第26話「お宅訪問」

 休日。

 七海は試験勉強のために凜夜の住んでいるマンションを訪れた。

 病院の送り迎えのために何度か来ているのだが、今日はその時と訳が違う。

 入口前に着いた七海は凜夜にメッセージを送る。

 少し待つと、凜夜が下りてきてくれた。

 ここまでは変わらない。違うのはこの先だ。

「り、凜夜君。この度はご招待いただきまして、誠にありがとうございま――」

「固いよ。普通でいいから、ついてきて」

 凜夜に導かれてオートロックの扉をくぐる。

 いよいよ聖域に踏み込む時が来たのだ。

(やっぱり高級感あるなぁ……)

 外気と接しない内廊下となっておりロビーもある、ホテルのような造り。

 買ったのは親だろうが、凜夜が暮らすにふさわしいところだ。

「お、お邪魔します」

「はい。いらっしゃい」

 玄関を通ったあと、凜夜は自身と七海の靴を揃えて、かなり端の方に移動させた。

(あ、靴揃えた方がよかったな……)

 しょうもないミスをしてしまった。無駄にかしこまっていたが礼儀作法は身についていない。

 パッと見ではどこにあるのか分からない、下駄箱――飾り棚となっている――の下辺りに寄せたのは、単なる癖か、あるいはそれが正しい揃え方なのだろうか。七海の知識では判断のしようがないし、今さらしても仕方ない。

 厳密にいえば、七海が自分で下座に置くのが筋だが。

 それから、凜夜の部屋まで案内される。

 彼の部屋は、本人の清廉なイメージと合致するように、余計な物がなく片付いていた。

 机にパソコンがあるのは七海の部屋と同じだが、その横にマイクが置かれている。雑談配信などで使っているものだろう。

 ベッドの上には、ぬいぐるみが一つ。七海がプレゼントしたものだ。

(あの凜夜君の恋人になって、部屋にも入れてもらえるなんて夢みたいだなぁ)

