第2話 姉妹の絆

 山岡清美は北海道の南の日本海側の町、江差追分えさしおいわけで有名な江差町で生まれた。

 姉の美夏みなつが、小学校三年生。両親は小さな居酒屋を夫婦二人で営んでいた。

 清美は姉と同様に、江差の道立江差病院で生まれたが、その後の検診で聴力障害を指摘された。母の美乃よしのは妊娠中に自分が風疹に感染したしたことが原因だと、自分を責めた。父は自分が妻の美乃に感染させたのだと悔やんだ。

 成長していく清美は、音には全く反応が無く、片言の言葉も周囲が理解できる言葉にはならなかった。

 家族は、姉の美夏が中学に入学するのを機に、函館に引っ越すことを決めた。清美を函館のろう学校に入学させるために、家族全員で函館に移ることを決めた。清美が五歳の時だった。

 江差の居酒屋を畳んだ両親は、父は運送会社のドライバーに、母はスーパーマーケットのパートで働き、二人の娘を育てた。

 清美が聾学校に通い始めると、両親も姉の美夏も毎日日課として清美と一緒に手話を勉強した。上達が最も早かったのは、中学生の美夏で、清美は姉と毎日学校での出来事や、授業の話をすることが楽しみだった。

 帰りの遅い両親に代わって、清美の食事の世話から毎日の学校の支度をしてくれたのは姉の美夏だった。八歳の年の差は清美にとっては、姉と言うよりも母が二人いるようで、不便を感じることは全く無かった。

 一方美夏は、中学から高校の女の子にとって最も多感な時期を、妹の清美に全て注いでいたと言っても良いぐらいだったが、それで不満はなかったし、両親に不平を漏らすことも無かった。

 そんな美夏が、清美と街中を歩く時一番神経を使ったことは、後からの車や自転車だった。聴力に障害を持つ妹にとって、後ろからの気配に音で気づく事は不可能なことであり、特に歩道を走ることが多い自転車は、ベルを鳴らせば通行人は気付くと思っている。それは清美にとっては、恐ろしい凶器になると美夏は思っていた。だから歩道では、手を繋ぐか自分の前を歩かせるように気遣っていた。

 こうして落ち着いた函館の暮らしだったが、美夏が高校二年の冬、山岡家にとって、いや美夏にとって大きな事件が起こった。父、良治が凍結した道路のスリップ事故で突然死んでしまったのだった。

 進学するつもりでいた美夏は、進路を変更し地元の小さな商事会社に就職する道を選んだ。しかし就職した美夏は、そこの経営者からのしつこいセクハラに遭い退職した。次に就職した食品会社でも上司からのセクハラのために一年足らずで退職した美夏は、世の中の男に嫌気がさすと同時に、自分の容姿が男の気を引く事を意識した。

 その頃清美は、聾学校の中学部に進級し、先々の進路を考えなければならない年齢になっていた。北海道の高等聾学校は札幌に近い小樽にあり、清美はその北海道高等聾学校への進学を希望していた。

 妹の希望を叶えてあげたいと思っていた美夏は、仕事として男性客相手の仕事にはなるが、高収入も期待できそうなクラブのホステスを選択した。函館で一、二の老舗のクラブで働き始めた美夏が、俗にいうナンバーワンになるのにさほど時間はかからなかった。

 美夏は母の美乃よしのに、寄宿舎費用も含めた学費は、自分が出すから清美を高等聾学校に行かせてあげようと相談した。

 そして清美は、函館聾学校から北海道高等聾学校へ進学することになり、学校の寄宿舎に入舎した。それに合わせて美夏は札幌薄野すすきのの老舗クラブへ入店し、札幌へ移り住んだ。母の美乃は函館に留まった。

 姉妹が函館を出て間もなく、母美乃は再婚することを娘二人に告げて函館を出た。帰る家が無くなった清美は、姉の住む札幌のマンションに帰るしかなくなり、長期の休みは美夏の部屋で過ごし、食事などの家事を任された。

