第3話 探偵の調査

  「三年前まで札幌で勤務していまして、その当時御社の町村支店長にお世話になった万永まんえい製薬の空木うつぎと申します」

 空木健介は、東菱とうびし製薬の札幌支店に電話を入れた。町村康之の東京での所属部署を知る為だった。医療関係者は勿論、同業者からの問い合わせにも丁寧に対応することを空木は承知した上で電話を入れた。

 町村康之は、東京本社の営業本部営業戦略部長というポストで転勤していた。一昨年の十月一日付で異動したと札幌支店業務部の社員は教えてくれた。


 空木の自宅兼事務所は、国分寺崖線の上に建つ六階建てのマンションの四階にある。ベランダからの晴れた日の夕方、西に望む富士山は絶景で、特にオレンジ色のグラデーションに染まる空をバックにした、丹沢の山並みと富士山のスカイラインは、空木の大好きな眺めだった。そのベランダで考え事をするのが空木の常だったが、今日は生憎、梅雨の末期のひどい雨ふりで眺望は全く無く、近隣の街並みが雨のカーテンの向こうに霞んで見えているだけだった。

 空木は片手に缶ビールを持ちながらベランダに出て、煙草をくゆらせた。町村康之からの調査をどう進めるのかを考えていた。

 依頼された仕事は、依頼人の姉の行方の手掛かりを聞くことと、町村という人物の住所の調査だが、いずれにせよ面会しない事には始まらない。

 面会の理由を「ラウンジ『やまおか』の経営者の山岡美夏の行方を知らないか」だけでは電話で「知らない」と言われれば面会する必要性が無くなる。依頼者からの町村に対する情報は、ラウンジ『やまおか』の客という以外全く無いだけに、どういう理由にするのか考えなければならなかった。空木は嘘をつく事は大嫌いだが、人を傷つける事の無い限り、方便や多少のハッタリは許されると思っている。

 あと一つ、依頼者が山岡美夏の妹である事を知らせて良いものか。通常、依頼者の名前は守秘義務で明かしてはいけないが‥‥。


 二日後、空木は日本橋本町の東菱製薬本社に町村を訪ねた。

 約束の午後四時の少し前だった。面接ブースの一室に案内された空木は、町村が来るのを待った。

 昨日の町村への電話で、空木は自分が探偵であることを名乗った上で、山岡美夏の行方について調べている事を伝え、直接会って渡したい物があると言って面会の約束を取り付けていた。

 現れた町村は、「クールビズなのでこんな格好で失礼」と言いながら空木に営業戦略部長と印刷された名刺を渡した。

 そう言う町村は、ベージュ色の夏物のスラックスに半袖の濃いピンクのボタンダウンのシャツといういで立ちでマスクをしていた。ベージュの夏物ジャケットを着ている空木より格段にカジュアルの雰囲気は強かった。

 「探偵さんが、私に渡したい物というのは一体何でしょう」

 町村は空木の名刺をテーブルの上に置いて聞いた。

 「町村さんもご承知の通り、札幌のラウンジ『やまおか』の経営者、山岡美夏さんの行方が分からなくなって二年近くが経つそうです。私はその行方が分からない山岡さんの身内の方から依頼を受けて、所在の手掛かりを調べているのですが、依頼人から山岡さんは東京に居るらしい、ついては札幌勤務の当時、お店で山岡さんと親しくしていた町村さんに心当たりは無いか尋ねて欲しい、という依頼を受けて今日あなたにお時間を取っていただいたという訳なんです」

 空木は町村の名刺をジャケットのポケットに収めた。

 ラウンジ『やまおか』の客の中でも親しかったと、少し誇張した言葉を使うことで、面会する意味を強調しようとした。

 「あの店は取引先の接待に使っていましたから随分世話にはなりましたが、ママと特に親しかった訳ではありません。ですから行方の心当たりと言われても私には見当もつきません。何故私に聞いて欲しいということになったのか‥‥、私に聞くよりもママと本当に親しかった人に聞く方が宜しいんじゃないですか」

