第4話 ノートの秘密

 空木健介からのメールに返信のメールを送った山岡清美は、テーブルの上に置いたパソコンの画面を暫くじっと見つめていた。

 『やまおか』のチーママ永川咲は、姉が札幌からいなくなった当初、店の従業員と客には、ママである姉は体調不良で暫く店を休むという事にすると言っていた。

 空木の調べによれば町村康之は、姉がいなくなった翌月の十月一日付で東京へ異動、転勤しているという。ならば町村は姉の行方不明をいつ知ったのだろう。店の従業員から聞いたのだろうか、それとも客の誰かから後日聞いたのだろうか。

 清美は、翌日の理容店での仕事の間も、お客が途切れるたびにその事が気になった。

 仕事が終わった清美は、深堀和哉と連絡を取り、会うことにした。

 空木への返信のメールに自分の疑問を書いたものの、空木から答えが返って来るとは思えなかった。事情を理解してくれている深堀和哉に相談したかった。

 二人は南郷通り二丁目のラーメン店に入り、和哉は味噌ラーメンの大盛りを、清美は塩ラーメンを注文した。

 手話を一生懸命覚えようとしている和哉だったが、まだまだ片言の手話レベルで、清美と手話で話せるレベルではなかった。しかし清美にはそれが何にも増して嬉しく、姉の美夏の行方が分からない今は、和哉の存在が清美の心の大きな支えになっていた。

 筆談で清美の疑問を知った和哉は「チーママの咲さんに聞いてみたらどうか」と伝え、そして「もう一度お姉さんの残したノートを読み返してみよう」と勧めた。清美は指を二本立てた後、手のひらで胸を撫でて手話で「わかったわ」と伝えた。

 そしてスマホを取り出して永川咲に「東京に居る町村さんに、姉の行方不明の件を知らせた人が、従業員の方かお客さんの中にいないか聞いていただけませんか」という文面のメールを送った。

 暫くして咲から「従業員には連絡した人はいないが、お客は分からない」という返事が来た。

 和哉の車で東区の自宅に帰った清美は、姉の残した三冊のノートを取り出すと、部屋の外で待たせていた和哉に部屋に入るように促した。躊躇ためらう和哉に、清美は三冊のノートを手分けして読んで欲しいと伝え、部屋に入れた。時刻は夜八時を回って、札幌の夜は半袖では肌寒さを感じる程だった。

 二人は三冊を手分けし、清美は古いノートから読み始め、和哉は二冊目を読んだ。読み始めて四十分程して一冊目を読み終えた清美は、二人分のコーヒーを淹れ、和哉の前にコーヒーを置きながら、何か気になるような事が見つかったかメモに書いた。

 和哉は、メモ用紙に「YMは山登りが趣味。趣味が同じHTと話が合う」と書いて清美に見せ、清美が淹れてくれたコーヒーを飲んだ。清美も「YMは会社のお金をごまかしていたらしい」とメモに書いて和哉に渡した。

 三冊目はさほどページ数が多くはないことから、二人は一緒に読むことにして、二人の間にノートを置いた。それまで向い合せに座っていた和哉が清美の隣に座り、清美は今まで感じた事のない心のざわつきを感じた。

 ページを読み進めて八月下旬の日付のページで、清美がある個所を指差した。そこには「病院へ行く」と書かれていた。そしてノートは、九月の初旬を最後に終わっていたが、美夏の行方の手掛かりになるような記述は見つけられなかった

 清美はページを戻し、さっき指差した箇所を再び指差して和哉に顔を向けた。

 「お姉さんは病気だったのか?」と手話で聞く和哉に、清美は首を横に振った。

 和哉は「また永川さんに聞いてみよう」と伝え、清美もそれに頷いた。

 そして和哉は「病院へ行く」と書かれた日付の最後の記述「MY*448」を指差して「これは何だろう。YMの間違いだろうか」とメモに書いて清美に見せた。YM3,YM5などのイニシャルの後に数字が書かれていたことから、和哉は、MYはYMの間違いだと思い清美に同意を求めたのだが、不思議な記述だと思った。

