第36話
「甘えたこと? この苦しみを甘えだって言うの?」
「そうです」
リネッタの即答に、信じられないものを見るような目になったベアトリスは、怒りと悔しさをごちゃまぜにして眉間に皺をよせる。リネッタに掴まれている両肩が煩わしくて、思い切り体を捻った。
「そんな失礼な口を聞いて、国際問題よ!」
「先ほどのベアトリス様の発言は国際問題以前のお話です」
「なんですって…」
ベアトリスが睨みつけるリネッタの表情もまた怒りに満ち溢れていた。
リネッタの視線の鋭さに射抜かれてしまいそうで、ベアトリスの背筋が一瞬ゾクリと震えた。
「ベアトリス様は聖女です。それは紛れも無い事実でしょう。その役割がどれだけ貴重でどれだけ大切なものかはベアトリス様もご存知のはずです」
初めてベアトリスと出会った日は、念願だった聖女が見つかったという吉報から始まった。
両陛下の安堵に緩んだ笑顔がどれだけ幸福そうだったか。そんな二人を見てシルビオもまた嬉しそうで、当事者意識が少し薄かったリネッタも同じように幸せな気持ちになれた。
ベアトリスが聖女として就任するとなった時に挙げられた祭りが国内最大規模だったことも記憶に新しい。国中の喜びと賑わいに聖女という存在の大きさを実感した。
そしてそれが、リネッタがどんどんと引け目を感じていくぐらいの大きさであるとも理解した。
「けれど今のベアトリス様の発言は、聖女であることの責任感がありませんでした。まるで、シルビオと結婚するために聖女でいるかのような、そうでなければ無意味だとでも言うような言い方でした。違いますか?」
「なによ、そんなの……そんなこと…!」
「聖女という存在がどれだけ国民に力を与えているか、知らないとは言わせません。力がなくなったからといって放棄できるものでもないでしょう?」
「何を言っているの? 聖女の役割は聖女だけの魔力で水を浄化すること。それができないんなら聖女たりえないのよ。力がなければ何の意味もないの!」
「いいえあります」
「力のないあなたが言っても何の説得にもならないわよ…!」
「力のない私でもできることがあるから言っているんです!」
リネッタが反論の声を強くし、ベアトリスが肩を跳ねさせた。
リネッタの視線は変わらずベアトリスを射抜くように見据えている。ベアトリスは視線を逸らす。
「そんなの、口ではどうとでも言えるじゃない」
もう言葉は聞きたくないと言うように、ベアトリスは右耳を包み込むようにして自身の髪の毛をくしゃりと掴んだ。
これ以上の言い合いは無駄だろうとリネッタも感じ、ふぅとため息をついたらベアトリスに向かって頭を下げた。
「どうかこのまま諦めることないよう願います。私もシルビオも、ベアトリス様のお力が戻るよう尽力させていただきます」
謝ることはしなかった。リネッタもまだ怒りを発散しきれていないため、皮肉を込めたような捨て台詞になってしまった。
さっさと踵を返して本来の目的である禁書庫での調べ物に向かう。
ベアトリスが呼び止めることもなく、二人の距離はすぐに開いた。ただ、離れていくリネッタの後ろ姿をベアトリスはじっと見つめていた。
「……部外者のくせに、なんで……」
ベアトリスは自分でもよくわからない混沌とした感情を抱き、海風の激しさに髪が大きく揺らされると逃げるようにその場を後にした。
リネッタの言葉たちが、心の中の至る所に突き刺さっているような、そんな感覚をおぼえていた。
「何度出て行こうかと思いましたが、掴み合いの喧嘩などに発展しなくて安心しました」
「いっそ掴み合いの喧嘩して頬のひとつでも叩けばよかったわ」
リネッタの未だ怒りに燃える発言に、内容を想像したネルソンが恐ろしさにうち震えた。
「その場合不利になるのはリネッタ様です」
「わかっているから我慢したの。ベアトリス様のために動いてるのに、本人を傷つけて余計な問題に発展したらその分だけ遅れが出るんだから」
わかっているのならまあいいか、とネルソンもそれ以上言及することはなかった。
再び浜辺に視線を向けたが、いつの間にかベアトリスの姿はなかった。荒れかけている波の様子をぼんやりと見て、帰ってくれたのならよかった、とリネッタは少し安堵した。
