第35話

聖女の儀式が失敗したことは、まだ公にはなっていない。聖女贔屓の報道社がほとんどだったためか、余計な詮索をする人たちがいなかったのだろう。

もしも、リネッタに関する報道を訂正する際にベアトリスの名誉を傷つけるような書き方をさせていたら、その影響で今頃は聖女非難の報道が出回っていてもおかしくなかった。

改めて、リネッタが箝口令をしいたことは正しかったのだとシルビオは思った。


「ありがとうシルビオ。これで図書館の禁書室に入れるわ」

リネッタはシルビオから栞のような長細い紙を大切に受け取った。


「ああ。念の為ネルソンを連れていってくれ。俺も一緒に行けたらよかったけど…」

あいにく、今日はソレイユ王国とは別の隣国の大臣たちとの交流会があった。郊外のホールを貸し切っているため、午後になったばかりであるが出かける支度をしなくてはならない。

「そのために私が動くんだから、心配しないで。明日は空いているんでしょう?」

「うん。報告は明日のお昼にでも」

「そうするわ」

ニコッと一瞬で眩い笑顔になったリネッタは、そう言ってすぐさま退室するために踵を返す。

思わずシルビオが「まって」と弱々しい声で呼び止めてしまい、不意をついた自分の言葉に少し驚いてしまうくらいだった。振り返ったリネッタも首を傾げて「どうしたの?」と言うが、どうしたいのかわからないのはシルビオ自身も同じで、「いや……」と言葉を濁してしまう。

「ごめん、言いたいことを忘れたみたい」

「珍しいわね……。色々あったし疲れていたりしない? 無理はしないで。思い出したら明日教えてね」

心配そうに、けれどもシルビオを元気づけるように優しく微笑んで、リネッタは改めて退室した。

ふいのため息が漏れてしまい、自分の鼓動が少しだけ速まっていたのだとようやく気づく。

コンコンコンとドアが叩かれ、入室してきたシルビオの部屋付きメイド長が、シルビオの様子を窺って「あら」とおどけたように言う。

「何か嬉しいことでもありましたか?」

「え? あっ、え? そういう顔をしていたか…?」

「ふふふ。殿下はお言葉だけでなく、表情や行動も素直なお方ですから」

「そ、そうなのか…?」

当然だと言うように返されたメイド長の言葉に、(気をつけよう……)と口元を隠すように右手で覆って考え込んでしまうのであった。



リネッタはシルビオに言われた通り、ネルソンを伴って図書館へ向かうことにした。

自分の住む屋敷の一階にある騎士部屋に訪れて、要件を伝えてネルソンに準備をさせている間、ソレイユ王国からの馴染みであるマテオが「またどうして図書館に?」とフランクに尋ねる。今日はマテオをオフにさせているので、格好もシンプルで鍛えられた体格がむしろ目立つような姿である。しかし彼に手には本があり、インテリな雰囲気も持ち合わせる。

「聖女様に関する調べものよ」

「それって、聖女様のお力のことですか?」

濁しつつも、マテオの苦々しい表情からどうやら現状を知っているのだと理解したリネッタは、少し周囲を警戒したのちに小さく頷いた。

「もしかして王宮の方々全員知ってる……なんてことはないわよね?」

聖女の力が使えない、という大ニュースは、国民に広まってしまえば混乱になる。王宮という特別な場所といえども、例えばメイドや料理人や庭師などといった王族とは距離のある立場の人々は王都から仕事をしに王宮まで赴いているのである。もしも彼らが気の迷いで一般市民に秘密をもらそうものなら、混乱の余波が広まることだろう。

リネッタの警戒はそこにあった。ひとまず今、騎士部屋にはネルソンとマテオとリネッタ本人しかいない。

「いんや、俺たちくらいなもんですよ。カロリーナから聞いてないですか?」

「ううん。私室でもその話はしないようにって決めているから」

「それがいい。俺とネルソン、カロリーナの三人だけが知っている状態です。陛下や殿下の周りの人はどれくらいか知りませんけど…側近になるような騎士は知っていないと動きづらいですから」

