潜在意識の海にて


 頬のあたりを、ゆらゆらと優しい光がくすぐる。朝か。起きるべき時間なのだろうが、まだ意識はハッキリとせず、頭は乳白色のもやを作ったまま、ふわふわと微睡に揺られたがっていた。先ほどまでは、降りることのできない、七色の階段の夢を見ていたはずだ。上に行くにつれ明るくなるものだから、私は夢中になって駆け上がったが、いっこうに頂上は見えてこないので、まあ一休みするかと思ったところまで覚えている。あの夢に戻りたいかと聞かれれば、歯切れの悪い返事しかできないが、目覚めても気の重たい用事しか私を待っていないので、もう一度意識を沈めた。

 しかしどうにも目鼻をくすぐる陽の光が気になって眠れない。こんなに光がちらちらと忙しなく動くということは、向かいの家の子供にでも遊ばれているのだろうか。理科に明るいことは喜ばしいことだが、人を使って遊ぶんじゃあない。だんだんと意識がその形を成していく。私はついぞ苛ついて、眩しさに目を顰めながらカーテンを勢いよく開いた。

 視界が光で真っ白になり、徐々に景色が色を持ち始める。

 私は思わず、窓の外に目を奪われた。

 なんと、窓と向かいの家の間に、様々な種類の魚が泳ぐのが映っていたからであった。

 泳いでいるもののほとんどは、蝶々魚、ベラ、ハギ、ハタなど、きっとあまり冷たくない海にいる、小さな魚たちであった。色とりどりで美しいが、泳ぐ魚の種類や、ベタやグッピーがいないのを見るに、ここは海なのだろう。窓から差し込む光がきらきらと波に揺らめいて、思わず感嘆の息を漏らした。同時に私の口から、ぽこんと団子ほどの泡が出ていった。マズい、と思って口を塞いだが、ゆっくり鼻から空気を取り込めば、感覚的には息を吸えているようだ。呼吸に逼迫した問題がなければ、別段日常と変わったことはない。陽の光が揺らめくということは、どこかに水面があるということだが、今は上に行く気は起きなかった。私は先ほどから顔をつつく、黄色と黒の口の尖った蝶々魚をぱっぱと手であしらって、周りの様子を見に行くことにした。

 水族館の大きな水槽を思い出す。

 きっとここが大きな水槽であれば、私はナポレオンフィッシュか、ウツボを探しているだろうと思って、部屋の中を同じように探すことにした。きっとウツボは本棚かクローゼットにいるだろう。その辺りはあまり整っていないので、隠れるにはうってつけだ。クローゼットのあたりを探そうと脚を踏み出したところで、中くらいのエイを踏みそうになって驚いた。向こうも驚いたようで、鳩のようにぴゃっと翼をはためかせ飛んでいってしまった。なんのエイだか分からないが、刺されなくてよかった。パッと見る限りでは、テングハギが、ご自慢の小さな角を向け、何匹かがじっとこちらを見ているだけである。意を決して、積まれた洋服を、むんず、と掴んでみると、ワッと魚たちが飛び出てきた。銀と黒の、目から尾にかけて線や点のついた魚たちが私の頬を掠めて泳いでいく。悪かったよ、と言って服を戻そうと再度手を伸ばした時に、斑模様のウツボにガブリと噛まれてしまった。血は出ていない。痛みも感じない。もう一度、悪かったってば、と言いながら彼の鼻を反対の指で突くと、ウツボは、仕方ない、というようにゆっくり口を離して、身をひゅるりと翻して鞄の置いてある隙間に戻っていった。それを合図にか、先ほど勢いよく出てきた魚たちも戻っていく。何度か手のひらくらいのハタに小突かれて、伝わるか知らないが頭を下げて謝った。


 さて、ナポレオンフィッシュは泳いでいるだろうか、とリビングの方へ向かおうとしたその時だった。ごむ、と弾性のある壁にぶつかる。太陽光しか入らず分からなかったが、リビングへの道は何かで塞がれてしまっているようだ。撫でてみると、それ自体はつるりとしているが、私の顔程の大きさの模様が連なっており、そこだけが薄く段差になっている。どうやら壁自体も水に揺られているらしく、ほんの少しだけ出口から離れたり、くっついたりを繰り返しているようだ。ぐ、ぐ、と壁を押してみるが、少し指が沈んだ程度で

