声なき追跡者 ーハマナスの標ー

聖岳郎

第1話 北国からの依頼

 関東地方に続き東北地方が梅雨入りした六月中旬、梅雨のない北海道は一年で最も快適な季節を迎える。

  札幌の繁華街薄野すすきのの南に位置する中島公園の脇の歩道を、薄野に向かって中堅製薬会社の万永まんえい製薬に勤める土手登志男どてとしおは歩いていた。

 土手は、札幌駅に続く広い道路を北に向かって歩き、南6西3と書かれた交差点を右に折れた。陽がまだ高い土曜日の夕方、観光客の姿も少なく人通りは多くは無い。

 札幌の六月は、札幌よさこいソーラン祭りや北海道神宮の例祭などで、人々の活気は最高潮になり、薄野の街も人で溢れるが、今年は新型感染症拡大の影響で、祭りも例祭も中止になり、日本有数の歓楽街の薄野も、飲食店が店を閉めなければならなくなるほど人出は少なかった。

 土手には、心なしか薄野のネオンの数が減ってきているように思えた。

 土手は、南6西2の交差点に程近い、飲食店の入るビルの一階に店を構える寿司屋の暖簾をくぐった。

 その店は、『すし万』という屋号で、須川という夫婦が長年競争の激しい薄野で店を続けている寿司屋だった。

 カウンターの端に座って、ビールグラスに口をつけた土手に、日頃口数が多くはない主人の須川が、珍しく「相談がある」と言って話し掛けた。

 「実は、空木うつぎさんに調べて貰いたい事があるんですが、土手さんから頼んでもらえませんかね」

 すし万の主人が言った空木うつぎというのは、万永製薬の土手の先輩で、今は退職して東京で探偵事務所を開いている男のことだった。土手より五歳年上で名古屋支店在籍時には、何度も二人で山行した間柄だったが、その土手も空木が何故会社を辞めたのか、尋ねる機会もなくその理由は知らなかった。

 「ご主人も空木さんとは親しいんですから直接電話したら良いじゃないですか。頼み難いような事なんですか」

「まあそう言わずに、土手さんと空木さんは、何度も一緒に山に登っている仲だと見込んでのお願いなんです」

 主人はそう言って、小振りのたらこのような物を小皿に入れて土手の前に出した。

「これはサービスの時子ときこです」

 時子ときことは、時知らずと呼ばれる鮭の卵のことで、札幌の寿司屋の中でもこの時子ときこを出す店は滅多になかった。

 時子ときこを見た土手はニコッと笑った。

「空木さんに調べて欲しい事ってどんな事なんですか。まさか東京にいる空木さんに北海道へ来いって言うような話じゃないですよね」

「いえいえ、その逆で東京にいるからこそ空木さんに頼みたい調べ事なんですよ」

 主人は、店の常連でもある、ある土木工事会社の社長から、東京に住んでいると思われる、ある男の所在の確認と、調べて欲しいことがあるが、東京に誰か頼める知り合い、しくはコネは無いかと聞かれ、空木を思い浮かべたことを話した。

 「ふーん、なるほど。‥‥それで何を調べたいんですか。怪しげな話じゃないでしょうね」

 「それはあの社長の事ですから無いと思いますけどね。信用の置ける人です。聞いた限りでは、社長の会社の社員さんの知り合いが行方不明になっているらしくて、その情報を東京にいるらしいその男性が、知っているかも知れないので調べたいって言っていましたよ」

主人は腕を組みながら言った。

「行方不明ですか‥‥」

「ええ、行方不明になって、もう一年以上経つそうです」

「一年以上ですか。警察には届けているんでしょうね。‥‥そう言えば今日のニュースで一年以上経った白骨死体がどこかの山で見つかったって言っていましたよね」

「あのニュース私も見ましたよ。土手さんも見たんですか。ヒグマにでもられたんですかね。山菜取りやキノコ採りで、クマに鉢合わせは北海道では良くある話ですからね。白骨死体が見つかったのは斜里岳しゃりだけとかって言っていましたね」

「まさか、その行方不明の人じゃないでしょうね」

「土手さん、縁起でもない事を言わないで下さいよ」

「そうですよね、捜している人たちにとっては冗談じゃない話ですもんね。‥‥大体の話は分かりましたから、今からでも空木さんに連絡して見ます」

 土手はそう言うと、ビールグラスに入っていたビールを飲み干して店の外に出た。人通りは多くなかった。 

 夏至げし間近のこの季節の空はまだ明るく、良く晴れた空は青一色だった。


 空木健介うつぎけんすけ四十四歳、独身。三年前、中堅製薬会社の万永製薬の札幌支店を最後に中途退職。東京国分寺市で、自分の名前の空(スカイ)と木(ツリー)にちなんで命名した「スカイツリーよろず相談探偵事務所」を開設した。