 七海が感慨に浸っていると、凜夜に声をかけられた。

「そういえばリクエストって決まった? そろそろ僕からも七海さんになにかあげられたらと思うんだけど」

 どうやら凜夜にしてみれば、一方的に助けてもらっただけという認識のようだ。

 七海は凜夜からの好感度が上がっただけでも十分うれしかったが、客観的に見ると凜夜の認識が正しいか。

「んー、そうだなぁ。最初はつれなかった男の子がどんどん優しくなっていくとか――」

 まんま自分たちの関係をイメージした設定だ。

「リスナーへの接し方が変わっていく……か。一本の音声作品の中ではやりにくいかな……? いや、できなくはないか」

 凜夜が考え込む一方で、七海はすごいことに気付いた。

「今、七海って呼んでくれた!?」

「うん? 呼んだけど」

 何事もなかったかのようにしている凜夜だが、七海にとっては大事件だ。

「ついに……ついに、凜夜君があたしのこと名前で……」

 感慨深さがさらに増していく。

「恋人だからね。そのぐらいは」

「ありがとう! 凜夜君!」

「大げさだね。でもまあ、そこが七海さんのいいところか」

 そう言って微笑してくれる凜夜。

 この笑顔が見られるなら、いくらでも大げさにしよう。

「いつまでも立ってるのもなんだし、座って。座布団用意するから」

 凜夜がいったん自室を出て居間に向かう。

 その間、七海の目を引いていたのは、電話ボックスのような形状をした簡易的な防音室だった。整然とした部屋の中で若干浮いているようにも見える。

「どうしたの?」

 座布団二枚を脇に抱えて戻ってきた凜夜。

「ああ。これって防音室だよね? ちょっと中見てみたいなーって」

「いいよ。特になにもないんだけどね」

 学習机とは別で置かれていた低いテーブルの前に座布団を敷いて、凜夜は防音室のドアを開く。

「へえ、こんな感じなんだ」

 狭い空間に最低限のサイズの机と椅子が設置されている。

 当然音の出るエアコンなどはないので、夏場は熱がこもるだろう。

「収録の時は、ここにパソコンとマイクを移動させてくる訳」

 凜夜は防音室内の机をポンポンと叩く。

「そっかー。いつも凜夜君はここで……」

 いつも聞いている音声作品が収録されている現場を見ることができて感動していると、玄関の扉が開く音が聞こえた。

「あっ、まずい」

 何がまずいのか聞くより早く、凜夜は七海の腕を引っ張って防音室のドアを閉める。

 突然二人は窮屈な空間で密着することとなった。

「ただいま」

 室外から、大人の女性の声が聞こえてくる。

「ど、どうしたの? この声、凜夜君のお母さん?」

 あまりのことに混乱する七海。

 今まで接してきたのとはまた違う、身体の色々な部分が触れ合う感覚は、七海の鼓動を急激に速くさせた。

「うん。母さん、僕が女の人といると不機嫌になるから。ちょっとだけ我慢して」

 下手な女子よりはるかに美しく白い肌と華奢な体躯。

 凜夜の吐息が直接首筋にかかって電撃が走るような快感を覚える。

 なにか違う意味で我慢ができなくなりそうだ。

「凜夜、防音室?」

「うん。これから収録するからしばらく近づかないで」

「分かったわ。学校の勉強も忘れないようにね」

 凜夜の母親の足音が遠ざかっていく。

 それを確認した凜夜はドアを開く。

 ほんの短い時間だったが、至近距離に凜夜の存在を感じて、七海は煩悩を湧き起らせてしまった。

(凜夜君の身体……あったかくて、すごいよかった……)

 パソコンのモニター越しでは味わえない体験だ。

 脳内でも『すごい』しか感想が出てこない辺りに語彙の貧困さが表われているが、それはこの際どうでもいい。

「凜夜君のお母さんって、そんなに女の人に厳しいの?」

「僕のそばにいる人には」

 それで七海の靴を目につきにくいところへ動かしたのか。

「でも、凜夜君には優しそうだったね」

 声だけでも分かる。伊達に音声作品で耳を肥やしてはいない。

「僕にはね。その代わり僕と接する女の人には親戚でも厳しいからちょっと困るんだけど」

 苦笑する凜夜。

「まー、子供がこんなにかわいかったら神経質にもなるよ。許してあげよう」

 というより、自分が彼の母親に交際を許してもらわなければならない。

「七海さんのご両親はどうなの?」

「うちは、彼氏できたって言ったら喜んでくれたよ。歓迎するから、いつか連れてこいって」

 写真を見せた時などは、あまりの美形っぷりから妄想ではないかと疑われたものだ。

「歓迎って反語的な意味じゃなくて?」

「違う違う。ホントに歓迎するんだよ。うちの親はあたしに一生恋人ができないんじゃないかって心配してたぐらいだから。お父さんなんて『もらい手さえあるならどこの嫁に行ってもいいぞ』って言ってたし」

 恋人の家にあいさつをしにいく時に苦労する男性は多いようだが、東山家に限っては気負わなくて大丈夫だ。

「七海さんの家庭もなんだか楽しそうだね」

 いつまでもしゃべっている訳にもいかないので、勉強を始めることに。

 対面ではなく、肩が触れそうな距離で横に並び、七海の参考書を見てもらう。

 やる気は出る反面、この状況で勉強に集中できるかは疑問だ。

 まずは数学から。

「これってどの公式使うの?」

「公式覚えるのも大事だけど、先に問題の意味を理解しないと。テスト本番では応用を求められるんだし」

 凜夜は、それぞれの問題でなぜその公式が成り立つのかまで丁寧に教えてくれた。

「なんか理屈が分かったら公式も覚えられた気がする!」

「みんな、とっかかりもなくいきなり丸暗記しようとするから覚えられないんだよね。理屈を考えた経験があれば簡単には忘れないよ」

 次は現代国語。

「逆に漢字は覚えるしかないね。その字が指してるものを『へん』や『つくり』と関連付けてみて。りっしんべんの漢字は心に関するものを指してるでしょ?」

「なるほどー」

 続く国語の文章読解でつまずいた。

「なんか知らない言葉がたくさん出てくる……」

 褒め言葉を探して『すごい』しか思い浮かばないぐらいなので、こうなるのも必然か。

「七海さんって漫画家志望じゃなかったっけ? 小説家じゃないにしても、作家だったら声優に語彙力で負けてるようじゃダメなんじゃない?」

「声優さんも語彙力あるんじゃ?」

 台本を読んでいたら自然と色々な語句を目にすることだろう。

「まあ、本来はそうあるべきなんだけどね……。全然言葉を知らない声優も多いよ」

「あー、そういえば言葉遣いおかしい声優さんもいるか。じゃあ、凜夜君は声優の中でもインテリってことだね」

 なんだかんだと言いつつ、試験範囲を大まかにおさらいした。

 勉強を終え、母親に見つからないようタイミングを見計らいながら外へ出る。

「今度は七海さんの家にも呼んでね」

「うん! お父さんもお母さんも実物見たらびっくりするから」

 凜夜に見送られながら家路につく。

 凜夜を前にした時の両親の反応が楽しみだ。


 その後の中間試験で赤点は一つもなかった。追試を受けなくていいので、これなら凜夜と遊びにいける。

 凜夜の体調は良くなり、彼と正式な恋人にもなれた。七海は今、幸せの絶頂にいるのだった。

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