うつら綴 2
辺伊豆ありか
鏡に映して一興
毎日毎日文章を書いていると、ふとした瞬間に、同じことばかり言っているなあ、と目の前の自分のこさえた文が、酷く馬鹿馬鹿しいものに思える時がある。それが絵だろうが文字だろうが、はたまた服や映像でも、何かを作る人間には、それが必ず訪れるだろう。私は、一種の風邪のようなものだとさえ思っている。芸術だけではない、ビジネス社会でも自分がなんと視野の狭い人間か、と思うことは多々あるだろう。
そういった時には、私は鏡の中の自分と話すことで、異なる意見を聞く耳をきちんと立てておこうと思っている。鏡、といっても、少しだけ角度をつけた鏡だ。私からは、映った私がすこしだけ斜に見える。
鏡の中の自分は、外側は同じであるが、中身は全く反対である。この、中身だけが全く反対、というところが、思考を巡らす楽しみでもある。
私達二人は、共に指が短い。その事実を、私は否定的に捉えているが、相手は肯定的に捉えている。私が、こんな子供用のソーセージみたいな指、不恰好だ、と言えば、相手は、これ以上長かったら、人生のいたる所でおまけの怪我が増えていたと思うが、と返してくる。私は相手が涼やかに答えるのを見つめる。話ぶり、表情、手先の動きから、相手はいかにこの指に助けられてきたかが分かる。
しかし鏡は少し斜めに置かれているため、私は相手と見つめ合って話しているわけではないから、ほんの少しだけ俯瞰的に、話している人を観客席で見るような、一歩引いた目線で相手の言うことを認識できる。そうすると、相手の言うことももっともだが、これは容姿において"良いもの"の基準がある程度固まっている現代では、さほど通用しない反論なのかな、と思ったりもする。ただ、素敵だとか惹かれるものだとかは、縦幅や横幅、比率などだけでは語れぬ面もあることを思い出す。癖で少し曲がった、分厚い職人の掌、ウッドベース奏者の硬く膨れた指先、赤子のふくふくと丸い手先。これらに心がくすぐられるように、私の短い指が汚い字を連ね物語を生み出す様を、肯定的に捉える人もいるのかもしれない。
そして、私は、この指に対する否定的な感情と肯定的な意見から、新たに話の種を受け取るのである。この種はまた枝葉になったころ、人の形を成してもう一度鏡に向き合うことになるだろう。その繰り返しがひどく楽しいのが、私の人生である。
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