壁が動く気配もない。出るのを諦めて、布団に戻ろうかと方向を変えた。

「それはナポレオンフィッシュだ」

 声と同時に私の視界がぎゅるんと回転し、思い切り身体が壁に打ち付けられる。

 痛い、と言いかけるも、その腕に這う感触に私は心を躍らせてしまう。長くうねる腕は私をいくつもの丸い吸盤で掴み、ギチギチと締め上げてくる。

「ミズダコ……大きさから言って、君はミズダコか?どうしてこんなところに?」

 首を絞めていた一本の触手が私の頬にビタリとくっついて頬を痛いほどに引っ張る。ぢゅぽん、と大きな音を立てて吸盤を外されたが、頬はきっと情けない形にまあるく跡が付いていることだろう。しかしこれも嬉しい、なんと言ったって、私はミズダコが大好きなのだから。

「どうして、など私が一番知りたいものだ。君が呼んだんだろう、ここは君の潜在意識の掃き溜めに相違ないからな」

「そうか……ならば、生息地などはあまり関係ないのか?」

「私がいるし、彼もいるなら、そうなんだろう」

 ミズダコは空いた腕を本棚の隙間にゴソゴソと入れ、引き抜くと同時に数匹の金目鯛を連れてきた。きっと金目鯛は蝶々魚と一緒に泳がないだろうから——もし泳ぐことがあれば、すぐにでも自然界に謝りたい——ここは自由な夢の中なのだろう。

「君が苦手な者も呼べるぞ」

 やめてくれ、と言いながら反射的に目を瞑って本当によかった。目を閉じる寸前、視界の端に大量のマツカサウオが見えたからである。

「頼む、頼むから彼らを戻してやってくれ」

「なぜマツカサウオを嫌う」

「あの模様を見ていると、胸がゾクゾクして不安に駆られるからだ」

「……彼らも、この模様で怖がられるようなら本望だろうな、外敵が一匹減るだろう」

 鼻先に、つん、つん、と何か魚がぶつかる。マツカサウオだろうか。目を開けるのが酷く怖かった。目の前に大量の彼らがいたら、私はこんな歳にもなって叫び泣くだろう。遠い昔に見た目について悪口を言ったことを、とにかく早口で謝った。下手くその描いた丸みたいな形だとか、既に網にかかったような模様だ、とか。ひどいことを言った、許してくれとできる限り頭を振って懇願する。するとミズダコはくふくふと笑うように触手を波立たせ、私の目の前を何度か払うように振り、もう彼らは戻った、と私に囁いた。恐る恐る、開いていない時間の方が長いほどに、ゆっくりと目を開ければ、そこにはもうマツカサウオはいなかった。私の安堵の息が天井にぶつかる。

「ありがとう……ここには私の好きな、アロワナや、ナポレオンフィッシュ、タカアシガニ、コブダイやピラルクも、もしかしているのかい?」

「ああ、あの向こうに」

 小さい吸盤のついた腕先が、リビングを指した。

「あの壁は……いつからある?」

「君が眠った時からだ」

 そして、とミズダコは続け、私の首に二本の触手をくるりと巻きつけた。

「先ほども言ったが、あれは壁ではなくて、ナポレオンフィッシュだ」

 言われてみれば、模様は鱗のようにも見える。しかしナポレオンフィッシュだとしたら、あまりにも大きすぎないだろうか。

「大きさは、君の意識が決める」

 頭の中を見透かしたように、ミズダコは答えた。

「ナポレオンフィッシュが意識の中で一番大きいということか?」

「どうだろうな。君はどう思う」

「……うーん、私の一番好きな生き物は、君、ミズダコだ」

「そうだろうな。だからこうして私は、君を認識して、喋りかけることができたんだろう」

 魚たちが窓をすり抜け、一斉に上空目指して泳いでいく。何かが終わる予感がした。

「……そろそろ、か?」

「まあ、君が図書館に行く時間がきたんじゃあないか。今日中に返さないとまた延滞になるぞ」

 薄らと、遠くでスマートフォンのアラームが聞こえる気がする。

「わかってる。今日行くさ。そうだ、君の名前は?」

「君が持つ、タコのぬいぐるみにつけた名前と同じだ」

 彼が言い終わる前に、二本の職種が私の首をゆっくりと絞め、頭がぎちっと熱くなっていく。苦しいとも思ったが、目を閉じれば圧迫感はふっと消えた。久々に、途中で目の覚めない夢であった。


 鳴り続けるアラームを焦って止め、部屋をぐるりと見回す。深呼吸をしても泡は出なかったし、蝶々魚は私を突いていなかった。

 ベッドの横に置いた蛸のぬいぐるみ、ヤツカケが落ちて隙間に詰まっているのを引っ張り出して置き直し、気が重いが、図書館へ行く準備を始めた。



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