「私は、町村さんに聞いて欲しいと依頼されただけですので、その辺の事は分かりませんが、町村さんは山岡美夏さんと親しかったお客さんをご存知なんですか」

「いえそうではないんですが、あのママはすごく美人で、ママ目当ての客も少なからずいたようでしたから、その中に親しい人間がいたんじゃないかという意味です。それよりママが何故東京に居ると分かったんですか」

「さあ、その当たりの事についても私は存じませんが、依頼人も東京に居ると断定している訳ではないようです。居るかも知れないから町村さんに協力して欲しいという事だと思います。それでこの電話番号を渡してくれるように頼まれました」

 空木はそう言うと、バッグから一枚のメモ用紙のような小さな紙を町村の前に置いた。その小さな紙には090で始まる電話番号が書かれていた。

 「これは‥‥‥」町村は小さな紙を手に取った。

「身内の方の電話番号です。もし山岡美夏さんと出会ったり、見かけたり手掛かりらしい事に気付かれたら、ここに連絡して欲しいという事です」

 それは空木が、町村との面会の理由に考えた方法だった。依頼人の山岡清美の連絡先は教える訳にはいかない。空木自身の携帯の連絡先は渡した名刺に印刷されている。思いついたのは、後輩の土手登志男の携帯番号だった。土手なら今回の調査依頼に関わっているし、迷惑の掛かる度合いも限りなく低い。加えて町村から連絡が来る可能性も分からない中、万が一手掛かりの連絡があっても、言葉を交わすことが出来ない依頼者に代わって、土手が受ける方が好都合だと考えたのだ。ただ、土手への事前の了解は取っていなかった。

 「私に渡したかったというのはこの事だったんですか。ママに出会ったりすることはまず無いと思いますが、分かりました。これは預かります」町村はそう言うと腕時計を見た。


 空木は、町村に時間を取ってくれた礼を言って、東菱製薬の本社ビルを後にして近くのコーヒーショップに入った。

 時刻は午後四時半を少し回ったところだった。空木には山岡清美から依頼されたもう一つの仕事が残っていた。町村の自宅の住所を調べる為、空木は時間を待った。

 時間を待つ間、空木は依頼人の山岡清美への調査報告が期待外れなものになったと思いながら、町村が言った「何故、私に聞きに来たのか」ラウンジ『やまおか』のママ、山岡美夏が何故東京居ると思ったのか」という言葉が気になっていた。その根拠が何であれ、自分は依頼された仕事をすればいいのだが、探偵という仕事が少しは身についてきた所為なのか、気になった。

 ラウンジ『やまおか』の客は、十人や二十人ではないだろう。百人以上いる筈だ。その中で町村康之が浮かんだのは理由がある筈だ。東京に転勤してしまった客が町村だけだったのかも知れないが、だとしたら山岡美夏が東京に居るかも知れないと考えた根拠は何だろう。請け負った仕事を熟せばいいだけの自分が、それを知る必要もないが、気になるものは気になる。

 時刻が五時十分を回った。東菱製薬の終業時刻は五時半だろう。

 空木はコーヒーショップを出て、再び東菱製薬の本社に向かい、ビルの裏手の社員通用口の見える通りの角で町村が退社するのを待った。

 町村はまだ空が明るい六時過ぎに通用口から出てきた。ピンク色の半袖シャツは目立った。新型感染症拡大の為か町村を含めた社員の退社時間が早いような気がした。

 町村はJR新日本橋駅方向に歩き始めたが、新日本橋駅の地下への入口には入らず、中央通りを神田駅方面へ歩いた。町村の歩くスピードが速いように空木には感じた。

 町村は神田駅の南口の改札を入り、中央線のホームへの階段を上がっていった。エスカレーターは使わなかった。

 中央線快速の下り電車は、始発駅の東京駅から一駅にも拘わらず帰宅するサラリーマンでかなり混んでいた。リモートワークを国も東京都も強く勧めているが、通勤客はさほど減っているようには思えなかった。しかしその混雑が幸いしてか、同じ車両に乗った空木に町村が気付くことはなかった。