「お待たせいたしました。禁書庫はこちらになります」
司書の声にハッとして振り向き、リネッタはようやく図書館へと足を踏み入れた。
学生時代によく勉強した机群を抜け、その奥の小説ゾーン、さらに奥の郷土資料ゾーンも抜け、入り口から一番遠い場所に関係者用の扉がある。その扉を抜けて、さらに歩いた先に地下へ降りる階段があった。
薄暗い階段に、聖堂が作った簡易魔道具による灯りをつければ、ひとまず足元が見えないという事態は避けられた。
ゆっくりと司書の後をついて歩けば、また重厚な扉が立ちはだかる。
リネッタがシルビオから貰った栞のような入室許可証を司書が手に取ると、扉の隣にある薄く小さい水槽のようなものに許可証を挿し入れた。
すると許可証がほどけるように消え、インクが水に溶けて透明だった水槽の色が深い青色に変わった。許可証に印字されていたのは赤色だったはずなのに不思議だ、とリネッタがまじまじと観察していると、扉の鍵が開いたような音がした。
「不思議でしょう。これも聖堂がお作りになった仕掛けなんですよ」
と司書は言った。
「許可証の不正発行防止のためです。この水と反応して色が変わる特別なインクでないといけません。紙も、ただの紙ではそもそも水に溶けませんからね」
「なるほど……」
仕組みを理解しようと思わず頭を働かせそうになるが、解明してしまってはセキュリティの意味も無くなるし、そもそも魔法にも科学にも詳しくないリネッタが考えたところで答えが出るわけがないので、無意味なことだと早々に考えるのをやめた。
そうこうしているうちに、禁書庫の光景が目の前に広がった。
「お、思ったよりも広いですね…!?」
禁書庫は、さらに地下をくり抜いたような吹き抜け構造でたくさんの書物を管理していた。
へりにつかまり、膨大な本の数を見下ろすリネッタが前のめりになって落ちないようにハラハラとした気持ちでネルソンが見守る。
「私は入口にて見守っております。何かわからないことがあれば気軽に聞いてくださいね」
「はい、ありがとうございます」
これだけ数があるとなれば調べる時間も相当だと内心冷や汗を垂らす。
やるぞ、と覚悟を決めて、分類表を元に聖女に関する書物のある場所へ移動した。
表紙の題目や気になる本の冒頭の目次ページを確認しながら、格階層に置いてあるテーブルに並べていく。
歴史・文化の項目に当てはまる本だけでも、聖女に関するものは30冊以上あるようだが、リネッタとネルソンの手に余るので20冊程度にとどめた。
ページを開く音が忙しなく広い空間に響き渡る。時折、ネルソンと二人でこの記述はどういうことか、と相談し合ったり、気になった記述を屋敷から持ってきた手帳にメモするためのペンを走らせる音が心地よく空間を支配する。
外の景色が見えない地下空間なせいか、時間の流れが不透明で緩やかに思えた。
「聖女の存在が昔からルナーラ王国にしかないことは授業でも習っていたけれど、そもそもルーツが突然変異なのか理由があるのか、そこがわかりにくいわね」
「それでしたら、先ほどの本の参考文献が役立つかもしれません」
そう言ってネルソンはタイトルから文献を探し、2階層下の本を取ってリネッタの元に戻ってきた。
だいぶ古びたカバーは色褪せ、四隅がボロボロと剥げている。なんと100年前の書物らしい。
丁重に受け取ったリネッタがページを開くと、古めかしい印刷技術によって印字された独特なフォントが広がっている。少し読みづらい文字列と文体に目を凝らしながらも、リネッタはその本の内容に集中した。
その間、ネルソンは先ほど並べたうちの別の本を手にとって同じように読み進める。
「………"歓謝水の儀式"…?」
見慣れない単語にひっかかり、文字の上を滑らせていた指を止める。
そしてそのページの内容を章の始まりからしっかりと読み進めてみる。
どうやらその内容は、リネッタが探していた「聖女の始まり」を記すものであった。
//今から1300年前、現ルナーラ王国に住み着いた民族は、さまざまな姿に変わる「水」の存在に信仰を持つようになった。特に海は、漁師の稼ぎ場でもあり食料の宝庫でもあり、そして何より人が死ぬ場所でもあった。海と川と雨に生かされてきたルナーラ王国の人々は、自分たちの命のルーツは水にあると信じ、その安定のために水への信仰を始めた。
