第33話

リネッタが起き上がったのは、倒れ込んでから4日が経ってからだった。

明け方の、まだ日が昇りきらないピンク色の空が窓の向こうにあるのをぼんやりと眺めていると、部屋にこっそり入ってきたメイドのロエナが、そんなリネッタの姿を確認しては歓喜で声を上げた。

「姫様! よかった…!よかったです! 体を起こせるようになったのですね!」

朝早いので、なるべく小声で、しかし興奮が抑えられず息を上げてロエナは自身の赤髪を振り乱さんばかりの勢いでリネッタに駆け寄っては抱きついた。

「えっと、お、おはよう…?」

「ええ! おはようございます! 本当に良かった…!再浄化の水が効いたんですね!」

「再浄化の水……?」

ロエナの言葉を反芻するうちに、リネッタはようやく現実味を取り戻し、ハッとする。

「ね、ねえ、今って何日? 私はどれくらい眠っていたの?」

ロエナを引き剥がしてリネッタが真剣に問う。掴まれた肩への力強さに必死さを感じると、ロエナの表情も引き締まった。

「姫様、弟君のリク様からお手紙をもらった日は覚えていらっしゃいますか?」

「リクからの手紙……ええ、読んだ記憶が朧げに…」

「直後に倒れて、それから4日ほど姫様はベッドから動けない状態でした。その間にソレイユ王国から聖堂の人たちが訪問して、聖女様に浄化依頼を持ってきて、多分今日辺りに出発するかあるいは帰ってくるかというところで…」

「ソレイユ王国の聖堂…!?」

リネッタがまさに警戒していた名前が出てくるものだから、ドクンと心臓が跳ねてその拍子にリネッタは咳き込んだ。

「姫様! どうか落ち着いて」

咳き込むうちに、体が活動を活発にしたのか、リネッタは様々なことが気になって焦燥感を覚える。

ひとまず中も外も身を綺麗にしなければとロエナに要望を出して、一度落ち着くことに決めた。



騎士たちが目覚めるくらいの時間に、すっかり屋敷は昼間のような慌ただしさを取り戻した。

リネッタの部屋にはカロリーナを筆頭に、ナナ、キャサリン、ロエナの、部屋付きのメイドたちが集まってリネッタの身の回りを整えていた。

「ロエナから軽く話は聞いたけれど、改めて詳しく説明してもらってもいいかしら」

ようやく体から不快感もなくなり、ベッドに腰掛ける形でカロリーナから白湯を受け取る。

「姫様が眠っていた間のことを順番に説明いたしますね」

カロリーナがリネッタの前に跪き、目を合わせて詳細を告げる。

倒れてから王宮のメイドも協力してくれたこと。風邪自体はラルからもらった可能性があること、ただし今流行りの感染症の恐れはないので安心してほしいこと。ソレイユ王国の聖堂が訪問し浄水機械から生み出された汚染水の浄化を依頼したこと。それと同じくしてカロリーナが聖女の生み出す再浄化の水を求め、なんとか得られたこと。そしてベアトリスはソレイユ王国の聖堂からの依頼に応えて、シルビオやアレハンドロ王、そしてルナーラ王国の聖堂長のレミーと共に今国境付近の村にて業務を行っていること。

リネッタは一つ一つに頷きながら、噛み砕いて状況を理解した。

ソレイユの聖堂が汚染水の浄化を頼んだ経緯については、ホセの一件から不自然なタイミングであると感じざるを得ないが、客観的には違和感程度で済まされる。ひとまずそれは置いておき、次に再浄化の水について考えた。