 町村は神田駅からおよそ四十分の武蔵小金井駅で下車し、北口へ出た。空木は一瞬、バスに乗られたらマズイ、気付かれると思ったが、町村はバスターミナルを素通りし小金井街道を小金井公園方面へ北上した。

 町村の足はやはり速かった。小金井街道から左に入り、歩き始めて十分程歩いただろうか、空木が汗を感じ始めた頃、町村は閑静な住宅地の一角の家に入って行った。

 小金井市貫井北町という住所を確認した空木は、来た道を武蔵小金井駅に向かった。


 中央線の国立駅で降りた空木は、北口を出て国分寺光町の自宅兼事務所に帰る途中、五分程歩いたところの商店街の端に近い、寿司屋の暖簾をくぐった。

 この寿司屋は『ひら寿司』という屋号で、平沼夫婦と主人の甥、そして女性店員の四人で切り盛りしている店だった。

 空木が万永製薬を退職後東京に戻って来て、一年ほど経った頃から通い始めた店で、二年ほどになる。趣味の山登りの後の『平寿司』での一杯は、空木の大きな楽しみだった。

 「いらっしゃいませ」と言う女将と店員の坂井良子の声に迎えられ空木が店に入ると、カウンター席から、髪を短く刈上げた陽に焼けた顔の客が、空木に声を掛けた。

 「よう健ちゃん、久し振りだな」

 声を掛けたのは、石山田巌いしやまだいわおという、空木の国分寺東高校の同級生だった。この石山田は、現職の警視庁国分寺警察署の刑事課係長で、空木とは「健ちゃん」「がんちゃん」と呼び合う仲だった。

 「巌ちゃん、来てたんだ」空木はそう言って石山田の隣のカウンター席に座りビールを注文した。

 空木はビールをグラスに注ぎ、石山田に向かって「お疲れ」と言いながらグラスを掲げた。

 石山田の前には、「空木」と書かれた芋焼酎のボトルが置かれていた。空木は鉄火巻きと烏賊刺しを注文してそのボトルを手に取り中身を確かめるように眺めた。

 「もう空だよ。どれだけ飲んだんだ」

「濃い目の水割り一杯飲んだだけだ。まあまあ小さいことは気にしない。寿司が不味くなるよ。それより仕事の方はどうなの、忙しいのかい」

「忙しい事は無いけど、今日は仕事終わりでここに寄ったんだ」

空木はそう言うと女将に新しい焼酎のボトルを頼んだ。

 「‥‥巌ちゃんに聞きたいんだけど、二年近く経った行方不明者って、見つけ出せるものかな」

「ん!仕事っていうのは、行方不明者捜しなのか?」

 石山田は新しいボトルで焼酎の水割りを作り始めた。

 「詳しい話は出来ないけど、まあそんなところだよ。ところで全国で年間何人ぐらいの行方不明者がいるのかな?」

 空木は鉄火巻きを摘まみ、慌てて焼酎の水割りを作り始めた。

 「うーん、確か認知症の高齢者も含めてだけど、年間八万人位いたように思う。ただ、一週間以内に七割りぐらいは見つかっている。死亡確認も含めてだけどね。二年以上経って見つかる人も数は多くないけどいるよ」

 石山田はそう言うと、空木の前のゲタから鉄火巻きを摘まみ口に入れた。

 「死んで見つかる人もいるって訳か」

「それはそうだな。行方不明者の届出人数のうち何パーセントかは死亡確認なんだから、二年経って見つかる人のうち死んで見つかる人の数も同じような率だと思う。ただ、白骨化してしまった死体での確認は簡単じゃないだろうけどね」

 空木は石山田と話しながら、調査依頼人の山岡清美は、姉が東京に居るかも知れないと考えて、自分に調査依頼をしてきた。ということは、生存しているという何らかの根拠があるのだろうと想像した。

 「それで仕事の方の目途は立ったのかい」

「行方不明者の手掛かりは無かったから、依頼者の目的は達しなかったけど、俺の仕事としては調査対象人の話を聞いて、住所を確認する事だったから、仕事は完了したという事にはなる」

