第29話「目覚め」
音声作品の世界で凜夜と戯れていた七海。
再びフワフワした空間に戻ってきた。
どうやら夢を見ていたらしい。
今度は意識がはっきりしている。
こんなところにいる場合ではない。生きなければ。
(あ……)
謎の空間の底に光が差し込んできた。
どういう仕組みか分からないが、意志を強く持つことで浮かび上がることができる。
(浮かぶだけじゃない。今のあたしは飛べる――!)
凜夜から与えてもらった勇気を胸に、光の差す方向へと一気に飛び上がっていく。
「七海さん……」
声が聞こえる。
川のせせらぎを思わせる美声。
七海を呼ぶための声。
愛しい声に導かれ、光の向こう側に突き進む。
奮い立った七海は、強く目を見開いた。
視界に入ってきたのは、自室とは違う天井だった。
(あたし、どうしたんだっけ? そうだ! 刺されたんだ!)
重傷を負って気絶し、夢を見ていた。
その夢の中で生きる希望を取り戻したのだ。
強い痛みはない。傷口は塞がったのだろうか。
おそらく、ここは病院で、治療を受けた上でベッドに寝かされていたのだと思われる。
自分ではケガの具合が分からないので、おそるおそる身を起こす。
「七海さん!」
ベッドの傍らに座っていた凜夜が立ち上がって、七海に向かって身を乗り出してきた。
「凜夜君……。よかった、無事だったんだね」
狙われていたのは凜夜だ。彼が生きていてくれて、心から安堵する。
「危なかったのは七海さんだけだよ……。本当に……もう助からないんじゃないかって……」
凜夜は涙ぐんでいる。その姿は、まるで小動物のようだ。
普段すましている分、感情を露わにするとギャップがあって非常にかわいらしい。
涙は初めて見るだけに、なおさら。
「助からない――って、あたしのケガ、そんなひどかったの?」
喉元過ぎれば何とやらで、深刻な状況だったことの実感がなくなっている。
「七海さん、三日も眠り続けてたんだよ。お医者さんも『目を覚ます保証はない』って言ってて……」
「三日!? そんなに!?」
夢を見ていた時の感覚からすると、半日も経っていないように思えたが、夢と現実では時間の流れは違うのか。
それだけ目を覚まさない状態が続いていたともなると、その間の凜夜の胸中は想像するに難くない。
「ごめんね、心配かけて。でも、あたし、元気だけはあるから」
現に医師から、助かるとは限らないという診断を受けていた以上説得力はないのだが、なんとか凜夜に安心してもらいたい。
「七海さんのことだから、僕のために無理してるのかもしれないし、ちゃんとお医者さんに見てもらうよ」
そう言って凜夜は駆けていった。
ほどなくやってきた医師は驚いた様子だった。
「あの状態からよく回復したものだ。強い気力を持っているようだね」
強い気力と聞いて、それが自分一人によるものではないと思い出す。
「凜夜君のおかげだよ。今までずっと凜夜君があたしを癒して、力をくれてたから……」
七海は凜夜へと視線を送る。
「七海さん……」
音声作品は七海の人生を変えた。それだけでなく、命まで救ってくれたのだ。
七海が目覚めたことを喜んでくれていた凜夜だが、その表情は再び曇る。
「ごめん、七海さん……」
「へっ?」
謝られる理由に心当たりがなかったので間抜けな声が出た。
「僕がうかつに恋人の話なんてしたから……。まさかあんなことする人がいるなんて考えもしなくて……」
どうやら、七海が持っているような罪悪感を凜夜も抱えているようだった。
「凜夜君のせいじゃないよ! あたしだって凜夜君と付き合ってること自慢したかったぐらいだし!」
凜夜の許可が下りればSNSでつぶやこうかとも思っていたところだ。凜夜が生放送で話題にしてくれたのはうれしかった。
「むしろ、あたしなんかと付き合ったせいで凜夜君が狙われて……。刺されたのがあたしで、まだよかったよ」
恋人が倒れたことで凜夜の方も気が気でなかっただろうが、彼自身が刺されていたら、それこそ七海の誇りは完膚なきまでに踏みにじられることになっていた。
「七海さんはすごいね。とっさにあんな風に動けるなんて」
凜夜は『自分にはできない』と自嘲するように言う。
「あたしに誰かを守ることを教えてくれたのは凜夜君だよ」
七海には他人の心をそこまで成長させる力はない。
それぞれが自分にできることをしたまでだ。
しばらく、互いに謝り合い、称え合うようなやり取りをしていると、連絡を受けた七海の両親が病室にやってきた。幼馴染の和也も一緒だ。
「七海! 目が覚めたのね!」
「よかった……本当に……」
母も父も心底喜んでくれている。
実の子が生死の境をさまよっていたのだから、最も長い三日間だったことだろう。
「ったく、心配させんじゃねーよ」
和也も、口は悪いが本当に心配してくれていたに違いない。
周りの人たちの反応から、自分がどれだけの重傷を負っていたのか推し量れる。
お腹の辺りを触ってみたところ、表面の傷は縫い合わせてあるが、なんとなく気持ち悪さはあった。ナイフの刃がここには入り込んでいたと考えると少し恐ろしい。
「凜夜君も七海のそばにいてくれてありがとうね。学校も休んでたんでしょ?」