 清美が高校三年生になった夏、清美は進路の相談を美夏にした。清美が理容学校に行きたいという意志を伝えると、美夏は「何故、理容師なのか。女性客が多い美容師の方が良いのではないか」と伝えた。清美は「手に職を持ちたい。理容師ならお年寄りから子供まで役に立てる」と手話で伝えた。

 二年間の理容学校の費用は、当然美夏が捻出した。二百万円を超える費用だったが、美夏は負担どころか嬉しい気持ちが強かった。清美の進みたい方向、清美の人生の役に立つことが嬉しかった。

 二年間の理容学校を卒業後、清美は札幌市内の理容店に住み込みの形で勤め、その年の秋の資格試験に合格、晴れて理容師の資格を取った。

 美夏は独り立ちして行く妹の姿に、喜びと一抹の寂しさを感じたが、この頃には美夏は、薄野すすきので独立して店を持つという目標を持つようになっていた。

 その後美夏は、薄野のクラブに勤めて七年経った三十歳で目標を実現した。薄野でラウンジ『やまおか』を開店したのだった。江差で両親が開いていた居酒屋「山岡」の名前を使い、アルバイトも含めて五人の従業員でスタートした。そして六年経った一昨年、『やまおか』は従業員十人を雇う繁盛店になっていた。

 その年の九月中旬美夏は、部屋に書置きを残し忽然と姿を消してしまった。美夏三十六歳、清美二十八歳の時だった。


 清美が、美夏の失踪を知ったのは、『やまおか』のチーママと称する永川咲からのスマホのメールだった。

 「美夏ママと丸一日連絡が取れないが、何か知らないか」というメールだった。

 清美は永川咲という女性を知らなかったし、チーママという存在がどんな存在なのかも知らなかったが、永川咲という女性は、清美のスマホの電話番号を知っていた。後から知ったことだが、美夏は永川咲に清美の存在と電話番号を伝えていた。

 永川咲のメールは、姉に何かが起こったことを想像させた。

 清美は美夏のスマホにメールを送信したが、いつまで経っても返信は無かった。

 清美は仕事が終えてから、姉のマンションのある札幌市中央区の中島公園の西にあるマンションに行くと、以前から渡されていた鍵で部屋に入った。2DKの室内はキッチンも部屋も綺麗に片付けられていた。

 清美は部屋を見て回った。リビングのテーブルの上に一枚の印刷された手紙が置かれていた。宛名は書かれておらず、「訳があって札幌を離れます。落ち着いたら連絡しますから探さないでください」と書かれ、さらに追伸として、「お店はチーママに任せます」と書かれていた。

 清美は手紙があった事と、行き先が分かるようなものは無かった事、自分にも行き先の心当たりは無いことを永川咲にメールで伝えた。

 永川咲からは、「心配だけどしばらく様子を見ましょう。いつでも良いので一度お店に来てください。相談しましょう」という返信があった。特定の相談相手がいない清美にとっては、永川咲からの「相談しましょう」というメールの一文はありがたかった。

 清美は勤め先の理容店の主人に事情を説明し、薄野の繁華街へ行くことを伝えた。その時、たまたま店に居合わせた客が清美と主人との筆談をじっと見ていた。そしてその客は、主人を介して清美に薄野への同行、案内を申し出た。

 その客の名前は、深堀和哉ふかぼりかずやと言って土木作業会社に勤める三十歳の男で、この理容店にはもう五年程通っている。清美にも何度か髪を切ってもらっていて、清美の聴力障害のことは承知していた。清美も顔は知っている客だった。

 心細かった清美は、左手の上に右手を乗せて上に上げながら頭を下げ「ありがとう」を手話で示した。

 深堀は右手の小指を顎にチョンチョンと当てた。

 清美は驚いた。深堀は手話で「どういたしまして」と返事をしたのだった。


 夜の八時過ぎの薄野すすきのは、さほどの人通りではなかったが、清美にとって斜め後ろを、自分を守るように歩く長身の深堀和哉の存在は心強かった。

 ラウンジ『やまおか』は、南5西2のサンダーボルトビルと名付けられた飲食店ビルの十階にあった。この『やまおか』に清美が来るのは、店のオープンの直前に姉の美夏に案内されて来て以来だった。

