ゆうかい


 ここ一ヶ月で、人口の一割が溶けてしまった。

 季節の変わる頃に、奇妙な連続殺人事件が各地で起こったと思ったら、先月、それが人の仕業ではなく、メルトゾンビ・ウイルスのせいだと研究所によって発表された。この病は、罹患者から出た液体を大量に経口摂取することによって感染していく。テレビで注意喚起が始まると、漢字で「融解病」と表記が決まり、先週の頭には、ダムや貯水施設が強引に封鎖され、テレビでは節水を呼びかけるコマーシャルが十分に一回流れる。日常は速やかに狂っていった。

 融解病の進行は、ざっと分けると三段階になる。

 まず、罹ってから症状が出るまでは、およそ一日。テレビでやっていた、融解病の罹患者を持つ人の話では、罹患者は急に意識が途切れたように倒れ込むらしい。その際、誰もが言うのが、膝を抱えて丸くなるように倒れた、ということである。その姿勢のまま、長ければ一週間、短ければ三日ほど、植物状態のような、生命維持活動だけが行われる状態が続くらしい。揺すっても叩いても、起きないというのだ。

 次に、罹患者の身体は、氷を取り出した時のようにゆっくりと溶け始める。そこで一番不思議なのが、溶け出た液体は、全て透明だという。罹患者を見守った人の中には、汗だと思って拭き続けていたら、みるみるうちに身体が小さくなっていったんです、と証言をする人もいた。そしてもう一つ、溶ける際、身体は雪だるまが崩れるように目や歯を落として溶けていくのではなく、氷が小さくなるように、角が少し取れつつも、姿形はあまり変わらぬまま溶けていくのだという。しかし、倫理的な観点からか、溶ける様がテレビに映し出されることはなかった。

 そして最後、これがこの病気を史上最大の奇病、と言わしめる所以である。なんと罹患者から溶け出た透明な液体は、数日後に一つにまとまり、手のひらに収まるほどの、透明な硬い球体となる。初めは皆、ガラスみたいなものかと思い込んで丁重に扱ったが、落とすと、死んだテニスボールのように一切の反発をせず床に落ちることが判明した。床にくっついたと言った方がわかりやすいだろうか。この球体になってしまえば、ウイルスの感染は起こらないと判断されている。しかしまだ研究が途中であることから、道端にある透明な球は放って置かれていた。最初こそ回収センターへの電話窓口が設置されていたが、すぐにパンクしてしまい、今では回収車が定期的に走っているのみである。どんな人が罹ったのかは分からないが、道端に透明な球体を見つけることも増えた。道路沿いにふと転がる球体が、光を受けてキラキラと輝くのを綺麗だと思ってしまい、私はおかしくなってしまったなあと一人で溜息をついた。


 そうしてついに、恋人がこの奇病にかかった。

 恋人、と言っても、外出禁止令が出された際にアプリを使って出会った、近くに住む、知り合って一週間の男である。男も私も親は遠くに住んでおり、そして互いに親と関係は良くなかった。彼は私の家にて急に身体を丸め込むように倒れた。私は、ああ、と思った。

「大丈夫?」

「……ああ。死ぬだろうなあ、なんとなく、わかってたんだよね。心当たりがあって」

「……自分の意思で、死ぬの?」

「うーん実は俺、保険に入ってて。この病気で死んだら、お金が弟にいくと思うんだよね」

 テレビでは気を失ったように倒れた、と言っていたが、彼はまだ喋る力が残っているようだ。

「そうなんだ、弟……さんは、いくつ?」

「俺の一つ下。俺と同じで親と仲悪かったけど、俺と違って頭が良かったから、すぐに田舎を出て、一人で暮らして、今は企業してるはず」

「……逞しいね、すごいや」

 彼の形を覚えておいた方がいいと思って、彼の頭を膝に乗せ、ちくちくと生え揃った短髪の頭を撫でた。目の上の骨が出っ張っている。身体に反して薄い耳、高く張り出た鼻。目をつむり、形を思い出せるように、何度も摩る。

