第3話 届かない言葉

 少女は闇の中に囚われていた。

 時間の感覚などとうになく、それどころか身体の一切の感覚が消えていた。なにも見えず、なにも匂わず、なにも聞こえない。

 それでも少女が自分の生を信じられたのは、皮肉にも冷たい闇から感じる悪意と殺意ゆえだった。

 五感が喪失しているにも関わらず、不思議とその闇の存在だけははっきりと感じられる。

 それが殺意を向けてきている以上、自分はまだ生きているはずだ。

 少女はそこに一縷の望みを見出していたが、闇の力はゆっくりと、だが確実に彼女という存在を侵蝕している。

 それでも少女は運命に抗うかのように希望を抱き続けた。


(――助けは必ず来る)


 強く心に念じながらも、脳裏に思い描くのは家族の姿でも、ボーイフレンドの顔でもない。それどころか法の番人たる警察官でもなかった。彼らではダメだ。むしろ彼らはここに来てはいけない。来れば、この闇は容赦なく彼らの命も奪うだろう。ここにある悪は、おそらくこの世のものではないのだから。

 ならば、それに対抗できるのは、やはりこの世ならざる力を持つ存在のはずだ。

 弱者を守って悪に挑み、それを容赦なく駆逐する者たち。誰もがその名を知りながらも、実在を信じようとする者は、ほとんどいないという幻想の存在。


 即ち――『正義の味方』だ。


 少女はその実在を幼い頃から信じていた。自分がそれになることさえ夢見てきたのだ。

 歳を一つ取るごとに冷ややかな現実が見えてきても、その想いだけは手放さなかった。

 もし仮に今はまだ存在していなくても、いずれ世界に姿を現すはずだ。頑なに信じて、その想いとともに生きてきた。その信念を今さら覆せるはずもない。

 第一、今ここで少女を殺そうとしているのは、現実には存在しないとされてきた超常の存在だ。このような悪が実在している以上、その対極である正義の味方も存在して然るべきだ。

 子供染みた願望だとしても、その想いが少女に闇と戦う力を与えてくれていた。

 しかし――それも限界が近づきつつある。

 いつしか意識が霞みはじめ、自分という存在が希薄になりはじめていることに気づく。


(もう、ダメなんだ……)


 諦観が少女の心に穴を穿ち、それにつけ込むように闇の侵蝕が加速していく。


(結局、わたしは殺されるんだ……)


 その認識は底なしの恐怖を少女にもたらしたが、それでも発狂しなかったのは、皮肉にも体の感覚を喪失していたからかもしれない。縮こまる手足も、泡立つ肌も、早鐘を打つ心臓も、ここには存在していないのだ。

 だが身じろぎひとつできず、泣き叫ぶこともできず、自らが死にゆく中でなお正気を保っているというのは、あるいは最悪の拷問だったかもしれない。

 どこか遠くで、家族が、友だちが、大好きな彼が、悲しげに自分を見つめているような気がする。走馬燈にも似たそれが、間近に迫った死の影をはっきりと感じさせた。

 少女は泣きたい気持ちで残酷な運命を静かに受け入れる。


(正義の味方は、間に合わなかった……)


 それでもなお実在は疑わない。正義の味方とて、神ならぬ身では、すべての人間を救うことはできない。それはやむを得ぬことだろう。

 愛すべき人々に心の中で別れを告げ、少女は最後に一つだけ意地を張った。

 自らを蝕む闇に向かって声なき声を上げて力の限り叫んでみせたのだ。


(正義の味方は、いつか必ず、ここに来る! あんたを倒しに現れる! 覚えてなさいバケモノ! その時があんたの最期よ!)


 その叫びを最後に少女の意識は完全に闇に呑まれ、その命の火は誰にも知られることなく静かに消えた。

 少女の最後の言葉は、結局自分以外の誰にも届かなかった。

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