 店は客で賑わっていた。チーママの永川咲にとっては、初めて会う清美だったが、清美がドアを開けると直ぐにそれと気付き二人を丁重に迎えた。

 店内は喧騒に包まれていたが、清美と咲の筆談は淡々と進んでいった。

 咲は、店の従業員と常連客には、美夏は体調を崩してしばらく休養すると言っている。『やまおか』の営業は、美夏が戻ってくるまでの間自分が責任を持って続けることを清美に伝えた。

 清美は、姉のスマホにメールを送っても返信は未だに来ないこと、姉が札幌を離れる理由に心当たりが無いこと、そしてマンションにあった置手紙が、姉が書いたものなのか定かではないので心配だということを伝えた。

 咲も美夏が、店を放り出す理由は分からないと伝え、二人は警察に捜索願を出すのか、このまま様子を見るのか相談した。咲は、清美の不安げな表情からその思いを察してか、届けた方が良いと勧めた。

 清美の横に座っていた深堀が、自分が清美と一緒に警察に行くことを伝えた。

 翌日、清美は深堀和哉が運転する車で札幌中央署に行き、美夏の顔写真とともに捜索願を提出した。受理した警察からは、美夏の名前での置手紙の存在もあり、直ぐに生命の危険があるとは考えにくいため、一般家出人の扱いになる。子供など生命の危険が迫っているような状況なら特異行方不明の扱いで即座に捜索に入るが、美夏の場合は、積極的な捜索は出来ないので、新たな情報が入ったら警察に知らせて欲しいと伝えられた。つまり警察は積極的に探すことはしないということだった。

 その後、美夏からは何の連絡もない中、九月の下旬、永川咲から清美にメールが届いた。それは美夏から店宛に手紙が届いたという知らせだった。「元気でいるから、安心して。お店を頼みます」という簡単な内容だけで、住所も何も書かれていないという事だった。

 その手紙の消印が仙台中央なので、仙台から出された手紙に間違いないと思う。美夏は仙台にいるのかも知れない、と書かれていた。

 何故仙台に行ったのか、全く心当たりがない清美は、美夏のマンションの部屋に行き先の手掛かりが無いか、隅々まで丁寧に探した。

 見つかったのは、美夏名義の銀行の通帳と、そして日記のようなノートが数冊、物入れの奥から出てきただけだった。ノートはパラパラとめくって見ただけで、姉のプライベートに踏み込むようで詳しく読むことはしなかったし、簡単に読めるようなページ数でもなかった。 

 一方、通帳は残高を見る限り、当面生活していくには十分な金額が残されていた。美夏がキャッシュカードさえ持って出ていれば生活に困ることはないと思った。そしてどこかでキャッシュカードを使ってくれれば居場所が特定出来る筈だ、と思った。

 何であれ、何処かで姉が元気でいてくれればいずれ会えると思うようにした清美は、仕事の休みの日は、美夏がフラッと帰ってくるような気がして美夏のマンションに行って過ごすようにした。

 深堀和哉は、車で清美を美夏のマンションへの送り迎えをしたが、一緒に部屋に入ることはしなかった。

 年が明けて新型感染症で世間が騒がしくなった頃、ラウンジ『やまおか』に美夏から二度目の手紙が届いたことが咲からのメールで清美に知らされた。

 文面は、最初の手紙と同じ様に簡単な文章で、「元気でいるから安心して下さい。お店をよろしくお願いします」だった。ただ、最初の手紙と違ったのは、消印が東京中央になっているということだった。

 永川咲を『やまおか』に訪ねた清美は、咲からチーママとして店を預かった半年の間の収益の一部を、美夏の口座に振り込ませてほしいという申し入れを受けた。

 入金の確認をした美夏の口座の通帳には、引き出された形跡は無く、管理費、光熱費やらの引き落としが定期的にされているだけだった。

 姉はどうやって生計を立てているのだろうか、誰かに支援を受けているのだろうか。清美の心は不安の雲が広がっていった。そして、清美にはもう一つ、寂しい疑問があった。それは、妹である自分の事に二度の手紙がまったく触れていないことだった。