 国分寺市光町の国分寺崖線と言われる高台に建つ、六階建てのマンションの四階の自宅を事務所と兼用にして、所長兼事務員兼調査員という一人事務所を始めた。開所三年経過し、仕事は少しずつ増えて来ていたがその内容は、ペットの猫探しやら高齢者の通院の付き添いやら不倫調査などだった。ただ何故か、殺人事件絡みの調査にも関わった。そんな状況にも拘わらず、趣味の山登りと週に何度かのアルコールを楽しみにしていることから、年金生活の両親のすねを未だにむさぼり食っている。

 土手とは札幌支店の在籍はすれ違いだったが、名古屋支店在籍時代に後立山うしろたてやま連峰や奥秩父の主脈縦走を共にしている山仲間だった。


 空木健介は、六、七回のコールの後スマホに出た。

 「空木さん、土手です。今話して大丈夫ですか」

 土手はスマホを右手に持ち替えて左手首の時計を見た。午後六時半を回ったところだった。

 「大丈夫だ。いつもの寿司屋で飲んでいるところだけどどうした、何か用事か?」

「空木さんに仕事を頼みたいという話なんですが、今事務所の仕事は忙しいんですか」

「お前、その言い方は忙しい筈が無いという言い方だな。図星だろう」

「さすが探偵さんですね。勘が鋭い」

「もうすぐ一仕事片付く筈だから引き受けられると思うが、一体どんな依頼なんだ。まさか北海道に行って仕事しろとでも言うんじゃないだろうな」

「残念ながらそうじゃないんです。東京である人物の所在の確認と、ある調査をして欲しいという依頼なんです」

 土手はそう言うとついさっき、すし万の主人から聞いた話を空木に伝えた。

 「すし万の大将の頼みなのか。須川さんの頼みなら引き受けるしかないけど、依頼者と直接やり取りしたい。そう伝えてくれ」

 店内に戻った土手が主人に空木の返事を伝えると、主人の須川は両手を顔の前に合わせて頭を下げ、礼を言った。


 土手からの仕事の依頼の話があってから何の連絡もなく、一週間以上が経過した。

 空木がトレーニングジムから戻って、事務所のあるマンションのスカイツリーよろず相談探偵事務所という小さなプラスチックの板が貼られたメールボックスを開くと、一通の封筒が入っているのが見えた。例の依頼に関する手紙だと直感した空木は、スカイツリー万相談探偵事務所御中と表書きされた封筒を裏返して差出人を確認した。

 差出人は、札幌市東区の住所の横に、山岡清美と書かれていた。空木は「‥‥女性だったのか」と呟いた。

 自宅兼事務所に戻った空木は、封筒を開けた。

 その手紙は、横書きの便箋に、ボールペンで丁寧に書かれていた。見るからに女性が書いたと思われる綺麗な字だった。

 調査を引き受けてくれたことへのお礼から始まり、その後に調査の目的と具体的調査内容、そして調査対象者の名前が書かれていた。

 それによれば、目的は、自分の姉が二年近く前から行方不明になったままだが、その姉が東京にいるかも知れない。その手掛かりになる情報をある男性が知っている可能性があるので調べたいが、その男性は今東京にいるらしく、北海道では調べる事が出来ないので空木に頼むことになったという内容だった。

 行方不明の姉は、山岡美夏やまおかみなつ、失踪当時36歳独身。薄野でラウンジ『やまおか』を経営していた。

 調査対象者は町村康之、『やまおか』の客で、姉の失踪当時は東菱製薬札幌支店支店長と書かれ、最後に依頼者である山岡清美やまおかきよみの札幌市東区の住所とともに、スマホとパソコンのメールアドレスが連絡先として書かれていた。

 空木は手紙を読み終えて、一抹の不安と小さな疑問を抱いた。不安は、空木が探偵業を始めた三年前、同じように手紙で仕事を依頼され、何の疑問も持たずに請け負ったが、あろうことか殺人事件に巻き込まれてしまったという記憶が蘇ったためだった。

 そして小さな疑問は、スマホのメールアドレスは書かれているのに、電話番号が書かれていない事だった。あの時も、この依頼の手紙と同じように、電話番号は書かれていなかった。

 空木は不安を頭の片隅に押しやり、小さな疑問は調査を引き受けたことの連絡とともに山岡清美宛てにメール送信した。

 しばらくして空木のスマホが、メールの着信を知らせた。山岡清美からの返信だった。

 それを見た空木は「えっ!」と小さく声を上げた。

 依頼者の山岡清美は聾者ろうしゃだったのだ。

 そのメールの文面は、自分は先天的な聴覚障害のため、電話で話すことが出来ないことを詫びる文面のメールだった。

 清美の返信を見た空木は、驚きと同時に清美に嫌な思いをさせたのではないかという申し訳なさが重なり、山岡美夏という姉の行方の手掛かりを見つけてあげたいという思いがたかぶった。

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