愛で潰してやる


 これまでに三人、心底憎いと思った人間がいる。全員私よりも年上で、同じく全員が教師だとか、講師だとか、私らを導く立場であった。そして全員が酷い気分屋で、機嫌の良い時には私を調子良く罵り、悪い時には烈火の如く声を荒げて叱咤した。私が彼らに反抗した記憶は無い。

 当時は私の狭い狭い世界の中で、彼らだけが私のその日その時、全てを司っている生き物だった。私の心が痛むのも、胃を痛めて授業を受けるのも、機嫌を取るために他が笑われていることに同調しなくてはならないのも、全て彼らの"指導"に怯えていたからである。元を辿ればきっと、私が不出来な生徒であったからなのだろうが、当時の未熟な私はできる限りのことをしているつもりであった。小さな私の小さな目玉では、彼らが立ち上がっただけで視界をほとんど遮られてしまう。彼らに立ち向かうには、学生の私はあまりにも幼稚で弱い生き物であった。

 私はいつだって、あの時の憎しみを忘れない。

 彼らが口癖のように言った、努力が足りない、とはどういうことなのか。結果が出ていない、ということの言い換えみたいなものだろうが、いまだにその解決策は見出せないし、何をしたら結果を残せたのかだってよく分からない。強いて言うなら、効率的では無かったのだろう。試験やテストの結果を思い出すたびに、胸にじくじくと広がる後悔や劣等感をかき集めて固め、隅に押しやって視界に入らぬよう必死で忘れておくしかない。視界にそれがチラつけば、全てを放って空へ踏み出したくなって、泥の中で溺れるような気持ちが蘇ってくる。息を吸おうにも、粘度をもった重たい何かがぐじゃりと胸に入り込んで、私の心身を隙間なく押し広げ圧迫していく。手を目一杯伸ばしてもがいても、ズブズブとゆっくり奥に沈んでいくだけで、一向に外に出られない。その間にも胸はどんどん重たくなっていき、私のちっぽけな心は常に潰れる寸前であった。


 この憎しみを消し潰すべく生きてきた。

 忘れることはできない。何をするにも、彼らから受けた罵詈雑言が頭の中で響き、挙げ句の果てに、自身の言葉に声色を変えて心を締め上げる。その度に憎しみはより大きく膨れ上がる。膨らみきった憎しみが意思の形をもっていないことだけが、私を人間たらしめる唯一の光である。

 私は、いつこの憎しみが復讐や発散を動機に刃物を携えて歩き出すかに怯えながら生きている。同時に、この憎しみに打ち勝たねばらないとも思っていた。いつか私が記憶を失い始める頃、もしくは憎しみが自制の効かない怪物になる前に、私はこれをしかと抹消しておかなければなるまい。

 しかし、絶対に憎しみを忘れることはできない。過去も変えられない。残る手段は、上書きすることのみになる。

 あの時の彼らの言動を理解し、納得し、満足することが必要なのである。彼らに勝ったと思えるように考える。それしかない。これは私を救うための、洗脳である。

 私は今で尚、当時の彼らより若い。そして彼らは、気分によって怒り方やターゲットを変えていた。考える。私は今、他人を好きに叱ることで快楽や情緒の安定を図ることができるだろうか。答えは否、私は他人を責めたり叱咤することの意味を理解していない。伸び悩む人に一番効くのは、寄り添うことと、共に事態を客観視すること、そして解決策の候補を提案することだ。悪ならば法が裁くだろうし、目の前に悪が居たとしても、彼らの心を握りつぶして更生させることは、私の役目ではない。私は悩める生徒を前に、腐っても怒鳴り声をあげたり、汚い言葉で罵ったりはしない。たとえ生徒の成績が芳しくなくても、責めるべきは彼ら自身では無い。原因は、現在の努力の方法が本人に合っていないか、目標設定を間違えているか、ほとんどがどちらかである。そう考えていくと、彼らの機嫌を伺っていたという過去は、彼らの稚拙さを表すということになる。

 彼らはあの時でさえ今の私より随分長く生きていたようだが、私は同じ時を重ねたとて、あのような稚拙な行動に出ることはないとここに誓おう。私は彼らの過去を、無邪気な子供を見るように、微笑みながらその汚れきった脳味噌を撫でてやる。愛くるしい馬鹿だと思ってやる。憎しさを愛おしさに変えてしまうのだ。そうすることで、私は、彼らへの憎しみを胸の前で組んだ手のひらで握りつぶし、彼らが立派に成長できますようにと胸の前で手を組み合わせ、祈りを捧げる。

 これが、私の中の、憎しみに勝つ唯一の方法である。

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