 聾者ろうしゃである自分が、江差から函館、そして札幌と移り住み、今理容師として生活が出来ているのも、姉の美夏なしには考えられないことだ。姉はいつも自分の事を気にしてくれていた。そんな姉が自分の事に全く触れないという事は、札幌を離れたかった理由に、自分も影響しているのではないだろうか、聾者の自分から離れたかったのではないだろうか。そんな事を考えると悲しくなった。

 深堀和哉は、清美のそんな思いを伝えられ、「そんなお姉さんでは絶対にないから、そんな風に考えてはダメ」と慣れない手話で伝えて清美を慰めた。そして和哉は、美夏の残したノートをじっくり読んでみたら、札幌を離れた手掛かりが書いてあるかも知れないと、清美に読むことを勧めた。

 清美は、美夏がマンションに残したノートを最初のページから読んでみることにした。

 三冊に及ぶノートは、『やまおか』の新規オープンと同時に書かれ始めていた。毎日ではなかったが、姉の周りで起こった出来事や、店の客入りなどが書かれ、『やまおか』の客が増えていくことを励みにしながらオーナーママとしての頑張りが書かれていた。

 そのノートでは、美夏の行方の手掛かりになるような記述は見当たらず、人の名前を現わしていると思われるアルファベットとともに、客と思われる人の特徴が書かれていた。恐らく客を覚えるために書いていたのだろうと思うと、理容店で同じようにお客さんを覚えなければならない清美は、感心して読んだ。

 

 ラウンジ『やまおか』宛の美夏の手紙は、その後半年毎に届いた。消印は全て東京中央だった。

 この頃には既に『やまおか』の従業員は勿論、常連の客にも美夏のことは知れ渡っていて、釧路で似た女性を見たとか、北見のスナックに居たというような情報が永川咲の耳に入ったが、全て誤情報だった。

 清美は、咲からの連絡を受けるたびに、姉は何故これほどまでに居場所を明かさないのか、明かせない理由があるのだろうかと思うばかりだった。

 札幌にも桜の開花が告げられる頃、清美は深堀和哉とともに『やまおか』に永川咲を訪ね、美夏の部屋に残されていたノートを読んでもらう事にした。

 しかし咲が読んでも行方の手掛かりは見つからなかったが、イニシャルと思われるアルファベットをいくつも見て、その中でも何度も書かれているYMという文字が気になると言って、店にある分厚い名刺ホルダーを持ち出した。それは美夏が残した『やまおか』が開店してからの客の名刺だった。

 YMに該当する名刺は二枚あった。咲は念のためMYに該当する名刺も探し、やはり二枚抜き出した。四枚の名刺を二人の前に置き、このうち三人は今も札幌に居て店に来てくれているが、一人は札幌から転勤した筈だと、咲は筆談で清美に伝え、このYMさんに話を聞いてみたらどうかと勧めた。

 清美が手帳に名刺の名前と連絡先を控えていた時、横に座っていた深堀和哉が「YMの後ろに書かれている3とか5とかの数字はなんでしょうか?」と咲に聞いたが、咲は「‥‥さあ何でしょう」と言って首を捻るだけだった。

 その札幌から何処かに転勤したという客の名前は、町村康之、東菱製薬札幌支店支店長と名刺には印刷されていた。

 町村康之は東京に転勤したことまでは分かったが、それ以上のことは清美と深堀には分からなかった。

 深堀は勤務先の北遠土木工業の社長に、東京の調査会社に心当たりはないか聞いたのは、五月の末のリラ冷えする頃だった。

 二週間後『すし万』の主人から連絡を受けた社長の遠山は、空木うつぎと言う製薬会社を退職して、東京で探偵事務所を開いている人物が、調査を引き受けるという話を深堀に伝えた。

 深堀はその事を清美に伝えた。

 「無駄なお金になるかも知れないが、ダメで元々で調査してもらおう」と深堀和哉が、メモ用紙に書いた意見に、清美は頷いた。

 そして数日後、清美は「スカイツリー万相談探偵事務所」宛に調査依頼の手紙を投函したのだった。

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