第6話 はじまり

 空木健介が東京に戻った二日後、七月十六日に関東地方の梅雨は明けた。

 空木のスマホに山岡清美からメールが届いたのは、その翌日七月十七日土曜日の午後だった。そのメールには、札幌中央署からの連絡で、羊蹄山麓で発見された白骨化死体は、姉だと断定されたと書かれ、札幌中央署の笹井刑事から送られて来たメールも添付されていた。

 その笹井刑事からのメールには、山岡美夏の住所近くの山鼻歯科医院で入手した美夏さんのエックス線写真の歯形と、俱知安署管内で発見された白骨化死体の歯形が一致した。死因は不明で、事故か事件かは分かっていないので、美夏さんのマンションの部屋を見せて欲しい、と書かれていた。

 清美から届いたメールを読み終えた空木は、窓外に見える梅雨明けの目が痛くなるほど真っ青な空をぼんやりと眺めていた。

 羊蹄山麓の白骨化死体は山岡美夏だった。恐れていた事が現実となってしまった今、清美はどんな思いでこのメールを自分に送って来たのだろうか、自分はこれからどうするべきなのかと考えていた時、スマホに清美からまたメールが届いた。

 そのメールにはこう書かれていた。

 「姉が亡くなったことが分かったので、空木さんに依頼していた調査はこれで終わりですね。これまで本当にありがとうございました」

 それを読んだ空木は溜息をついた。

 確かに調査を依頼された時点での最終目的は、姉の山岡美夏の行方を捜すことだったことから考えれば、清美のメールの通りだろう。

 しかし、元々空木に依頼された調査は、町村康之という人物から山岡美夏の行方に関する手がかりを聞き出す事だった事を考えれば、とっくに空木の探偵としての仕事は終わっていた。それが札幌へ行き、依頼人の清美と面会し、美夏の残したノートを読み、美夏から送られてきたという四通の手紙を見て疑問に思い、警察まで一緒に行った。それは清美の役に立ちたいという思いからだったのではないか。警察も事故か事件かの判断が出来ずにいるのであれば、事故という結論が出ない限り、自分として協力出来る事を考えるべきだろう。それに札幌の土手たち後輩にも協力依頼をしていることも考えれば、今ここで自分の仕事はこれで一件落着しました、という訳にはいかない。

 そう考える空木の心に、もう一つ大いに気になる事があった。それは、東菱製薬の町村康之の事だった。

 町村は、空木が面会した時には、既に山岡美夏の失踪を知っていた可能性が高いが、何故知っていたのか。

 もう一つ、イニシャルYMが町村だとしたら、町村は会社の金を横領していたのではないか、それを山岡美夏は知っていた。知っていたと言うより、ラウンジ『やまおか』の経営者である美夏の協力なしには出来ないことだろう。白骨化死体で見つかった美夏が、もし二年前に事故ではなく何者かに殺害されていたとしたら‥‥。町村と美夏がどんな関係だったのか知りたいと空木は思った。しかもその町村は、ここ東京に住んでいる。

 空木は清美に姉を亡くした悲しみへの悔やみを伝えるとともに、これからも自分なりに役に立ちたい思いでいる事を伝えるメールを送った。


 その日の夜、空木は『平寿司』に高校の同級生で国分寺署の刑事の石山田巌を呼び出した。

 「巌ちゃん、呼び出して申し訳ないね」

空木より少し遅れて店に入って来た石山田に声を掛けた。

 「今日は非番でね。うちのカミさんには空木さんのお陰で晩飯作らなくて良いから嬉しいって言われたよ。それより健ちゃんから飲みの誘いが来るとは珍しいけど、何かあったのか」

 空木は、石山田のグラスにビールを注ぎ、自分のグラスを石山田のグラスにカチンと合わせた。

 「この前、ここで話した二年前の行方不明者のことだけど、白骨化死体で見つかったんだ」

 空木はそう切り出すと、個人名を伏せながら自分が依頼された調査の内容から、札幌での出来事と、そこから生じた空木の疑惑を話した。

 「‥‥それで健ちゃんはどうしようと思っているんだ。その疑惑の人物とやらに会って話を聞きたいということなのかい」

 石山田は、カウンターの前に出された鉄火巻きを摘まんで口に入れ、ビールを飲み干した。

 「そうしたいのは山々だけど、その人物がまともに話してくれるとは思えないし、それは警察でないと出来ない事だろ」

 空木は焼酎の水割りを二つ作り、一つを石山田の前に置いた。

 「その通り。北海道警が事件と判断した上で、その人物を参考人として扱うことになった時、初めて参考人としての聞き取りという事になる訳だから、健ちゃんが今出来る事は、警察の判断を待つことしかないんじゃないのかな」

