ブランケット症候群の頃
スーパーの季節物コーナーにて、「お盆セット」という小さな置き物達を見つけた。和紙で作られた精霊馬、鬼灯、盆提灯のセットで、窓際に置いても邪魔にならない、可愛らしいものだ。亡くした人は曽祖父母くらいだし、亡くなってからしばらく経っており、盆棚を出す習慣もなく、お盆の存在自体忘れかけていた。なんとなく思い出したので、飾ってみようと、買い物かごにそのセットを入れる。夜には、ちょんと飾られた盆棚に手を合わせてからベッドに潜った。
目が覚めると、私は、生まれてから数年を過ごした、古いアパートの玄関前に座っていた。数メートル、私道を挟んで向かいのアパートが並ぶ。昔はこのアスファルトの私道でよく走り回ったものだ、と原風景を辿っているうちに、足元から声がした。
「久しいな。元気にしておったか」
しわがれた、男とも女とも区別の付かぬ声であった。足元を見渡しても、声の主は見当たらない。曽祖父母はこんな声をしていなかったと思われる。首を傾げて、一度立ち上がって地面をよく見つめてから、再びその場に腰掛けた。
「お前さんの、ポケットの中におる」
え、と思わず声を漏らして右のポケットを探る。中からボロボロの、だいたい十センチ四方の薄茶色い布切れが出てきた。
「……ピグ、か?」
「いかにも、私だ」
何割かの幼い子供は、タオルの端をやけに気に入って唇に押し当てたり、その角を小さな歯で弄ぶように噛む時期があるらしい。例に漏れず、その時期が来た私は、優しいピンク色に、黄色いチューリップの描かれた上着の、裾のパイピングされた部分を執拗に齧っていた。寝床だろうが、小さなおでかけだろうが、どこにでも連れて行かれるその上着は、いつしか「ピグ」と名付けられ、私の癇癪や寂しさ、退屈を紛らわしてくれる最高の相棒となった。どこにでも引っ連れて行くものだから、一年後には端がほとんどほつれ、その解け目から服はじりじりと裂けていった。そうして、保育園を卒業する頃には、今目の前にある、十センチ四方しか残っていなかった。見かねた母がこんこんと私を説得し、渋々私は相棒に別れを告げることになったのである。
「ピグ……こんなに小さかったかな」
「お前さんが昼夜問わず引きずり回したおかげでな」
それは悪かったよ、と優しく、感触を思い出すように揉めば、彼はくすぐったそうに、ふふ、と笑ってから、乾いた咳を溢した。
「ずっと長い間、お前さんのことを心配しておった……今は、元気にやっているのか?顔を見るに、眠れていないようだが」
「いや、元気だよ。仕事も楽しいし。眠れていないのは、その……ちょっと病気にかかっただけなんだ」
「そうか……お前さんは昔から、眠るのが下手だった……昼寝もしなけりゃ夜は寝たくないとぐずる。どうせまた、図鑑やら何やら眺めて眠らないんだろう」
そよ風が彼の端を捲り、まるで私を撫でるかのように揺れた。
「ふふ、よく分かるね。そうだよ、読んだり、考えたりする癖が直らなくてね……気に入っていた、恐竜図鑑は捨てちゃったけど」
「なあに、分かるさ。お前さんは、対人関係や、制度への不満を言い出せぬ性分じゃあないだろう。不満や怒りで眠れぬような繊細な人間でも無い。幼い頃に一番近くにいた私に、そんなことが分からないはずがない」
「はは、そうだよね……ピグは、元気?あの頃より、縮んだ気もするけれど」
急にシワが、ピン!と伸びて彼が端をぴこぴこと立てて喋り出す。
「元気だ!こっちも楽しく、やっておる」
「いつも、何しているの?」
「他の衣服達と将棋を……あとは、川柳をよんだり、な」
「いいなあ。楽しそう。これからもお盆には棚を飾るからさ、また来てよ。次までには、将棋のやり方を学んでおくからさ」
「そうだなあ……まあ、お前さんのことだから、世辞に過ぎないだろうが……気長に待ってやろう。あんまりその、人の機嫌を取るために口を使うんじゃあないぞ」
私がピグといた頃は、もう少し素直な正直者だった気がするが、一番近くにいた彼からすれば、そうではないのだろうか。
「お前さん、そろそろ起きる時間だろう。あまり寝すぎるのは……ううん、お前さんは、昔から寝過ごしてテレビを見れなかったりすると、酷い癇癪を起こして、しばらくいじけたものだ。見るに、今も直らないんだろう?眠りたいのに、眠ると損をした気持ちになる。六歳でお前さんと別れてから、それだけが心配だった。休むことは、損でも悪でもないのだと、生命維持に必要なことなのだと、私の口からは、いや、袖からは、伝えられないもんだからな……」
心の奥に根を張った自責の念を掘り起こされる心地だ。薄らと認識していたが、今まで言語化してこなかったこと。私に深く根差した呪縛の核心に手が届きそうな、そんな恐怖であった。なんて返せばいいのだろうか。数ミリ口を開いて、閉じて、唾を飲み込むのを繰り返すしかない。
彼の身体に雫が、とつ、とつ、と降って、濃い色のシミを作った。
「……分かっておる。喋らなくていい。私は、お前さんの生涯の中でも上位に来るほどに、大切にされたと思っている。私は動くことができなかったから何かを返すことはできなかったが、私も、お前さんのことを大切に思っていた。そして今、お前さんの周りにいる人々も、そう思っていることだろう。愛は渡した分だけ返ってくるものだ。そうだな、だから……自分のことを、大切にするんだ。自分のためではなくたっていい。悲しまれると言うことが、いかに引き裂かれる思いのすることか、言葉上だけでも、わかっておいてほしい」
どっどっ、という、地面を叩くような鈍い音が連なって聞こえてきた。何の音だ、と思ってあたりを見渡せば、大きな大きな、和紙でできた茄子の形の精霊馬がこちらにやってくるのが見える。
「……乗っていくの?」
「ああ」
「大きいんじゃあない?」
「私がちっぽけなのだ」
「早いよ、まだお盆は初日だ」
「後がつかえておる」
ピグは体をピ!と伸ばすと、風を読むようにほつれた端をピンと立て、ひゅい、と風に飛び乗って茄子の所まで行ってしまった。
またな、お前さんが盆棚を飾る頃には、そちらへ行く支度をしておこう、と声が聞こえた。茄子の精霊馬は、ぺたっと布切れが張り付いたのを確認すると、ヘタの先をぴるぴると振った。ピグが右の端を上げるのと、茄子が歩き出すのは同時であった。私は立ち上がりもせず、汗を拭って、彼に想いを馳せる。彼も彼で幸せなようだったから、きっといいのだ。来年までに将棋が上手くなるだろうか、とぼんやり考えながら、夢から覚めるべく意識を戻し始めた。
目を覚ました時に、私は布団の端を握り、口元に押し当てていたことに気付いた。
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