第28話「癒しの声」

「すっかり顔色も良くなったね」

 清水心療内科。

 清水医師も凜夜の顔を見て安心した様子。

 凜夜を介して七海に恩を返せたことがうれしいのだろう。

「おっちゃん、聞いて聞いて。あたし凜夜君の恋人になれたんだよ。すごいでしょ」

 引き続き、七海は凜夜の通院に同伴している。

 調子を取り戻したといっても、道すがらなにかあってはまずい。恋人として当然の責務だ。

「『なれた』ってことは、最初会った時は違ったのかい?」

「お試し期間があったから。おっちゃんのおかげで凜夜君が元気になって、しかもあたしと付き合ってくれることになったから、あたしもすごく感謝してるよ」

「僕の方からも、改めてお礼を言わせてください。何から何までお世話になって――」

 凜夜も清水医師への謝意を示す。

 三人共がそれぞれ他の二人の存在をありがたく思っている。この出会いは全員にとって僥倖と呼ぶべきものだった。

「薬の処方は前回と同じでいいかな?」

「はい。問題なく声が出せるようになっているので大丈夫だと思います」

 凜夜にとっては、声優活動ができるかどうかが体調の評価基準になっているようだ。


 病院の帰り。凜夜の住むマンションまで付き添ってきた。

 日は傾き始めている。

「母さんがいなかったら上がっていってもらってもいいんだけど、いたら面倒だしなぁ」

「んー。凜夜君のお母さんにもごあいさつしないとだし、覚悟決めて会ってみたい気もするけど」

「関係の説明をどうするか慎重に考えた方がいいと思うよ。僕以外に対しては気難しい人だから」

「そっか。あー、でもまた凜夜君の部屋に入りたいなー」

 オートロックの扉の前で別れを惜しむ二人。

 すぐ学校で顔を合わせるのだが、お互い、常にそばにいたい気持ちになっているのだ。

「りん……や……くん……」

 七海たちの気分の明るさとは裏腹に暗い声が聞こえてきた。

 その方向を見ると、長い髪で顔が半分ほど隠れた女の姿が。

(ん? なに、あの変な女)

 凜夜の名前を呼んだようだったが、知り合いだろうか。

 それにしては挙動がおかしい。

 不審に感じていると、その女はいきなり凜夜目がけて突進してきた。

「……! 凜夜君!」

 七海はとっさに二人の間に割って入る。

 体当たりを食らった七海は腹に走った激痛から危険に気付き、相手の女を思いきり殴り飛ばす。

 長らくこんな暴力は振るってこなかった。それだけの異常事態だ。

 女は立ち上がったが、臆した様子で逃げ去っていった。

 一体、なんだったのか。

(……!)

 七海の目に、工事中のマークが映り、生放送でのコメントが脳裏に蘇る。

『近くで工事してるマンションを総当たりだ!』

 冗談として受け取っていた言葉。

 だが、これは。

(住所を……特定された……!?)

 状況を理解してゾッとした。

 今のは凜夜に恋人ができたと知って、嫉妬に狂ったファンだ。

 おそらく、生放送の中に出てきた話題の数々、SNSにアップされた写真、細かな情報を集積して凜夜の住所を割り出したのだ。

 そんなことが可能だとは信じがたい部分もある。しかし、世の中にはとんでもない技術や執念を持った人間がいるものだ。

 凜夜の容姿は、動画サイトで表示しているキャラクターとよく似ている。

 さらに今、七海ははっきり呼んでしまった。『凜夜君』と。

(あたしの……せい……?)

 タイミングからすると、恋愛事が無関係とは考えられない。

 自分の存在のために凜夜が襲われることになったのだ。

 七海はガクンと体勢を崩して膝を突いた。

 精神的なショックだけでそうなったのではない。

 視線を下げると、腹にナイフが刺さっている。Tシャツは赤く染まり、血がドクドクと流れ出している。

 あの女は、凜夜が他の女のものになるぐらいなら、と心中するつもりだったに違いない。

 心中を目的としていたなら凶器を持っているのは当然だ。

「七海さん!!」

 悲痛なさけびを上げた凜夜は、急いで電話をかける、

「救急車をお願いします! 場所は――」

 救急車を待つ間、七海はなにもできずにいた。

(なに……これ……。痛い……。血、止まらない……)

 服だけでなく、地面まで真っ赤に染まっていく。

 七海の脳内は苦しみと恐怖に満たされていた。

 ただのケンカでは味わったことのない痛み。身体から血液が抜けていく不快感。

「七海さん! 今、救急車呼んだから!」

 凜夜を安心させなければ。立ち上がりたいのに力が入らない。

 平気だと伝えることもできず、七海は倒れ込んでしまう。


(あれ……? あたしどうしたんだろう……?)