(100年前の書物であるため、ここに書かれる1300年前という記述は、今から約1400年前となる)
//そのうちに行われるようになった「歓謝水の儀式」では、人々が見守る中複数名が船に乗り沖に出て、選ばれた女性の髪の毛と、水によって育てられた十分な作物の数々をお供物として包んで海に沈めた。人々がその行動に合わせて祈ることで、安寧と豊穣を願ったのだという。
//そのうち、女性の選定が厳しくなっていった。初めは髪のみだった貢物も、いずれは命になっていったからだ。最初は罪人の女だったが、海の荒れようが厳しくなっていった。そこで人々は、逆に容姿端麗で疵のない女性に変えた。選出の条件を変えて繰り返すうちに、青い髪を持つ美しい女性になっていった。
伝統が続くうちに、青い髪の女性は生まれてからすぐに隔離されて生贄選出のための施設に入れられるようになった。
//これが聖堂の始まりとされる。
「………」
リネッタは聖堂の起源の残酷さに苦しい表情を浮かべた。
そして同時に、生贄の条件となる青い髪の女性がベアトリスに当てはまっていることに気づく。
//捧げ物が生贄に変わってしばらくのこと、生贄に選出される女性の条件が聖堂の中でも特に信心深い者となっていった。儀式の形骸化に祟りが続いた結果、人々が長い年月をかけて生贄を神聖化させたためである。名誉となった生贄の役割は、人々の憧れの対象になった。
「形骸化による祟り……?」
気になるワードに引っ掛かるも、この本の中にはこれ以上その部分に言及するものはなかった。
リネッタはひとまずそこに栞を挟み、読み進める。
//詳しい年月は残っていないが、その生贄を捧げる儀式が続いた中で一人海から戻ってくる事件があった。確実に沈んだはずだった生贄であった彼女は、ある朝、海岸にずぶ濡れのまま2本足で立っていた。太陽を背にした彼女の姿は宝石のように煌めいていたという目撃情報が残っている。誰もが亡霊だと恐れた彼女こそが、一人目の聖女である。聖女は、最も信心深く海を愛した女性が死をも超越して与えられた神からの役割であった。
//それから聖女はルナーラ王国に一人生まれるようになった。周期は聖女の寿命と関係していた。これまでの儀式と生贄の対価とでも言うように尽きることはなく、現代にまで至っている。聖女の条件として残るのは青い髪の女性。聖堂に渡される年齢であった幼い頃に魔力が発動する。聖女は国のために水を浄化しなければならない。ここまで続けば、もはや呪いである。
//我々は海への感謝を忘れてはならない。聖女がいなくなった時は、きっと海から見放されたときであろう。
リネッタは本を閉じた。そして更なる書物の探索を始めた。
海への感謝。水と共に生きてきたルナーラ王国の人々。汚染水を浄化できなかったベアトリス。力を失った時………それは聖女がいなくなった時に相当してしまうのではないか?
リネッタは恐ろしくて嫌な予感を覚えた。
「リネッタ様、本日はもう」
「……あ」
時間はあっという間に過ぎていた。きっと外はもう真っ暗になっているであろう。そんな時間になっている。
光度の変わらない禁書庫内では感覚が鈍るようで、リネッタは不思議な気持ちになっていた。
名残惜しくも、一つ一つ本を片付けていく。
綺麗に整えば、再び禁書庫は固く扉を閉じられることになった。
外に出れば思った通り、すっかり深い夜空が広がっている。波の音がいつもよりも大きく聞こえるということは、きっとまだ荒れているのかもしれない。夜の海は姿が見えず、音だけが激しくて恐怖を駆り立てるようだった。
怒っているのだろうか。
だから聖女の力がなくなってしまったのだろうか。
本を読んですっかり歴史の当事者のような感覚になったリネッタは、そんなことを考えた。
「次は、今のルナーラ王国をしっかり理解しなくちゃ」
明日のシルビオへの報告をどうまとめようか。帰りの馬車ではすっかり考え込んで口を開くことはなかった。
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