「なるほどね。教えてくれてありがとう」

いえいえ、とマテオがヘラヘラ笑えば、準備の終わったネルソンがマテオの脳天にチョップを繰り出した。

「った!!!」

籠手をはめているので衝撃が酷かったらしく、マテオは本を落とし、頭を押さえ込むようにして縮こまった。

「相変わらずリネッタ様への態度が軽薄だ。騎士として恥ずかしくないのか?」

「いいのよネルソン、私が許可をしているんだから」

「しかし常日頃からたださねば、国民の前で無礼を働くことになりかねません」

「そ、それもそうかも……?」

「姫様、何年やってきたと思ってるんですか! 心配しなくていいですよ!」

泣き言のように訴えるマテオに、リネッタはいたずらな笑顔を浮かべて「冗談よ」と返した。

「逆に、ネルソンも私にもっと気さくでもいいのよ」

とリネッタが言えば、今度はネルソンが苦々しく眉を顰めた。返事もごにょごにょともつれ、どうしたものかと困り果てて、しまいには青ざめていったのでリネッタが折れて「うそうそ、いつも通りでお願いね! いきましょう!」と慌てて部屋を出るのであった。マテオがひらひらと手を振った。


「改めて、図書館までお願いね」

「はい………」

「…………いつも通りでいいからね」

「はい。では」


コホン、とネルソンが咳払いをすれば、しゃんとした姿勢に戻り、まっすぐに切り揃えられた毛先が一列に並べられた。

馬車を手配し、二人で乗り込む。揺れる車体の中で、リネッタはシルビオからもらった禁書庫入場許可証となる紙を大切そうに眺めていた。

「私を信頼してくれて、本当に温かい人たちだわ」

しみじみと、言葉を紡ぐ。

「まだ隣国の姫という立場の私を信じてくれる両陛下とシルビオに、本当に救われているわ。必然的にやる気も出ちゃうよね」

嬉しそうに、頑張らなくちゃなあ、と呟くリネッタに、ネルソンがおずおずと口をひらく。

「…………王家の皆様が素晴らしい方々なのは、勿論そうなのですが……」

馬車が石畳の上を走る音にかき消されないよう、一音一音伝わるよう意識して。

「それをいただけたのは、貴方様がこれまで積み上げた信頼故です。リネッタ様でなければ同じ立場でも許されたかどうかわかりません」

「…………そ、……っか」

ネルソンはてっきり、いつものようにリネッタが微笑んでくれるのではないかと少し期待していた。

しかしリネッタは困ったように眉を下げ、頬をかいている。

「……何か、不遜なことを言ってしまったでしょうか……」

「違うの! ここはきっと嬉しいなあ〜って喜ぶべきところなんだろうけど、なんだろう……」

リネッタの肩が震える。しかしそれは寒さや怯えからではない。リネッタの表情は挑戦的に燃えている。

「信頼が崩れるのは一瞬でしょう。もっと、緊張を持って励まなければならないと思ったわ」

「リネッタ様……」

「ありがとうネルソン。今私が頑張るのは、国民のためだってこと改めて考え直せた。早く手がかりが見つかるように行動しないとね」


外の喧騒はいつの間にか収まっていた。図書館の近くは人気が多くない。波のさざめきと、たまに学生が訪れた時の足音、そして近くには聖堂も存在するため、聖職者たちの礼拝の音が聞こえるくらいだ。