 気がつくと七海はフワフワとした感覚のする空間を漂っていた。

 どういう場所なのかは分からない。

 足場はなく、ゆっくり落ちていっている気がする。

 そんなことより重要なのは――。

(あたしのせいだ……。あたしのせいで凜夜君が……)

 つい先ほど、凜夜は殺されてもおかしくないところだった。

 あのナイフは凜夜を刺すために用意されたものだ。

 誰よりも愛していた、一生かけて幸せにすると誓ったはずの人を自分のせいで死なせてしまうところだったのだ。

(あたし……死んだのかな……? ああ……これから死ぬのか。身の程を弁えなかったからバチが当たったんだ)

 普通、ファンと声優は付き合わない。大半の者がその関係に納得している。

 一時的にでも恋人として過ごせたのは、すべてのファンがうらやむ幸福だ。

 十分夢は見させてもらった。恋人が死ねば、もう嫉妬するファンもいなくなる。

 このまま目を閉じれば、苦しいことも悲しいこともない永遠の安らぎが待っている。

 不思議な空間の底へと沈んでいくことに抵抗はなかった。


 どこまで沈んだのだろう。完全な死を迎えるには案外時間がかかるようだ。

(あたしが死んで、凜夜君悲しむかな……? でも、ちゃんとしたファンの人たちが支えてくれるから大丈夫だよね。お父さんもお母さんも、凜夜君を逆恨みしたりはしないだろうし。和也は……まあ適当に立ち直るかな)

 残される人たちのことをぼんやり考えていると、頭上から涼やかな声が降ってきた。

「姉さん、聞いてる?」

 繰り返し聞いてきた最愛の声だ。

「凜夜……君……?」

 凜夜が上からこちらの顔を見下ろしている。

 膝枕で寝かせてもらっている状態だ。

 二人共、何やら和服のような格好をしている。部屋の内装も古めかしい。

「姉さん、無茶ばっかりするんだから。報酬が多いからって一人で野盗退治にいくなんてさ。心配するこっちの身にもなってよ」

 わずかに怒っているようだが、優しさがにじみ出ている声色。

 言われてみれば、身体の随所に包帯が巻かれている。

 ただ、深く刺されたような傷はない。

 記憶にはないが、野盗と戦って負った傷なのか。

「ごめんごめん。でも、凜夜君においしいもの食べてほしくて」

 なんとなく覚えのあるようなやり取り。

 自分が言った『おいしいものを食べさせる』というのは食材を入手するということで、調理は凜夜に任せることになっていたはず。

 目にするものは、前に見たことがあるようなないような、奇妙な感覚。

 まるで、直接は見ていないが人づてにどんな風景だったかを聞かされたかのようだ。

「姉さんは優しいね。いつも僕のことばかり考えてくれて」

「そんなの当たり前だよ! あたしは凜夜君の彼女なんだから」

 着物姿の凜夜はきょとんとしたが、すぐに柔らかい笑みを浮かべた。

「そうか。もうただの姉弟じゃなくて恋人でもあるんだよね」

「そういえば、凜夜君はなんであたしのこと好きになってくれたの?」

 答えを知っているようにも思えるが、口が勝手に動いて質問を投げかける。

「今さら? ずっと前から好きだったよ。僕らが小さかった頃、獣に襲われた時に姉さん身体を張って僕のこと守ってくれたでしょ? 血まみれになってるのに、僕が無事だからって笑ってて。こんなに自分を大切にしてくれる人がいるのに、姉弟だからって好きにならない訳ないじゃない」

 記憶が鮮明になってきた。これはお気に入りの音声作品の世界だ。

 特に気に入っていたものの続編ということで、期待していたし、期待通りになっていた。

 何時代かは明言されていないが、人々が刀を持って戦っている設定。

 一作目の時点では現代の話と見せかけておいて実は――という、音声だけであることを利用したミスリードだ。

 主人公と凜夜は姉弟だが、互いに肉親として以上の想いを寄せ合っていて、主人公は凜夜を守るために刀を振るっていた。

 今の目標は武功を上げて凜夜に貴族のような暮らしをさせてあげること。

「そっか。あたしも身の回りのこととか凜夜君にお世話してもらえて幸せだよ。こんなに献身的に尽くしてくれる人がいて、好きにならない訳ないよね」

 流れるように言葉が出てくる。

 元々音声作品の主人公にはセリフがないのだが、何度も聞いている中でイメージを膨らませて自分で作っていったのだった。

 既に存在しているが、他人ではなく自分自身のセリフ。道理で口が勝手に動く訳だ。

 戦いは主人公――七海――の役目だが、凜夜は凜夜で、料理も作ってくれるし、朝起こしてくれるし、傷の手当てもしてくれるし、耳掃除までして甘やかしてくれている。

 凜夜を恋人にできたことは、七海にとって何よりの幸福であり、誇りでもある。

「ふふっ。姉弟で付き合ってるなんて世間に知られたらどう思われるか分からないけど、他の人たちのことなんてどうでもいいよね」

「うん。どんなことがあっても、あたしが守ってあげるから、凜夜君は一生あたしから離れないでね」

 そうだ。自分が凜夜を守るのだ。それはどんな時代でも変わらない。

 凜夜の声が次々に脳内で再生される。

『姉さん、頼りにしてるからね』

『君が帰ってきた時に耳掃除してあげるのは僕の役目だよ』

『お疲れになったら、いつでも当店をご利用になってください』

『あなたは必ず夢を叶えられます』

『僕は君のことが好き!』

 今までに聞き続けてきた音声作品に力づけられ、そして気付いた。

 凜夜の幸せのために身を引くのではない。そばで守り、一緒に幸せになることが自分の使命だ。

 身体に傷を負おうが、心に傷を負おうが、すべて凜夜が癒してくれる。

 あの世になど行かなくても、凜夜さえいてくれれば安らぎを得られる。

 覚悟は決まった。

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