心地よい喧騒
猛暑日であった。
あまりにも暑い。日中は出る気になれず、言い訳をこさえては、ぐうたらと文を書いたり本を読んだりして過ごしてしまった。カーテンの隙間から差し込む光さえも部屋を嫌に温める気がして、少し苛立ちながら、吊り下がる布地を右に左に伸ばして断熱に勤しむ。自動運転にしたクーラーは休むことなく、ごうんごうんと音を立てて部屋を冷やし続けていた。
夕方五時を過ぎて、流石に昼ほどは暑くないだろうと軽い気持ちで家を出たが、これが失敗であった。地面から返る熱で、額や腕にじんわりと汗が滲む。駅まで歩いて十分ほどのはずなのに、気づけばタオル片手に、常に汗を拭き拭き、改札を通る頃にはすでに、冷えた喫茶店なんかで一服したい心持ちであった。しかし、あまり長い時間外にいるのも疲れる、手早く用を済ませてしまおう、と電車に乗った。
目当ての路線は遅延しており、ホームに人がごった返していた。十五分の遅延か、立ちながら本でも読んで待つのも悪くない、と思ったが、遅延分数は十五分から二十分、ひいては四十分と延びて、諦めて遠回りで目的地までいくことにした。
別の電車はすぐに来た。各駅のため、当初の予定よりは少しかかりそうだが、仕方がない。私は電車のドアが開くと、偶然空いた角の席にいそいそと座った。家から出て、たかだか二十分そこらだが、私は疲れ切っていた。冷房のか細い風が肩を撫でる。私は、急に体力を使ったために、少しうたた寝をしてしまった。車内のアナウンスなども聞こえなかったことから、そうとうしっかり寝てしまっていたのだろう。気づいた時には、降りたことのない駅名が車内の液晶に表示されていた。焦って勢いよく立ち上がり、ドアが閉まるアナウンスの直前で電車から跳ね降りた。
ええと、逆のホームは、と考えエレベーターに乗る直前、外から祭りの囃子が聞こえてくる。よく見れば駅のバスターミナルには、甚平や浴衣を着た子供や学生がちらほら見える。そう遠くないようだ。私は久しぶりの祭に童心が疼いて、思わず駅に降りてしまった。
随所に取り付けられた提灯に矢印が書かれており、そう迷わずに祭りの会場である神社にたどり着いた。
聞いたことのない、だが懐かしい音頭が流れている。様々な屋台料理の香りがひしめき合って、思わず腹がきう、と小さく鳴った。子供の頃に見たことあるような、焼きそばだのたこ焼きなどは一店舗ずつしか見当たらなかった。代わりに、タピオカジュース、フルーツかき氷、ワッフル、ハットグなどを若い学生らは食べているようだ。中学生だろうか、可愛らしい浴衣を振って、目元に大粒のキラキラをつけた男女が走り去っていく。彼らが持っていたわたあめが無性に食べたくなって、彼らの来た方へ進んでわたあめの屋台を探した。
何組かの家族でやっているのだろう、綿飴屋は屋台の内外共に賑わっていた。綿飴機の奥で焼きそばを食べながら夫婦二組と子供が焼きそばを食べている。真ん中にいる小さな女の子がそれを手掴みで食べ、口の端からぴるぴると麺を揺らして上手に食べるのが見える。屋台の前には、十人ほどだろうか、すでに列ができており、通行の邪魔にならないよう、前の人にぎゅっとくっついて並んだ。暑い。しかし、ホームで群衆の中に並ぶのとは全く違う、心地よい混雑があった。ぼーっと周りを眺めているとすぐに私の番が来て、しっかりした女の子二人が、おいくつご注文ですか、とプラスチックのイヤリングを揺らして尋ねてくれる。一つだけ頼むと、二つの綿飴機の間でザラメを筒に入れる小さな男の子が、まいどあり!と元気に笑った。横で綿飴を作る男性、父親だろうか、彼に男の子は、声が小さいよ!と小突いて、私含め周りの大人は笑ってしまった。男の子が出来上がった綿飴を、小さな手でしっかり握って渡してくれたので、君はしっかりしているな、とお礼を言って、ポケットにあった三百円を代わりに握らせた。男の子は私が間違えて渡したのだと思って何度か私を呼んだが、私が小さく手を振ると、彼の父親が何か耳打ちして、男の子は私をほうと私が行くのを見つめるだけになった。あの子が友人と共に、なんてことない焼きそばを共に食べられますように。すでに硬くなりつつある綿飴をちぎって丸め、口の中に捩じ込んだ。手の上の小さな雲は、存外早く口の中で砂糖の塊に変わってしまった。酷く甘いのが、ぐんと胃に沁みた。
神社の少し奥、偶然空いていた段差に腰掛け、綿というよりは金束子のように変化しつつあるそれを引きちぎりながら、ふっと祭りを眺める。
子供らは、光るブレスレットやカチューシャをつけてきゃいきゃいと走り回っている。大人達もそれを厳しく咎めるではなく、適当な椅子やブロックに腰掛け、ビールを地面に置きながら談笑に興じている。屋台で働く人でさえ、笑い合って、この空間に笑顔が絶えることなどないように思えた。
私は、この歳になって初めて、祭りの面白さを知ることになる。その場にいる、全ての人が幸せな空間。誰もが少しだけ、特別な日の熱に浮かされて、笑い合う。その場にいると、独りぼっちで佇むわたくしも、ほんの少しだけ舞い上がって、あたたかい幸せな気持ちになれる。私の偏屈で凝り固まった頭も、今日だけはこの満ち足りた喧騒に茹でられ、ふくふくと浮き足だつのである。常々の不安など、口の中に放り込んだ綿飴のようにしゅんわりと溶けていくような気がした。
そろそろ戻るか、と立ち上がった時に、ぼんやりと光るブレスレットを抱えた男の子が、まーだだよー!と隠れん坊の途中であろうか走ってきた。私は彼の走るのに合わせて光るそれを羨ましく思って、彼に声をかけた。
「君、その腕輪、一つ売ってくれないか。なに、三百円でどうだ」
「これ、百均で買えるよ」
「すまない、いま欲しくて、だめだったら引き下がろう。どうだ?」
小銭を見せると、男の子は、いいよ、と何でもないような顔で一つ外して、私に手渡した。背中から別の男の子の声がして、男の子は焦ったように私の手の上のコインを取り去っていった。
帰り道は、なるべく人通りの少ないところを通った。私は歩くたびに揺れる腕輪に心躍りながら家へ向かっていった。
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