第2話 人には言えない過去のある彼くん
クラウスはアルテマイト公爵家の執事にして令嬢リリーナの専属従者である。
姓はない。
どこで生れたかとんと見当がつかぬ。どうにも薄暗いじめじめした所で泣いていた事くらいは記憶している。
まぁ、孤児として生まれ孤児院で育った平民でしかなく、どこで生まれたかとんとわからぬ。
ここまではどこにでもありふれた話である。
しかし、クラウスには人に言えない秘密があった。
伝説の勇者――ではなく、現代に甦った魔王――でもない。
ちょっとばかり前世の記憶がある、あとはどこにでもいる青年だ。
「少し息抜きに酒場へ行ってきます」
「ああ、ご苦労様」
平民の服に着替えた同僚に告げて屋敷を出る。
いつも真面目に働く彼が酒場へ?などとは誰にも思われない。
真面目に働きつつ、人ときちんとコミュニケーションを取れるから行動も信頼されているのである。
優秀なだけで人間味のない堅物とは思われていないのだ。
「さて……」
普段は公爵家に住み込みで勤めている彼も、たまの夜には街へ繰り出す。
入ったのはガラが悪くもなければ高級でもない、中程度の酒場だった。
「よう、お疲れか?」
カウンターに座ったところで横合いから声がかかった。
クラウスがそっと視線を向けると、赤毛に緑色の瞳を持った男が酒を片手にこちらを向いている。
酒を飲んでいるだけだが、動きにいちいち隙がない。
兵士とかそういった職業の者特有の気配だった。
「ぼちぼちだよ、ランベルト」
荒事慣れしているであろう相手を前にしても、クラウスはいつもの調子で淡々と返すと自分の酒を注文する。
名前を呼んだことからもわかるように、顔馴染みなのだ。
「ふぅん、来る時間が普段より早いから何かあったのかと思ったんだが」
「……そういうところは鋭いな」
クラウスの眉が小さく動いた。
「おいおい、付き合いが長いだろう?」
先にエールを飲んでいた男――ランベルトが歯を見せて笑う。野性味はあるが人好きのする笑みだった。
「――今日は仕事の話がある。個室は空いているかい?」
少し考えたクラウスは、カウンターの向こうで酒を用意してたマスターに声をかけ、追加の料金を置いて場所を移してもらう。
初めてではないので向こうもふたつ返事だ。上客なので詮索もしない。
「で、どうしたんだ?」
酒と料理が運ばれた上で個室の扉を閉めると、空気の流れを操る魔道具を使って声が外に漏れないようにする。
これは世に出回っていない試作品で、存在さえ限られた人間しか知らないものだ。
「シナリオに入った」
「……そうか」
わずかに眉を寄せた青年はエールを飲み干した。しらばく部屋に沈黙が流れる。
「おまえとこの世界に来た――いや、ゲームの世界だとわかった時はずいぶん困惑したもんだが……」
「昔話はいい」
クラウスはそっと止めた。
余計な、誰にも漏らせない情報は酒場で話すものではない。
「レーヴライン男爵令嬢エルゼ、この娘の動きが気になる。少しそちらで調べてくれないか」
「ああ、主人公か……。しかし、あれこれ調べるのはそちらの方が得意だろう? “元カンパニー”さんよ」
からかうようなランベルトの言葉に、クラウスは「やれやれ」と鼻を鳴らす。
「そうかもしれないが、前以上に屋敷を、いや、お嬢様の下を離れられない」
理由は色々とあるが、お嬢様の安全より優先すべきことではないのだ。
それこそがこの国の生命線なのだから。
「ああ、専属の従者になったんだったな。学園へ通うのにも付き合うのか」
「そうだ、おまえが騎士団長になったみたいに、これも“作戦”のうちだ」
「作戦、ねぇ……。たしかに、俺は俺で備えていたが」
ランベルトは同じ孤児院の出ながら、養子を探していた武門の貴族マルトリッツ伯爵に跡継ぎ候補として迎えられている。
伯爵家は公爵家と領地が隣接しているだけでなく当主同士の仲がいい。
「例のブツも図面化して、生産準備も整えている。ドワーフってのは
彼はすでに次期当主として配下の囲い込みも始めている。
“協力者”の中では、ランベルトが現状一番のゲームチェンジャーとも言えた。
「それはいいニュースだ、さすがは元
「悲しいねぇ。まぁ、話し合いで何とかならないのは地球から身に染みているが」
まったくそうは思っていないであろう口調でランベルトは肉詰めを口に放り込んだ。
「ずいぶん危ない橋も渡っただろう。感謝するよ、ブラックバーン少佐殿」
「……懐かしい名前だ。何年ぶりに呼ばれただろう。そっちはどうだ?」
「呼ばれたいとは思わないかな。自分であって自分じゃないみたいだ」
郷愁へわずかに浸り、しばしあれこれと他愛もない話をする。
「……また連絡する。明日も早くから訓練があるんでな」
「ああ、頼むよ若き騎士団長」
ランベルトは先に部屋を出て行った。
一方、クラウスは残った酒をゆっくりと傾けてから屋敷に帰った。
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