母の話で初めて知ったが、凜夜は七海が眠っている間、付きっきりで看護してくれていたそうだ。意識がなかったのが惜しまれる。
「そもそも七海さんは僕をかばって刺されたんですし……。本当に申し訳ないことを……」
凜夜は七海の両親に深々と頭を下げる。
それに対し、二人は柔らかい表情を見せた。
「七海が自分の意志でやったことだ。いざという時に七海が勇気を出せたことを父親として誇りに思うよ」
父にこんなことを言われると妙にこそばゆい。
照れくさくて視線を落とすと、自分の服装が病衣に変わっていることに気付いた。
元の服は血がべっとりとついているので、そのままにしておく訳はないのだが。
「この服、誰が着替えさせてくれたの?」
「ああ。僕だけど」
やはりずっと看てくれていた凜夜だったか。
「そ、そうなんだ。なんか恥ずかしいね」
もう恋人なので見るのも見られるのも問題ないはずだが、凜夜に対する憧れもあってか、そこまでの関係になった感覚がない。
「命に関わる状態だったから、こっちはそれどころじゃなかったけどね」
もっともな話だ。自分は目を覚ましてから知ったから恥ずかしいだけで、眠り続けている七海を着替えさせている時の凜夜の感情としては不安が大きく勝っていたことだろう。
「平和な時だとしても、こいつの裸になんてなんも感じないだろ」
七海が助かったと分かって、和也は憎まれ口を叩き始めた。
七海もまた反撃する。
「あたしだって和也の裸なんて見てもなんとも思わないよ。あたしが興奮するのは凜夜君の裸だけだから」
「ちょっ、七海さん……!」
さすがに大胆すぎる発言だったか。今度は凜夜が恥ずかしそうにしている。
こういうことをバカ正直に言ってしまうのが七海の悪い癖だ。
「どうやら元気になっているようだね」
医師に笑われてしまった。
自分はともかく凜夜に恥をかかせてはいけないので自重しなければ。
と、そこで笑ってばかりもいられないことを思い出した。
「そういえば犯人は!?」
大声を出したら頭がクラッとした。つい先ほどまで死にかけていただけに、まだ安静にしている必要があるようだ。
「大丈夫? 七海さん」
凜夜に促されてベッドで横になる。
「大丈夫大丈夫。それより事件は……」
七海を刺した犯人は、その後逃走したが、今でも凜夜を狙っているとしたら危険だ。
「ああ。それならもう逮捕されてるよ」
事件後の経過は父が教えてくれた。
犯人は割り出した凜夜の住所を他の者と共有したりはしていないとのこと。
情報が拡散されていれば、引っ越しや転校も考えなければならないところだったので一安心ではある。
警察の取り調べに対して『好きな人と一緒に死にたかった』『実際に人が血を流しているのを見て怖くなって逃げた』などと供述しているらしい。
刺す前に想像力を働かせて思い止まってほしいものだ。
(まったく、とんでもないヤツだったな……。住所特定してまで会いにくるなんて……)
人をナイフで刺すという行為にせよ、細切れの情報を集めて住所を割り出す技術にせよ正気の沙汰ではない。
ここで、ふと。
(……って、あたしも……同じ……?)
気付いたら身体が震えた。
自分もあの危険人物の同類なのではないかと。
犯罪に手を染めてまで住所を突き止めるというのは七海もやったことだ。
違うのは、直接会った凜夜に何をするか。
この違いを凜夜にだけは分かってもらわなければならない。
「あたしを狙うならともかく、凜夜君を襲うようなヤツはファンじゃないよ」
そうだ。凜夜のファンならば、最初から七海の方を狙うべきなのだ。
「七海さん?」
目を丸くする凜夜に、七海は再び身を起こして懇願する。
「出会っていきなり告白なんてしたあたしが言っても説得力ないかもしれないけど……ファンはみんな凜夜君を傷つけたいなんて思ってない、幸せになってほしいって思ってる。だから、ファンのことを嫌いにならないで……!」
必死に訴える七海を見て凜夜は笑みをこぼした。
「分かってるよ。あの時の人と七海さんは根本的に違う。会ったばかりの頃の僕なんて冷たかったのに、それでも七海さんは僕を傷つけるようなことを一つもしなかった。これからも七海みたいな純粋なファンのために活動し続けるよ」
凜夜は七海の気持ちを汲んでくれた。
「ありがとう……」
これからも凜夜の声が聞ける。七海は心から感謝した。
(とはいっても、なにか手を打たないとな……。また同じようなことがあったらまずいし……)
そこで、凜夜と親しくしていても嫌悪されていなかった人の存在に思い至った。
ゲーム実況でコラボしていたなつきだ。
彼女が凜夜と仲良くしていても、七海自身不思議と嫌な気分にならなかった。
なつきは、学生時代に付き合っていたというネタのあとに『りんちゃんのファンに殺される』などと言っていたが、実際のところ彼女が相手であれば反感は少なかっただろう。
声優仲間だけが『りんちゃん』という愛称を使えるという暗黙の了解もある。
つまり七海もリスナーに認めてもらえばいい。
「あたしも配信者になる!」
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