 聞いている空木は、石山田の言う事をもっともだと思いながら焼酎の水割りを口に運んだ。

 「やっぱりそうだな。事故という判断になれば、それで一件落着だからな‥‥‥」

 そう言ったものの、北海道警が事故という判断をするとしたらヒグマに襲われたか、道迷いした結果の遭難死ということになるのだろうが、そんな事があるのだろうかと空木は思いを巡らせた。

 「‥‥巌ちゃん、北海道警の判断を知ることは出来ないかな」

 空木はそう言うと、バッグから一枚の名刺を取り出して石山田の前に置いた。

 「何だい、俺に聞いて欲しいってことなのか」

石山田は名刺を手に取って言った。

 その名刺は、札幌中央警察署刑事部捜査第一課係長、笹井の名刺だった。

 「そうしてくれると嬉しいね。俺が電話で聞いても教えてくれる筈は無いし、同じ刑事の巌ちゃんなら教えてくれるんじゃないかと思うんだ。どうかな」

「そんな簡単にいく訳ないよ。北海道警であろうがどこの警察であろうが、捜査に関わる事は、外部には簡単には話はしないからね。まあ、健ちゃんがそれ程気になっているんだったら何か聞き出す方法を考えてはみるけど、北海道警も結論を出すまでには時間がかかるだろうから、しばらく時間が経ってからになるね」

 石山田の話を聞いていた空木の前に、パスタが置かれた。

 「空木さん、難しい顔になっていますよ。平寿司特製パスタを食べて明るい顔になって下さい」店員の坂井良子はそう言ってニコッと微笑んだ。

 「俺、そんなに難しい顔になっていたのか‥‥」

「それだけ真剣だっていう事だよ」

 石山田は、焼酎を飲み干すと、前に置かれたちらし寿司に箸をつけた。


 山岡清美のスマホに、札幌中央署の笹井刑事からメールが届いたのは、七月十七日土曜日、清美が働く理容店での昼の休憩の時間だった。

 そのメールを見た瞬間、こんな時が来るかも知れないと心の準備はしていた清美だったが、体は凍り付いたように固まり、その顔は強張った。

 店主夫婦も清美の変化に気付いた。

 「姉が羊蹄山の麓の山中で、白骨化した死体で見つかりました。警察が姉の部屋を見たいと言っていますので、午後から休ませてください」と清美はメモに書き、店主夫婦に見せた。清美の目には涙が溢れた。

 気配を感じていた主人は、メモを見て「えっ」と声を上げ、顔を曇らせた。そして「しばらく休んで良いよ」とだけ書いたメモを清美に渡した。

 深堀和哉に連絡を済ませた清美は、自分の部屋に帰ると、思い出したかのように空木のスマホに、笹井刑事からのメールを添えて白骨化死体が姉であったことを伝えるとともに、調査の御礼と終了も空木に伝えたのだった。