「けど、俺、知ってて……部下が横領して蒸発したから、困ってるんだよな、アイツ。偶然俺の後輩がそこに勤めてて、いつもこっそり情報をくれるんだけど」

「……保険金を、弟さんに?」

「うん」

 彼の肩、背を撫で、脚へたどり着くと、足先がひんやりと冷たくなっていた。

「……優しいね」

「……いや、呪いかもね。託すようなもんだよ」

「……身体は、もう伸ばせない?」

 彼はかろうじて動く首を思い切り曲げ、脚の方を眺めていた。きっと力を入れているのだろう。重心がほんの少し、左右に振れるのがわかった。

「……無理そうだ。でも、怖くない」

「……結構前から、死ぬつもりだったでしょう?」

 まあるく開いていた目が、少しずつ瞼を重たくして、笑っているように歪む。

「……なんでわかった?」

「アプリのプロフィールが、生きてる感じじゃあなかったから」

「そんなこと言ったら、君もだよ」

「……言い返せないなあ。私も、もういいかなって思ってたから」

「死ぬ理由は?」

「ぼんやりとした、不安」

「……それは、地獄行きだね」

 二人して小さく笑って、彼が私の腿に頬を擦り寄せた。短く揃ったもみあげがちりちりと当たる。

「最期に好きだと思ったのが、君で良かった」

「ありがとう……私も、あなたを好きになれて、良かった」

 全くの嘘であったが、死に往く人に好きではないと伝えるのも何だか気が引けて、適当に言ってしまった。

「ありがと」

 多分、最後に一文字、う、と言っていたのだろうが、彼の意識が途切れてしまって最後までは聞けなかった。だらりと頭の力が抜けた彼を少し眺めてから、バスタオルを敷いて、彼をリビングの隅に横たえておいた。彼のプロフィールの、好物、のところに書いてあった、葡萄味の飴を傍らに置いて、なんとなく手を合わせた。


 彼の保険金のために、私は彼の罹患を専門窓口に伝えることにした。液状化している間は危ないので、一旦は彼が球体になるまで離れて生活してください、とのことであり、彼が植物状態になったのをきちんと確認した研究所の人たちから証明書をもらって、保険金については仮手続きが進められることになった。球体になった彼を、改めて引き取りにくるらしい。

 人間が溶けていくのは面白かった。骨ばっていた四肢は、食欲旺盛な子供のようにまるまるした形になり、手なんかはクリームパンのような形になった。顎も少し小さくなって幼く見える。私はバスタオルが彼を吸いきらなくなる度に変え、開いていた二リットルのボトルに絞って栓をし、彼が蒸発してしまわぬようにした。タオルは洗うわけにはいかないので、全てベランダで燃やした。

 彼の身体が手のひらほどの大きさになった頃、私は辺りをしばらく歩いて、落ちている球体を探した。数分探し回れば、一つ、茂みに転がっているのが見つかった。手に取り素早くポケットに入れ、一目散に家へと帰る。戸を開けると彼の姿は見えなくなっていて、ぐしょぐしょのタオルだけが残っていた。私はそれを同じように絞り、ボトルに詰めていく。存外少なく、全部でボトルの七割ほどしかなかった。ボトルの蓋に、彼の名前の文字を書いて、冷凍庫にしまった。私はポケットから球体を出して、彼のいたところにそっと置いて窓口に電話をかけた。

 しばらくして、研究所からガスマスクと防護スーツを纏った人が二人やってきた。

「この度は、ご冥福をお祈りします。液体は、全てこの球体になりましたか」

「はい……そうですね」

 彼らは周りをよく見て、慎重に球を掴むと、何やら梅酒瓶のようなポットにコロンと彼をしまった。他に何か濡れたものは、と聞かれたので、特に、と答えて彼らを見送った。その後、彼の弟さんと連絡を取る機会があったので尋ねたが、きちんとお金は振り込まれたようだった。

 再び、私の灰色がかった人生が始まってしまった。最後に彼といたあの数分間だけが、私の人生の中で唯一光の入る、透明な時間だった。それが虚しくて、悔しくて、彼を手元に置きたくなった。私は今日もまた、ただぼんやりとした不安に頭を揺さぶられて生きていく。しかし、それでもいいのだ。もしも前を向けなくなったら、ひんやりとした彼を取り出し、ゆっくりと水に戻る彼と話してから、彼を啜って私も一緒に溶けようと思う。

 透明な彼だけが、私に光を与えていた。

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