「ベアトリス様が、力を使ってくださったのね」

「………それが……」

一度『他国の姫だから』という理由で断られていることについて、カロリーナは伏せていた。リネッタが感謝と嬉しさで微笑むのを見て、胸を痛める。

カロリーナの表情の変化に、リネッタは敏感に気付いた。

「カロリーナ、言って」

「っ………」

リネッタの手がカロリーナの腕に伸びる。さすられるように触れたその手の温もりを感じて、カロリーナは深く息を吐くと言葉を続けた。

「再浄化の水は、シルビオ殿下の計らいで得ることができたのです。それまではもはや門前払いのようなもので」

「……」

「殿下が国民のためになるからと聖女様へ説得なさったおかげで、姫様の元にも届けることが叶ったのです。私のお願いだけでは、及びませんでした」

シルビオの従者である女性騎士からそれとなく状況を伝えられたカロリーナは、ベアトリスがどのような言葉でこれを生み出すに至ったかを察した。そして再び、不甲斐なさを感じて苦々しい気分になった。

「でも、ベアトリス様は、私の元にこれが渡ると知りつつも作ってくださったのね」

「姫様……」

「ベアトリス様がご帰還された際には、ちゃんとお礼をしに行かなくちゃ。何か良い贈り物をしないといけないから、あとで考えましょう」

どんな事情はあれども、ベアトリスの力によって回復したのは間違いない。リネッタの言葉に少し黙っていたカロリーナだったが、ようやく頷いた。

「シルビオたちはいつ頃戻るの?」

「明日の夕方くらいになるのではと予想されています。国境付近の村へは移動に半日かかるそうですから」

「それじゃあ今は国政は大臣が執り行っていらっしゃるの? それとも王妃様が農村の視察からお帰りになったのかしら」

聖女が就任してからすぐにルナーラ王国の王妃ルシアは国中の農作物の視察に出向いていた。彼女はもともと農家で生まれ育ち、その後高貴な血筋だと判明して紆余曲折があったのちに経済や政務への取り組みの姿勢から王妃に推された経緯があった。

王アレハンドロが不在の時は、彼女が王の名代として取り仕切ることがある。

「はいその通りです。昨晩姫様のお見舞いにもいらっしゃってましたよ」

「な、なんてこと……絶対に後でお礼に伺わねば」

寝込んでドロドロだった姿を見られたことと、うなされて碌な応対ができなかったことを恥じてリネッタは項垂れた。仕方ないこととはいえ、まだそんな姿を見せられるほどの心構えにはなっていない。

「姫様、もし余裕がありましたら王宮の庭を散歩でもしましょう」

ナナが日傘と帽子を見せるようにして提案した。「それもそうですね」とカロリーナがようやく立ち上がり、リネッタの外履き用の靴を並べる。

「みんな、改めてありがとう。体力を戻していかないとね…」

キャサリンとロエナに支えられながら、リネッタは実に4日ぶりに自らの力で立った。体が思うように動かないことはあるが、思ったほど衰弱していなかったので、よし、と手を握った。

「カロリーナ、部屋に戻ったらリクからの手紙をもう一度確認したいから、用意してくれると助かるわ」

「承知いたしました」

起き上がれて思考が正常に働くのなら、止まっている暇はない。

自分が考えるべきことを進めるため、行動に移すのだった。



***



もう夕日が山間に沈み込もうとしている。

まばらに敷き詰められた雲がオレンジの輪郭を携えて静かに流れる中、ベアトリスは薄暗くなった外ですっかり絶望していた。

国境付近の村には多くはなくとも人が住みついている。主に狩りで生計を立てるものたちが、水の浄化を扱う聖女に興味津々で集まっていた。そんな観衆の中、村で一番ひらけた広場に置いてある、象のように大きな複数の水瓶を前にベアトリスは浄化の儀式を無事完遂させるはずだった。

さっさと終わらせてシルビオと仲睦まじくデートをしている予定だった。

それなのに。


「どういうことですか! 貴女正真正銘の聖女ですよねえ!?」

ソレイユ王国の聖職者の一人が失望の声を上げた。ベアトリスの肩がびくりと跳ねて、ルナーラ王国の人間も睨みを利かせる。声を上げた聖職者は一瞬で萎縮したが、ベアトリスの表情はさらに青くなった。