 そして、清美からの連絡を受けて迎えに来た、深堀和哉の車で札幌市中央区の姉のマンションに向かい、札幌中央署の笹井刑事と待ち合わせた。

 和哉の存在にいぶかしげな眼を向ける笹井に、和哉は清美の友人であり手話が少しではあるが出来る事を説明した上で、部屋の捜索に清美と共に同行することの了解を得た。

 美夏の部屋の捜索に当たったのは、失踪から二年近くが過ぎていることもあるのか、笹井の他刑事一人と、鑑識課員一人だけだった。

 「お姉さんがここからいなくなったのは、一昨年の九月の中旬ということですが、掃除は何度もされているんですか」笹井は眼鏡を直しながら、部屋の中を見廻して聞いた。

 和哉はジェスチャー交じりの手話で清美にそれを伝えると、清美は「月に一度は掃除にきています」と和哉に伝えた。

 「鑑識の出番はなさそうですね、係長」

もう一人の刑事が笹井に話しかけると、後にいた鑑識課員が、「そうですね。二年近く経過していますからね」と答えた。

 「妹さんに、お姉さんが置いていったという手紙はどこにありますか、と聞いてくれませんか」笹井が和哉に顔を向けた。

 和哉から伝えられた清美は、リビングの物入れの引き出しから折畳まれたA4サイズの紙を取り出して笹井に渡した。

 「これですか。この置き手紙は、あのパソコンとプリンターで作られたんですかね」

そう言った笹井は、部屋の隅に置かれているパソコンに目をやり、鑑識課員に念のため指紋の採取をしてみるよう促した。

「ところであなた以外にこの置手紙に触られた方、読まれた方はいらっしゃいますか」

 笹井が作業に入った鑑識課員から清美に目を移して訊くと、清美は和哉を見た。和哉が笹井の質問を伝えると清美は、「私しか見ていません」と伝えた。

「深堀さんも見ていない?」

笹井が和哉を見ると、和哉は「見ていませんし、触ってもいません」と首を振りながら答えた。

 「係長、パソコンもプリンターもダメですね。何も出ません」

鑑識課員は笹井にそう言うと作業を止めた。

「やっぱりダメか。もしかするとこの手紙から指紋が取れるかも知れないが‥‥」

笹井は誰に話すのでもなく言うと、手袋をした手で鑑識課員にその手紙を渡した。

「二年前の紙でしたら取れるかも知れませんね」鑑識課員も同じように言った。

 指紋が最も長く残るものは、紙類だと言われている。ガラス、プラスチック、ビニール、金属などは二、三か月で指紋は消えてしまうが、紙類は保存状況によっては何十年も消えずに検出できることがある。笹井も、鑑識課員もその事を知っていての会話だった。

 「妹さんの指紋を取っておけよ」

 鑑識課員に指示したその笹井の言葉には、必ず清美とは別人の指紋が残っているという確信があるかのように力がこもっていた。

「妹さんにもう一つ確認させていただきたい事があるんですが‥‥」

笹井はそう言うと玄関口へ向かった。

 「お姉さんは発見された時、ジーンズを穿いていたんですが、靴は履いていなかったんです。現場付近にも見つかりませんでした。お姉さんはジーンズで出かける時には、どんな靴を履いて出かけていたのか、ご存じありませんか」

 和哉から笹井の質問を伝えられた清美は、「スニーカーかサンダル」とメモに書いて和哉に渡すと、玄関口の靴入れを覗いた。そして、中にあるスニーカーとサンダルを指差した。

 「靴はやっぱり履いていなかったのか‥‥」

「係長、ここに残っているという事はどういう事でしょう」

「妹さんの言った靴以外を履いて行って、何処かで脱いだのか、ここから裸足で出かけたか‥‥」

「裸足で出かけるなんて火事でもあるまいし、考えられませんよ、係長」

「その通りだ。考えられる事は、ここで殺害されて羊蹄山まで運ばれて埋められたと推測するのが妥当だろう」

 笹井はリビングに戻ると、床や壁に顔を近づけて何かを捜すかのようにじっと視線を動かした。

 その様子を見ていた清美は、何かを察したのかダイニングテーブルの椅子に座り込んだ。

 どの位笹井たちが、床を這いずり回っただろう。立ち上がった笹井が、ずれかかった眼鏡を直して言った。

 「綺麗に掃除されていますね。毛髪一本落ちていませんね。ところで、お姉さんが残していった物は、他に何かありませんか」

 和哉は清美の顔を見て、どうするという様に首を傾げると、清美は和哉の意図することが分かったのか頷いた。

 「刑事さん、お姉さんが残していった、仕事に関して日記のように書かれたノートがあるんですが‥‥お姉さんはもしかしたら‥‥」

「美夏さんは、ここなのか何処なのか、はっきりしませんが、亡くなられてから倶知安の羊蹄山の麓に遺棄された可能性が高いと思われます。‥‥参考までに、そのノートというのをしばらくお借りさせていただきたいのですが、今お持ちですか」

 笹井が話し終わるのを待っていたかのように、清美は三冊のノートを笹井に渡した。


 清美から調査終了のメールが届いた翌週の水曜日、空木は久し振りに奥多摩の鷹ノ巣山に登山に出掛けた。

 水根沢ルートを四時間登って頂上に着いた時、スマホにメールの着信音が鳴った。

 札幌の土手登志男からのメールで、連絡が欲しいとだけ書かれていた。恐らく空木が尾根道に出るまで、土手からの電波は届かなかったのだろうと空木は想像した。

 標高1736メートルの鷹ノ巣山の山頂からは、スマホの電波は立ち土手に繋がった。

 「空木さん、今日訳の分からない電話がかかって来ましたよ。電話の相手は例の町村と名乗っていました」

「なにっ、町村から電話だって」

 空木の声に、山頂にいた数人の年配のハイカーが振り向いた。

「それで町村は何と言っていたんだ」

 視線を感じた空木は、声を押えてハイカーたちに背を向けた。

 「山岡美夏さんの身内の方ですねって聞かれて少し慌てましたが、空木さんから言われていた事を思い出して「はい」と答えました。そしたら、こう言っていました。「手紙をいただきましたが、全く覚えがない事なので、東京に来られてもお会いするつもりはありません」と。空木さんは何の事か分かりますか。僕には当然ですが、訳が分からないことなので黙って聞くだけでしたが、町村という人の電話は一方的に切れました」