 三冊のノートを二人が読み終えたのは、夜の九時に近かった。

 清美は和哉に手話と共に「あいがと」と精一杯の言葉を口にした。そして、メモに「お姉ちゃんは生きているのかな」と書いて和哉に見せた。和哉は胸の前で右手を左から右に動かして「大丈夫」と手話で返したものの、和哉も本心ではその確信は持てなかった。


 「姉は病院に通っていたのだろうか」という清美の問いへの永川咲の返信は「歯医者には通っていた時期はありましたが、その時期に体調を崩して病院へ行くとか、行ったとかという話は聞いた記憶はありません」という答えだった。

 清美はYMこと町村康之への不信感が増すとともに、「病院」という文字に姉の身に何かがあったのではないか。そのことで札幌を離れなければならなくなったのではないかと考え始めていた。二年前の夏、姉に何があったのだろう。どこの病院へ何のために行こうとしたのか、清美は知りたかった。

 清美はその思いを和哉に伝えると、和哉は「病院を捜してみよう」とゆっくり口を動かした。そして、少し考えてメモ用紙に「探偵の空木さんに相談してみよう。札幌で製薬会社に勤めていたから札幌の病院の事も知っていると思う」と書いた。


 空木が清美からのメールを見た時、テレビでは五十七年振りの東京オリンピックが、無観客で開催することが決まった、と報じていた。

 「町村さんが姉の行方不明を、どのように知ったのかはまだ分かりません。今日メールさせていただいたのは、ご相談に乗っていただきたい事があります」から始まった清美のメールは、姉の残したノートを読み返したところ、姉は行方が分からなくなる直前に、何らかの理由で病院に行ったようだ。姉が行ったと思われる病院を捜し、姉の身に何が起こっていたのか知りたいと思っているが、『やまおか』のお店の人たちにも心当たりは無いとの事。製薬会社に勤めていた空木さんならどのようにして捜し出すのか、アドバイスしていただけるのではないかと思ってメールをしたと書かれていた。

 「またノートが出てきたな‥‥」空木は呟いた。

 ベランダに出た空木は、どんよりした空を眺めながら美夏が何故病院へ行ったのか考えてみた。

 周囲に体調の不調を訴える事は無く、また周囲から見ても体調に変化はないように見えた美夏が、病院へ行った。可能性の一つは見舞いだ。見舞いだとしたら病院の見当は全くつかない。札幌の病院とは限らないから探すのは不可能だ。そもそも美夏の体の不調ではないのだから探す意味もないだろうし、見舞いに行くならそのノートに見舞いに行くと書くだろう。恐らく見舞いではない。

 人に言えない病気なのか、例えば性病ならどうだろうか。恐らく周囲には言わずに婦人科へ行くのではないだろうか。婦人科?生理不順?しかしこれは周囲に相談しそうだ。

 生理が止まったらどうだろう。妊娠の可能性があったらどうだろう。既婚者ならともかく、独身の美夏、『やまおか』のママという立場でもあり、周囲には相談出来ないのではないだろうか。妹にも相談し難いだろう。‥‥‥産婦人科に行った可能性がある。

 いずれにしろ産科婦人科のある病院か、お産の出来る産婦人科医院を当たって見るべきだろう。

 空木は、ベランダから事務所に戻るとパソコンに向かい、札幌市内の病医院を検索してみた。五十軒ほどの医療機関が産婦人科の病医院としてリスト表示された。この五十軒ほどを調べるのも容易な事ではないと思いながら、この病院を調べて病院に行った理由も分かったとしても、それで山岡美夏の行方の手掛かりが掴めるのだろうか、と空木は疑問に思った。

 空木は思い立ったようにスマホを手に取り、ある友人に電話を入れた。

 友人の名前は小谷原幸男こやはらゆきお、京浜薬品という製薬会社の多摩営業所の所長で、空木とは札幌に勤務している時からの友人であり、空木が万永製薬を退職した翌年、転勤で東京の国立に移って来たのだった。

