ぶん殴ってくれないか
思春期を迎えしばらく経った、ある日。私はふと、自分が今まで暴力的な喧嘩をしたことがないことに気がついた。
幼い頃に、友人らの引っ掻いたり掴みかかったりするのに巻き込まれないのを不思議に思って、友達をわざと噛んでみたことがあった。しかし急だったのが悪かったのか、力加減を間違えたのか、友達はわんわん泣くばかりで一向にやり返してこなかった。その時に、自分がいかに喧嘩の仕方を知らないかを思い知らされたのである。それから十年経っても尚、私は暴力を知らないままであった。
中学生の私は、この先、突然殴られることはあっても、合意の上で、もしくは予測がついた状態で殴られることは無いのではないかと考えた。駅で酔った人間に急に殴りかかられることはあるかもしれないが、相手の敵意をしっかりと理解した上で、それらが拳に乗ってやってくることはこの先そう無いだろう。暴力は不公平だろうから。力より頭脳がものを言う世界に浸かる前に一度経験してみたいが、学校でそのくらいの大きな喧嘩になれば、互いの手が出る前に先生や友人に止められるだろうし、何より話題のタネにされては面倒だ。しかし私は、覚悟の上で殴られてみたい、との思いを捨てきれず、友人に頭を下げてその経験を買うことにした。
友人は最初こそ、間違えてカエルでも口に入れたような、おかしな顔をしていたが、私が馬鹿真面目に訳を説明するものだから、向こうも私の熱意溢れる口調に飲まれ、了承してくれた。
以降、話し合いはスムーズに進んだ。いつ、どこで行うか。どのくらいの力加減で行うか。他に協力者は必要か。謝礼は何にするか。
一番悩んだのは日時と場所であった。他の誰かに見つかれば、多感な中学生の間、噂など尾鰭を数百本つけて広がるだろう。あいつらが喧嘩をしていた、しかし普段と変わらない様子で話している、何かあったのか。こんなことを探られるのは面倒だ。その上、何発も殴られるところや、やり返さずにいる所を見られれば、私が被虐趣向の変態だと思われかねない。私たちは話し合いの末、休日、それも校内で部活動が行われない日を調べ、その日に決行することにした。
力加減においては、とりあえず一発目は、防御として殴るなら、という体でお願いすることにした。というのも、相手と私の間には体格や経験の差があったからである。初手でどこか怪我をしてもマズいので、ジャブ程度から始めてもらうことにした。
そして、協力者と謝礼である。謝礼はたしか、コーラ一本とかだったような気がする。協力者においては、見張りをつけようと思ったが、余計に目立つ可能性を考えて二人きりで行うことにした。
そしてその日がやってきた。
学校の二階、一番奥の階段で行うことにした。ここなら守衛室からは最も遠く、階段を上ったり廊下を歩く人がいれば、足音で分かるだろう。私たちは別々に学校に入って、決めた場所で落ち合った。互いに、おう、と軽く声をかけた。私が腕時計を見て、十分以内にお願いしたい、と言うと、どんだけ殴らせる気だ、と鼻で笑われた。彼は、いくぞ、とだけ言うと、ファイティングポーズをとってこちらを睨んだ。彼が窓を背にしたからか、輪郭だけが光に縁取られて、やけに格好良く見えた。
ぼけっとしていたら、鈍い音と共に頬に重い痛みが響いた。しかしこんなのは序の口だろう。まだいける、もう少し本気で頼む、と体勢を整えて言えば、返事もなく素早い二発目を食らう。頬骨の出た所に当たり、頭が少し揺れた。痛い。しかし痛いだけだ。困ることはない。できる限りで頼む、と伝えると、思っていたより手が痛い、と返された。耳と頬の間くらいに一髪、受け止めきれない拳を食らった。反動をうまく逃がせずに転ぶ。続きが見たくて手招きをした。彼は馬乗りになって私を殴打してくれた。彼の表情は完全な影になって見えない。床と彼の力に挟まれて頭がガンガンと鳴った。これは相当に痛かった。
最後はどうなるのだろうか、と思っていたが、数秒殴られているうちにあることに気がついた。どうしても、顔を手で守ってしまうのだ。最初こそ受け入れていた痛みだが、本能か、押さえつけられていたはずの手がするりと抜け、つい顔を覆ってしまうのである。友人は私が手で守り始めたのに気がついて、息を整え静かに私から降りた。
悪い、どうしても身体が勝手に、と説明すると、ならばこれ以上は良くないだろう、と友人も自身の手を労るように摩って呟いた。彼の握った手も赤くなっており、ぎこちなく開く指に罪悪感を覚える。腫れているのか、熱を持った頬を押さえてお礼を言うと、俺も良い経験だった気がする、と彼も礼を述べた。変態なんだな、と返せば、普通にもう一度殴られてしまった。先ほどのものより数倍痛く感じた。
別々に学校を出て、近くの公園で落ち合った。私は途中でコーラを二本買って行き、一つは約束通り渡して、もう一つを開けた。二人で飲みながら喋ることにした。その後は普通に猥談をして、今日みたいなことが好きなのか、と聞かれたが、そんなわけないと答えた。友人は訝しげに私を睨み、何を言っても結局怪しまれていたので、ロックのかかるフォルダに保存した、自慢のコレクションを見せる羽目になった。以降、私のあだ名が「尻」になってしまったのは全くもって不名誉なことだが、良い経験を買った代償だ、仕方がないと自分を納得させることにした。
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