観衆は不穏な空気にざわつく。

「明日の朝、もう一度試そう。聖女様は長旅でお疲れやもしれん」

原因もわからぬまま、どうしようもないのでひとまず儀式を取りやめることにした。

この場で絶対の発言権を持つアレハンドロの言葉で、人々は動き出した。

村人たちは解散し、ルナーラ王国の聖職者たちは聖堂長のレミーの指導の元、片付けを始める。

震えるベアトリスの元にはシルビオが向かった。ベアトリスの母親ネビアはこの遠征についてきていないので、彼女を親身に慰める人間は他にいない。

「ベアト、宿に戻ろう」

「嫌……ダメよ、ちゃんと、ちゃんと仕事を終わらせてじゃないと、シルビオとデートできない……」

「今日はもう休まないと、明日完遂させるためにも」

「こんなんじゃないの!! だって私は、聖女だから、こんなはずじゃなくて……なんでかしら、なんで……こんなんじゃ……」

ショックで錯乱しているベアトリスを支えて、なんとか宿まで連れ歩いた。彼女の護衛としてシルビオ付きの女性騎士に渡すが、ベアトリスはシルビオの手を掴んで話さなかった。


「お願い、今夜は一緒にいて」


弱々しい彼女の姿は、扇情的にすら映る。一瞬ドキッとするも、自分が焦がれていた頃のベアトリスと重なることはなく、そのチグハグさにシルビオは動揺した。

一緒にいてほしいという願いに応えるわけにはいかないシルビオは、彼女の手を解いた。ショックで目を見開くベアトリスがよろけて、女性騎士が支える。

「余計なことをせず、しっかり休んでくれ。おやすみ」

それでも優しく声をかけるシルビオ。どこか上の空で返事もしないベアトリスを心配に思いつつも、女性騎士に目配せをしたら彼はこの場を後にした。

「聖女様、こちらに……」

女性騎士は優しく背中に手を添えてベアトリスを部屋に誘導するも、ベアトリスは何かに脅迫されたかのように切羽詰まった表情でぶつぶつと呟く。

何事かと思わず女性騎士は声を詰まらせ、聞き耳を立てた。

「聖女じゃないと…ちゃんと聖女をしないと、私が聖女じゃないと意味がないんだから……ちゃんとやらなくちゃ、だってそれが運命なんだから、聖女じゃなきゃ意味がないんだから……」

慰めの言葉をかけるのも虚しく、ベアトリスはそのまま部屋に入って勢いよく扉を閉めてしまった。女性騎士は締め出されたも同然で、ただただ困惑した。



しかし次の日の儀式でも、ほんのりと体が光る程度で水の浄化には至らなかった。

どういうことなのだと、ソレイユ王国とルナーラ王国の両聖職者たちも見当がつかず、頭を抱える。

「聖女様、お体の加減は…」

「元気よ!! でも、でも、力が出ないの!!」

ルナーラ王国の聖堂長レミーが労っても、ベアトリスは怒鳴るようにして抗議する。事実、彼女の体調が悪いようには見えない。けれども力が出せずに焦って精神的に追い込まれていることはわかった。

シルビオは、再浄化の水を生み出している時に酷く疲労していたベアトリスの姿を思い出していた。


「聖女の力に、限界がきたのか……?」


しかし過去の文献にそういった記述は一度もない。聖女は聖女としての役割を受けたら次世代へ引き継ぎの儀式を行うまで、恒常的に力を扱っていた。聖女の体調不良如何は関係なかった。

ならばなぜ、現にベアトリスは力を発揮できないのだろうか。


「一度、聖堂に戻りましょう」

レミーが気まずい空気の中決断を述べた。

「そんな、それじゃあこの汚染水はどうなるんですか!」

ソレイユ王国の聖堂長が額に汗を浮かべて声を荒げる。

「聖女様お一人に負担をかけている以上、今はそんなことを言ってる場合じゃないでしょう!」

「!!」

気弱そうな見た目のレミーが大声を出すので、ソレイユ王国の聖堂長は驚き仰け反った。

シルビオもアレハンドロ王と目を合わせて頷く。

「レミーの言うとおりだ。ソレイユ王国の聖堂には申し訳ないが、機会を改めさせてくれ。汚染水の保管はこちらが引き受けよう」

村の迷惑になるが、謝礼金の手配などを行い問題解決まで蓋をして広場での放置が決まった。異臭問題もあるが、ここでならば村の中心部には影響が出ないので妥協点といったところだ。


