでた血の量を考えれば、相当にひどい有様だったはずだ。
「なんだよ、あの光? 夏庭はいったい……?」
「癒やしの術よ。わたしたち東条家一門の中でも夏庭家は治癒魔術のエキスパートとして知られているの」
「魔術って、そんなもの……」
やはり理解が追いつかずに困惑するが、先ほどのような怪物が存在するのであれば、そのような不思議な力があってもおかしくないのかもしれない。ようやく火惟がその認識に至ったところで涼香の手の平から生じていた光が消えて、傷ひとつない彼方の姿が現れる。
血色はまだ悪かったが、その顔は眠るように穏やかだった。もっとも死に顔のようでもあり、火惟は慌てて駆け寄ろうと立ち上がりかけるが、真夏がその肩を抑える。
「まだ終わってないわ」
真夏の言葉通り、涼香は肩にかけていた小さなカバンを開くと、中から注射器と正体不明のアンプルを取り出した。慣れた手つきで素早く準備を終えると、それを彼方の腕に注射する。
反応は劇的で青白かった顔にみるみる血の気が戻ると、彼方は小さく咳き込み、その胸が上下し始めるのが火惟の目にもハッキリと見えた。
「彼方!」
親友の名を呼んで立ち上がるが、今度は真夏も邪魔をせず、火惟は駆け寄って彼の身体を涼香から受け取るようにして抱え込む。
「意識が戻るには、まだ時間がかかるわ」
疲れた顔で涼香が告げてくる。
「ああ。ありがとう、夏庭!」
感激して礼を言うが、涼香はどこか沈んだ顔で首を左右に振った。
「命は繋いだけど、たぶん後遺症が残る」
「後遺症!?」
「心停止の時間が長すぎたの。おそらく記憶は完全には戻らない」
「そんな……」
その言葉の重みに衝撃を受ける火惟だったが、それでも親友は彼の手の中で確かに息をしている。死んでしまったはずの親友がだ。
「分かった。ありがとう、夏庭」
もう一度、今度は深々と頭を下げると、火惟は親友の身体を担ぎ上げた。
怪物からは守れなかったが、せめて家までは自分が連れて帰ってやりたい。でないと友達として、あまりにも甲斐性がなさ過ぎる。
「あれ? 大羽くん、わたしへの礼がなかったわよ」
とぼけた声を出す真夏を火惟は半眼で睨みつけた。
「お前は俺を襲ったから差し引きゼロだ」
「ひどいっ、服を引き裂いただけなのに、その言いぐさ!」
「だったら、俺もお前の服を引き裂いてやろうか?」
当然のように言い返したのだが、真夏のみならず涼香にまでどん引きされた。
「変態よ」
「変態だわ」
「女の敵だし、成敗しましょうか」
「売り言葉に買い言葉だろうがっ!」
もんくを言ってから歩き出すと、真夏も涼香も本気ではなかったらしく、あとは平然と後ろをついて来た。
火惟はもちろん感謝していたが、どうしても真夏の前では素直になれない。
ただ、あの超人的な戦いぶりを見せられて、ようやく気づいたことがある。
「俺っていつも、こんなゴリラに突っかかってたのか……」
「彼方くんを背負ってなかったら、後ろから蹴り落としてるんだけど」
不機嫌そうな言葉の割には、その声はどこかやさしい。真夏という娘は、いつもそうだった。ケンカ友達で、言い争いになる度に、いろんなことで勝負しては、いつも火惟が負けていて……だけど、そんなふうに張り合っているときでさえ、真夏は明るく元気でやさしくて――とても綺麗だった。
(彼方、お前の言うとおり、こいつには勝てそうにないな)
苦笑を浮かべ、胸の裡で背中の親友に囁きかける。
(けど、かっこわりいよな。惚れた女より弱いなんてさ)
いずれ、彼方が元気になったら、ちゃんと真夏にも礼を言おう。
心に誓って火惟は歩きにくい山道を下っていく。意識を失った親友の身体は重たく、足場の悪さもあって、かなりの重労働だったが、火惟は弱音を吐くことなく歩き続けた。
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