アンジと私 3
大学の最寄駅にて、一限へ向かう生徒がわらわらと噴き出るように改札を通って行くのを、壁にもたれてぼんやりと眺めていた。持ってきた明智小五郎シリーズはちょうど読み終えてしまったし、人間観察をするほど、興味を惹かれる人はいなかった。ぼんやりと前回の講義の内容を思い出して、まだ残る眠たさに少し目を瞑った。ふあ、とあくびを漏らしたところで声をかけられ、振り向けば過眠症の幼馴染、アンジが立っていた。
「…………お、おはよう」
「……おはよう、アンジ。今日は暑いから、川沿いの木陰を歩いて学校へ向かわない?」
「う、うん」
私は昨日、アンジの腹を故意に蹴り飛ばしている。全面禁煙の部屋でタバコを吸った罪も全て被せたし、挙げ句の果てに私は知らぬ顔で逃げ去った。直前に私も彼に痛めつけられているわけだから、事の輪郭だけ見れば鶏か卵かのような、始まりの分からぬ喧嘩にすぎないと思っている。ただ、彼が所在なさげに俯いたり頭を掻いたりするのを見るに、この喧嘩に何かケリをつけたいのであろう。どちらが悪いということは無いと思うので、まあ、口下手な彼の喉に詰まる言葉を取り出してみようと、私から口を開いた。
「アンジ、今日はすっきり起きられた?」
「……あ、ああ…………うん」
「よかったね……私もよく眠れたよ。睡眠の薬、飲む量の塩梅が分かってきたんだ。眠れることは幸せだな……とっても身体が軽い」
ふあ、と腕を上げ伸びをすると、横のアンジがビクッと反応する。
「ごめん、驚かせた?」
「…………キミ、さ」
次の言葉を静かに待つ。梅雨が明けて、カラカラに乾いた地面は歩きやすくて良い。先月までは、なかなか地面を注意深く見ないと泥に脚を滑らす恐れがあり、あまり木々や川の流れるのに気を取られる訳にはいかなかったが、ここ最近は青々と育った葉を楽しみつつ歩けるので楽しくて仕方がない。
「…………昨日、は、ありが、とう」
「……ありがとう?」
気でも狂ったのだろうか。それとも、別の話か。私は昨日、喫煙で火災報知器を鳴らして、挙げ句の果てに君の腹を蹴りタバコを持たせ逃げ去り、素知らぬ顔で隣の棟から連れ出され行く君に手を振ったんだ。きっと、感謝されることでは無いだろう。
「私、何か君にお礼を言われるようなことがあったかな」
「……君に殴られたの、嬉しかった、んだ……」
「はは。すごく嫌だなあ」
う、とアンジが声を漏らして再び俯く。友人の性癖開拓に手を貸したとは、死んでも思いたくない。
「アンジ、いや……そういう、なんて言えば良いんだ……そういうのは、そういった人たちの集まりでやった方がいいんじゃないかな」
「ち、違う。あの……君はいつも、僕に優しくて、寄り添って、くれて……あの、その、嬉しいし、すごく、助けられているんだけど……」
一心に喋る彼の歩みが少し早くなって、歩幅を合わせるよう大きめに歩いた。運動不足の私には少々キツい。
「……君が、初めて、きちんと僕に、尖った感情を、不満を、ぶつけてくれたようで、僕は、その……友達だな、と、改めて……その、あの」
「不満なんていつも言ってるじゃあないか。嫌だとか、困るとか……っあ、アンジ、待って。ちょっと速いよ……」
小走りで追いかけただけで膝が軋む気がした。二十歳を少し過ぎたくらいでなんたることか。生活習慣を恨む。
「ご、ごめん、悪かった」
「っあ!急に止まるなんて、危ないだろう…ははは」
彼を避けた先で足が滑ってよろめいた。
「ご、ごめん……」
「いや、私こそ。ごめん。大丈夫」
彼に捕まらざるを得ないのが悔しい。こんなに体幹が衰えていただろうか。後期は体育の授業を多めに取った方がいいだろうか。私が体勢を整え終わると、なんとなくおかしくて、二人して呆れたように笑った。
「……僕はさ、君と等しく並んで、歩くことが夢なんだよ。その、あの……昔から意気地なしで、喋るのも、話すのも、その……僕は、何をするにも、選ぶにも、一人では膨大な時間が、かかってしまう。友達なんて、元から少ないのに、どんどんいなくなって、で、でも、君は……そんな僕の、ことを、無下にしたり、しなかったん、だ」
そうかなあ、と風に揺れる青葉を見ながら思い返していく。何を返してもおかしな気がして、とりあえず彼の言葉を待った。
「…………ええと、ああ……昨日のこと、僕がしたことは、許されないと、思う……謝ったって、もう過去は、君が感じた嫌悪は、拭えないし……その、ごめん……。許される方法があるなら、なんでも、するけれど、ううん……」
「……アンジ、いいんだよ。私も、お返しに君の腹を蹴ったりしたわけだし。その時点で、互いのしたことは、相殺されたようなものだ。それじゃあ、だめかい?」
アンジは珍しく素早く顔をあげ、ぶんぶんと横に振った。彼の硬い髪、寝ている間についた癖の直らぬ毛束が細かく揺れる。
「私は、情けや母親同士のアレコレでアンジと一緒にいるわけじゃあないよ。アンジのことを大切な親友だと思っているし、すごく尊敬しているし、アンジと一緒にいることが、誇らしくもあるんだ。だからそう、あまり自分を卑下しないで……ほら、今日の二限、一緒に受けてるバトミントンだって、君に一度も勝てていないし」
アンジはしばらく、顔を見せないように俯いて黙っていた。その間に言うことも無いので、鼻歌を歌いながら歩いた。祖父の好きだった名曲だ。今の季節には合わないかもしれないが、ジャズの名曲だし、このアレンジが私は一番気に入っているのだ。
「……君、明日は、サークルに行く?」
「ああ……アンジが行くなら行こうかな。課題も進めたいし、二時間だけ」
「……一緒に、行こう」
そうしよう、と約束したところで、周りの学生らが歩みを早め始めたのに気づいた。始業まであと五分だ。急ごうアンジ、と声をかけ、二人で軽く走って教室へ向かう。汗が風で冷えるのを感じながら、初夏の高揚感に、少しだけスピードを上げて走って行った。
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