各人は帰還の準備を始めた。すっかり意気消沈したベアトリスは、先に馬車で休んでいる。

気がかりなシルビオが馬車に入る前にベアトリスに声をかけたが、首を大きく横に振られたので為す術がなかった。

「シルビオ」

アレハンドロ王が呼びかける。

「戻ったら即、聖女様の不調の原因を探るのだ」

「はい、そのつもりです」

「ならよい」

聖女は国の財産。しかし他の政務で手いっぱいな王が直接原因究明に動くわけにはいかない。シルビオは自分が動かねばという覚悟を決めていた。

ソレイユ王国の聖堂による怪しい動きも気になるところではあるが、今回同行して彼らの様子を探るも、依頼以上の動きはないように思えた。

シルビオはソレイユの聖職者たちの集団を眺める。彼らは一ヶ所に集まって何やら神妙な顔つきで話し合っているが、その内容を直接探ることはできない。ここで放置するとなるともどかしさを感じる。

けれども心のどこかで、ベアトリスの不調とソレイユ王国の聖堂の依頼は繋がりがあるのではないかと感じていた。

———余計な雑念は真相をぼやかす恐れがあるか。

シルビオはひとまず、聖職者たちから視線を外し、帰り支度に専念した。



***



リネッタが目覚めて次の日のことである。

すっかり日常の如く身支度を終えて食事を終えると、リネッタの屋敷にお見舞いだと言って、学園の先輩であるロマリアと、友人のアメリアとマリーが訪れた。

「あらなんだ、元気じゃないの」

自ら出迎えたリネッタを見て、見舞いの花を手にロマリアがあっけらかんと言った。

「お見舞い、ありがとうございます。本調子にはあと一歩というところなので…」

「じゃあ気持ちを受け取ってちょうだいね。はい」

ロマリアがずいっと花束を差し出し、それに倣ってアメリアからフルーツを、マリーからハーブを差し出された。

一気に両手いっぱいになったリネッタが少し戸惑っていると、王宮の方からリネッタの騎士であるネルソンが小走りに駆け寄ってくる。

「ご歓談中失礼致します」

と断りを入れて、ネルソンはリネッタに耳打ちをする。

それを聞いたリネッタは顔色を変え、ロマリアたちをひとまず屋敷の客間へ誘導させると、自身の持っていたものを側にいたメイドのキャサリンに渡して、ネルソンと共に王宮へ急いだ。

「何があったんでしょう…」

慌ただしい様子に、マリーがポツリと呟く。


そんなリネッタが向かった先は謁見の間だった。

現在アレハンドロ王とシルビオが出払っているので、そこで応対するのはルナーラ王妃のルシアである。

銀髪の癖の強い長髪をたなびかせて、リネッタの入室に振り返る。

「病み上がりだと言うのに、朝から呼びつけてごめんなさい」

「いえ、元気です。私のことよりも……」

ルシアの背後に、二人の青年が立っている。リネッタがその姿をとらえると、少し、懐かしさで込み上げるものがあった。


「お久しぶりです、リネッタ姉様」


そう跪くのはリネッタの2番目の弟、リクであり、もう一人はリクの補佐として共に聖職者の道を歩む従者のトールであった。

再会の喜びも束の間、リネッタは表情を引き締めて問う。

「ルナーラ王国への急な訪問の理由はなんでしょう」

リクは立ち上がり、正面からリネッタとルシアに言った。


「我が国の王に無断で、聖堂の者たちがルナーラ王国に向かったので急遽後を追いました。これはともすれば、我が国の聖堂とソレイユ王族の対立のきっかけになるかもしれません」


リクの言葉に、リネッタとルシアの背筋が凍った。

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