 その時空木は、町村に渡した電話番号を書いたメモ用紙の事を思い出し、後輩の土手登志男にその事を伝えなければいけない事を改めて思い出した。

 空木と石山田は、主人の甥っ子の作る「特製パスタ」を締めに食べて店を出た。


 自宅兼事務所に帰った空木は、心地良い酔いの中でパソコンに向かい、依頼人の山岡清美宛てにメールを発信した。

 町村康之の東菱製薬本社での役職と自宅の住所を報告し、今日面会した内容については、会話を出来るだけ再現した形で報告した。そして正式な調査報告書は文書で送るとした。

 空木は追伸として、余計な詮索かも知れないが、自分が疑問に思っていることとして、二点を書いた。

 一つは、『やまおか』の数多い客の中で、町村康之という人物が調査対象者になったこと。

 もう一つは、行方不明の姉の山岡美夏さんが東京に居る可能性があると思ったことの二点だと書いた。

 しかし、その理由を教えて欲しいとはしなかった。

 メールを書き終え送信した空木は、土手登志男に連絡を入れた。

 土手を通じて依頼された東京での調査の成り行きから、土手の電話番号をある男に連絡先として使わせてもらった。その男から連絡が来るとは思えないが、万が一、覚えのない人物から電話が入ったら、話を聞いておいて欲しい、と依頼した。

 「僕も関係している話なので、連絡先に使ってもらう事は了解ですが‥‥、その人物の名前だけでも教えてくれませんか」

 土手の言う事は至極もっともだった。調査結果を教えられないのは当然としても、勝手に連絡先に自分の電話番号を使われて、どこの誰とも分からない男から電話があったら話を聞いておけ、では余りにも勝手な話だろう。

 「町村康之という東菱製薬の人間で、二年前まで札幌で支店長だった人物だ」

「東菱製薬の支店長ですか。同業とは言ってもお偉いさんですね」

「そういうことだ。万が一連絡があったら話を合わせてくれ。頼んだぞ」

「分かりました。ところで空木さんは、依頼人に会いに札幌には来ないんですか」

「うーん、今のところ行くつもりはないが、仕事じゃなくて『すし万』の寿司を食べに行きたいよ」


 翌日の東京は雨だった。

 空木のパソコンのメールに、山岡清美からの返信のメールが届いていた。

 そのメールには、調査の礼と町村に面会した結果、手掛かりがなかったことに残念としながらも、空木の文面から気になることが出てきたと書かれていた。

 それは、町村さんは既に姉の行方が分からない事を承知していたように書かれていたが、だとしたらそれをいつ、誰から聞いたのか気になる、と書かれていた。

 空木はそのメールを読んで、自分は『やまおか』のママの山岡美夏の失踪について、店に関わる従業員は勿論の事、常連と言われる客は承知していた事と思い込んでいたことに気付かされた。

 やはり事前の情報交換が足りなかった。依頼人がろう者だと知った事で、情報交換をおろそかにしてしまったことを後悔した。空木は探偵としての責務を果たしていないことに、探偵としての未熟さを痛感した。

 空木は、改めて町村との面会場面を思い返した。

 町村は山岡美夏が行方不明である事を自分から聞いた時、決して驚いた様子は無かった。町村は間違いなく知っていた。いつ誰から聞いたのだろう。しかし、それが山岡美夏の行方を知る手掛かりに繋がるのだろうか。空木には、この事がまたしても疑問として心に残った。

 清美のメールには、空木が疑問として追伸した二つの事についても書かれていた。それによれば、町村康之の名前が出てきたのは、姉が自分の部屋に残したノートに、YMのイニシャルが数多く書かれていた事から、YMに該当する町村さんに行方の心当たりを聞いて欲しかった。そして姉が東京に居るかも知れないという根拠は、姉の名前で送られて来ている手紙の消印が、東京だったからだった、と書かれていた。

 「ノートと手紙‥‥‥」空木は呟いた。

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