 「仕事中すみません。小谷原さんに相談したいことがあるんですが、今日は平寿司に行きますか?」

 小谷原も平寿司の常連で、毎週金曜日の夜は、店に行くことを空木は知っていた。

 「今日は行くつもりですけど‥‥」

「札幌の病院の事で聞きたい事があるんで平寿司で待っています」


 小谷原が平寿司の暖簾をくぐって店に入って来たのは、空木がビールを飲み始めて二十分ほど経った夜七時過ぎだったが、梅雨明けはしていないとはいえ夏の空はまだ明るかった。

 小谷原はカウンター席に座る空木の横に座り、ビールを注文すると、

「相談って何ですか。札幌の病院の事だって言っていましたけど‥‥」とせかす様に聞いた。

「小谷原さんの会社、京浜薬品は産婦人科領域に強かったですよね」

「強いかどうかは分かりませんけど、オキシトシン製剤を販売していますから自然と産科領域とは関係が出来る事は間違いないですね」

 小谷原はビールグラスを空木に向けて掲げた。空木もそれに合わせて「お疲れさまです」と小さく言ってビールグラスを掲げた。

 「‥‥オキシトシン製剤ですか?」

「オキシトシンというホルモンを製剤化した薬で、子宮を収縮させる作用があって、陣痛促進剤として使われているんですよ」

「ということは婦人科というよりも産科に関係深いということですか」

「そうですね。それが空木さんの相談と関係があるということですか」

「そういう事なんです」空木は頷きながら鉄火巻きを口に入れ、焼酎の水割りを作り始めた。

「実は、二年前の八月頃に、ある女性が札幌の産婦人科にかかっていたようなんですが、その施設を捜す良い方法はないかと思って小谷原さんに相談しようと思った訳です」

「私で役に立つとは思えませんが、捜すのであればその人が札幌のどこに住んでいたのかが先ずは重要でしょうけど、住所は何処か分かっているんですか」

「今は分かりませんが、それは分かります」

「そうですか‥‥、産婦人科にかかる理由は何だったんですか。病気?妊娠?」

「それがどちらとも分からないんですが、仮に妊娠だとしたら施設を絞ることは出来ますか」

「そうですね。そこで産むつもりなら入院ベッドを持っている産婦人科を選ぶでしょうから、かなり絞ることは出来ると思いますよ。逆に言うとお産以外の目的で行ったとしたら絞ることは出来ませんね。母子手帳があればすぐに分かるんですが、無いという事ですよね」

「‥‥まあそういう事になりますよね‥‥」

 空木は、小谷原が言う「母子手帳が無い」ということは、妊娠の確認の為に病院に行ったという線は、無いということになるのかと思いつつも、まだ性病で婦人科にかかったという可能性もあると考えた。

 「‥‥とは言え、その人の住んでいた住所の周辺で産科ベッドのある病医院から当たっていくしかないでしょう」

小谷原はそう言うとビールを飲み干し、冷酒を注文した。

「二百万都市の札幌となればお産のできるところはたくさんありますよね」

「そうですね。でも病院以外の医院だったら案外少ないですよ。中央区なら二、三軒じゃないでしょうか」

「えっ、そんなもんなんですか。意外と少ないですね」

 空木は、山岡美夏が住んでいた区の周囲から当たってみたらどうか清美に伝える事にした。札幌には二つの大学病院を始め、お産が出来る大病院は数多くある。そこに行った可能性もあるが、まず調べ易い医院から当たるべきだと考えた。

 自宅兼事務所に帰った空木は、まず清美に姉の美夏の住まいの住所を確認するためメールを送った。

 美夏は中央区が住まいだった。空木は、中央区、豊平区、西区の三区のお産の出来る医院をリストアップし、清美に、お姉さんの住んでいた中央区およびその周辺から調べることを提案するメールを送った。そして最後に、数日中に札幌へ行くつもりであること、更にお姉さんが残したノートを読ませて欲しいことを追伸として書き、送信した。

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