「そうか分かった。俺にも意味が分からないが‥‥。まさか町村から土手に電話があるとは思わなかった。面倒掛けて申し訳なかったが、連絡してくれてありがとう」

 電話を切った空木は、カップ麺を腹に入れたが、味が分からないほど慌てて食べた。

 下山は、石尾根縦走路を奥多摩駅に下った。

 長い下山路を下りながら空木は、町村に届いた手紙とは何の事なのか、誰が何のために出したのか。そしてその手紙を読んだ町村が、土手に「会わない」という電話を慌ててするということは、その手紙にはどんな事が書かれていたのか、山岡美夏に関する事に違いないだろうが‥‥。清美が出したのか、考え続けた。

 町村に手紙を出すことが出来る人間は、その住所を知っている人間、つまり清美という事になる。清美だとしたら清美は何のために町村に会いに来るのか。姉の失踪の、いや亡くなった手掛かりが掴めたのだろうか。

 奥多摩駅から国立駅への帰路の電車の中から、空木は清美に「町村康之さんに手紙を出しましたか」と単刀直入にメールを送ったが、国立駅に着くまでに清美からの返信はなかった。


 空木は山行からの帰りには、『平寿司』で一杯飲むことを大の楽しみにしていた。そして今日も『平寿司』の暖簾をくぐった。

 「今日は山登りに行って来たんですか。お疲れ様でした」

店員の坂井良子がそう言いながら、ビールを空木の前に置いた。

 空木が鉄火巻きと烏賊刺しを注文し、喉を鳴らしてビールを一杯、二杯と立て続けに飲み干すとスマホが震えた。清美からのメールかとスマホを見た空木は「‥‥巌ちゃん?」と呟いて店の外に出た。

 「健ちゃん、うちの課長が札幌中央署に聞いてくれたよ」

 石山田からの電話は、北海道警が山岡美夏の白骨化死体を事故か事件か、どう判断するかについての情報が入ったという意味だと空木は直感した。

 「えっ、課長ってことは、上司が聞いてくれたのか。それは申し訳ないやら、嬉しいやらだよ。それでどうだった」

「札幌に捜査本部を立ち上げたそうだ」

「捜査本部‥‥。ということは殺人事件という判断をしたということか」

「いや、殺人とは断定していないようだ。死体遺棄事件として本部を立ち上げたそうだよ。ただ、うちの課長が言うには、札幌中央署は当時救急車の要請もなかった事から事故死とは考えていないような言い方だったと言っていたよ」

 空木は、石山田に面倒を掛けた礼を言って電話を切ると店に戻った。

 空木がビールから焼酎の水割りに変わった頃、入口の格子戸が開いた。

 女将の「いらっしゃいませ」の声に迎えられて入って来たのは小谷原こやはらだった。

 「あれ、小谷原さん今日は水曜日ですよ」

 金曜日の来店がお決まりだった小谷原に、空木は壁に掛けられた日めくりのカレンダーを見ながら声を掛けた。

「ほら明日からオリンピックに合わせて祝日が移動になって四連休でしょう。だから今日飲みに来た訳ですよ」

 小谷原は空木の隣に座り、ビールと三種盛りを注文した。

「そうか、そうでしたね」

 空木は、改めて今週の金曜日が東京オリンピックの開会式だったんだと気付かされた。会社を退職した後は、時間の感覚がスローになったのと同時に、休日の感覚が極めて薄くなった。土曜、日曜は一週間のサイクルとして、それでもまだ認識しているものの、祝日となるとほとんど意識の中に無かった。

 「空木さん、その姿格好ということは、今日は山帰りですか」小谷原は空木の登山靴を見て言った。

「ええ、奥多摩の鷹ノ巣山からの帰りなんです」

「平日の山登りですか。良いですね、羨ましいですよ。ところでこの前空木さんと話した札幌の産婦人科の件はどうなりました。分かりましたか」

 そう言うと小谷原は、空木の酔いのペースに合わせるようにビールを一杯、二杯と立て続けに飲んだ。

 「まだ確認していないので分かりませんが‥‥」

 空木は返事を返した時、もしかしたら清美たちが産婦人科医院に出した手紙にどこかの産婦人科医院から反応があって、その事が町村への手紙に関係しているのではないか、という推理がよぎった。

 空木は、清美に「手紙を送った産婦人科医院から反応はありましたか」というメールを再度送った。

清美の働く理容店の閉店時間はとうに過ぎている筈だったが、清美からの返信は無かった。

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