リネッタとネルソンが降り立ち、道を横切って図書館へ行こうとする時だった。


「……あれって」


図書館の右奥に見える砂浜に、特徴的な水色髪を見かける。

海風に揺られて長い髪がバラバラと流されている。彼女は、そこから微動だにしない。

少しだけ違和感をおぼえたリネッタは、その正体が誰であるかの確信を持ちながらも浜辺に方向を変えた。


「リネッタ様」

「隠れたところにいて」


石で敷き詰められた地面が、次第に砂の層を厚くしていく。リネッタの足音にジャリッというノイズが混じれば、立ち尽くす聖女———ベアトリスは、少しだけ反応した。

だが彼女は振り返らず、まだ海を眺めている。


「ベアトリス様」


臆することなく、リネッタは声をかけた。心配も同情もなく、ただ名前を呼んだ。

ベアトリスは吐き捨てるように乾いた笑いを一つこぼせば、自分の足元に視線を落とした。

リネッタからはベアトリスの表情が見えない。


「今日は少し風が強いですし、このままだと海も荒れます。聖堂に戻られた方が良いと思います」

「リネッタ様って、ソレイユ王国?の人なんですよね? 内陸の人なのに随分海を見る目があるんですね」

「……6年住んでいますから」

「6年、6年なんですねえ……私がこの国にいた期間と比べたら半分じゃないですか」


煽るようなベアトリスの言葉に、リネッタは閉口する。

返事のないリネッタの様子を窺うためか、ベアトリスはようやくこちらへ振り返った。


「なんでここにいるんですか?」

ベアトリスの表情が歪む。忌々しいと言わんばかりにリネッタを見ている。


「調べ物です。図書館に用があって。そしたらベアトリス様が見えましたから…」

「なんでわざわざ声をかけるんですか? 私たちってそんなに仲良しでしたっけ?」

「……」


婚約者の立場を争うことが決定した日、ベアトリスからの拒絶をリネッタは実感していた。彼女のこれまでの敵対心と、シルビオとの絆の差を感じたことによる引け目で、リネッタもベアトリスに関して良い感情を持っているとは言えない。

けれども、彼女と祭りの王都を一緒に散策したあの日、確かに仲良くなれればと思った気持ちも新鮮に呼び起こされてしまって、リネッタはベアトリスの言葉に傷ついたような気持ちになった。


「っていうか、その顔、さっきから不自然ですよリネッタ様」

「え…?」

「全部知ってるくせに、刺激しないように取り繕ってますよね? 私の、聖女の力、使えなくなっちゃったってこと…!」


ベアトリスの語気が強まる。思わずリネッタの体が硬くなった。


「……今も……?」

「当たり前でしょう!? 使えていたら、こんな……ああ、ああ、もう……!」

ベアトリスは虫を払うように頭を振る。

「あなたは、あなたはいいわよね、だって、ソレイユ王国のお姫様じゃないですか! なーんにもしなくたって、シルビオの隣に立つ資格があって!」

ベアトリスの目元が赤くなる。今にも怒りで泣き出しそうな顔で、声を荒げている。

「私には何もない! 聖女じゃなくなったらシルビオの隣に立つ資格がない! あなたにはわからないでしょう? 何もなくなって、敵国でどん底の生活をして、父が亡くなって、悲しくて、苦しくて、怖くて、でも聖女だってわかって嬉しくて、やっとシルビオの隣に立てるって確信したのに…! 全部、全部なくなっちゃって…!!」

柔らかくて耳心地の良いベアトリスの声が、キンとリネッタの鼓膜に響く。

「もう思い出しかない、なのに、シルビオはもう思い出よりも今が大事で、なら私は聖女でいなくちゃいけないじゃない。だって、シルビオと結婚するためにはシルビオにとって価値のある人じゃないといけないんだもの」

リネッタは唇を引き締めてベアトリスの言葉を受け入れる。

「ねえリネッタ様、嬉しい?」

「……」

「嬉しいでしょうね。もう何もしなくても婚約者の立場は貴女のものよ。良かったわね、邪魔者が失墜して。こんな結果になって、婚約者争いなんて馬鹿みたい! 聖女の立場も、婚約者の立場も、私に夢を見させて結局こうして消えるの」

ベアトリスは天を見上げる。曇天の空は重々しい。

「もう、どうでもいい。こんな国、戻るんじゃなかった……」

やるせない呟きに、リネッタは眉間に皺を寄せた。

ざくざくと砂浜を踏み締めて、ベアトリスの近くに行けば、ベアトリスの肩を強く掴む。


———無礼だと思われてもいい。


「それでも貴女は、聖女です!」

「はあ……?」

「私が、貴女の力を取り戻せるよう、尽力しますから」

「何言って」

「甘えたことを言わないでください!!」


リネッタの叫びに呼応するように、波が激しく打ちつけた。

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